第4話 理解したいということ
翌朝。
王城の庭園は、昨日の訓練場での出来事が嘘のように穏やかだった。
柔らかな朝の日差し。風に揺れる木々。どこからか聞こえてくる鳥の声。
その中で、エリアーナはひとり、花壇のそばに立っていた。
「おはようございます、姫様」
声をかけると、金色の髪が揺れた。
振り返ったエリアーナは、ノクスの姿を認めると。
「おはよう、ノクス」
いつも通りに笑った。
少なくとも、そう見えた。
「今日はちゃんと起きたんですね」
「起きたよ?」
「それは何よりです」
「……なんでちょっとびっくりしてるの?」
「気のせいです」
初日に、眠ったまま学院まで運ばされた身としては、少しくらい疑っても許されるだろう。
エリアーナが、むう、と頬を膨らませる。
それも束の間――彼女は何かを思い出したように、ノクスの顔をじっと見た。
「……ねえ、ノクス?」
「はい」
「昨日の、見たよね?」
何を、とは聞かなかった。
昨日――王城の訓練場で見たもの。
ほんの少し力を借りるだけだったはずの火の精霊が、訓練用の標的をほとんど消し飛ばした。
ノクスは頷く。
「見ました」
「……そっか」
エリアーナの視線が落ちる。
昨日までは気づかなかった。
いや、気づけなかったのかもしれない。
彼女が人の多い場所を避けること。
『バケモノの子供』という言葉を聞いても、聞こえなかったように振る舞うこと。
そして、自分にしか見えない存在と話しているときだけ、どこか安心したように笑うこと。
エリアーナは、自分の手を見つめていた。
小さな手だった。
昨日見た炎とは、とても結びつかない。
「ノクス」
「はい」
「私のこと、怖くないの?」
まっすぐな問いだった。
けれど、その声は、ほんの少しだけ小さかった。
ノクスはエリアーナを見る。
昨日の光景を思い出す。
熱気。轟音。消えた標的。
もし、あれが人へ向けられたなら? そう考えれば、恐ろしい力だ。
だが――。
「怖くはありません」
答えは、すぐに出た。
エリアーナが顔を上げる。
「……ほんと?」
「はい」
「昨日、あんなの見たのに?」
「見ました」
「すごい音したよ?」
「しましたね」
「的、なくなっちゃったよ?」
「なくなりましたね」
「…………」
エリアーナが困ったような顔になる。
「じゃあ、なんで?」
ノクスは少し考えた。
精霊について、自分は何も知らない。
昨日、ようやく精霊使いという存在を実感したばかりだ。
エリアーナが見ているものも。聞いているものも。
彼女が持つ力の大きさも、その力がどのような理屈で働いているのかも、まだ分からないことばかりだった。
だから。
「理解は、できていません」
正直に答えた。
エリアーナが瞬きをする。
「ですが……理解したいとは、思っています」
「…………」
エリアーナは何も言わなかった。
ただ、大きな赤い瞳でノクスを見ている。
やがて――。
「……変なの」
ぽつりと呟いた。
「そうですか?」
「うん」
「どのあたりが?」
「普通は、分からなかったら怖いんじゃないの?」
ノクスは少し考える。
確かに、そういうものかもしれない。
分からないものを警戒すること自体は間違っていない。
戦場ならば、なおさらだ。
「だから、知るんです」
「……知る?」
「分からないままにしておくほうが危険ですから」
「…………」
「少なくとも俺は、そうしてきました」
敵がどんな武器を使うのか。
どんな戦い方をするのか。
地形はどうなっているのか。
何が危険なのか。
知らなければ判断できない。
それは精霊であっても、きっと同じなのだろう。
もっとも。
「……精霊については、昨日知ったことのほうが多いですが」
そう付け足すと、エリアーナがふっと笑った。
「ノクス、精霊さんのこと全然知らないもんね」
「否定できません」
「火の精霊さん、びっくりしてたよ」
「なぜです?」
「『この人、ほんとうに何も見えてない』って」
「……見えないものは仕方ないでしょう」
今度は、声を立てて笑った。
ようやく、いつものエリアーナに戻った気がした。
少しして。
「ねえ、ノクス」
もう一度、呼ばれる。
「はい」
「私ね」
エリアーナは、自分の手を見つめた。
「ちゃんとできるようになりたい」
「何をです?」
「精霊さんたちの力を借りること」
ノクスは黙って続きを待った。
「昨日みたいになること、たまにあるの」
「……たまに?」
「うん。ちょっとだけってお願いしても、いっぱい力を貸してくれたり」
どうやら精霊たちは、随分と彼女に甘いらしい。
「私のこと、好きだからって」
「なるほど」
「でもね」
エリアーナの指先が、きゅっと握られる。
「誰かがいたら、危ないでしょう?」
昨日、あっけなく消えた標的を思い出す。
ノクスにも、ようやく彼女の言いたいことが分かった。
エリアーナ自身が望んでいるわけではない。
戦いたいのでもない。
強くなりたいのでもない。
ただ、自分が持っているものを、きちんと扱えるようになりたい。
「だから」
エリアーナが顔を上げる。
「ノクス、私に教えて」
「…………」
「だめ?」
ノクスは沈黙した。
そして――。
「俺は精霊が見えません」
「……あ」
「魔導師でもありません」
「…………」
「昨日、精霊使いがどういうものなのか知ったばかりです」
「…………」
エリアーナが固まった。
どうやら今、気づいたらしい。
「……どうしよう」
「俺に聞かれても困ります」
しばし、互いに黙り込んでしまった。
風が吹く。
エリアーナの金色の髪が揺れた。
それからノクスは、小さく息を吐いた。
「ですが」
「んー?」
「俺に教えられることなら、教えます」
エリアーナが目を丸くする。
「ほんと?」
「はい」
剣の扱い。
身体の使い方。
危険から身を守る方法。
体力のつけ方。
そして――戦わずに済むなら、逃げること。
ノクスがこれまで身につけてきたものの中には、十二歳の少女にも教えられることがある。
「精霊については、母上たちの力を借りましょう」
「フェリア様?」
「はい。俺より遥かに適任です」
「じゃあ、ノクスも一緒に教えてもらう?」
「……俺も?」
「だって」
エリアーナが笑う。
「理解したいんでしょう?」
「…………」
確かに、自分で言った。
ノクスはしばらく黙ったあと。
「そうですね」
そう答えた。
「では、一緒に勉強しましょうか」
「うん!」
嬉しそうな声が、朝の庭園に響く。
風が吹いた。
花が揺れる。
エリアーナが、ふと何もない場所へ目を向けた。
そして楽しそうに笑った。
「精霊さんたちも賛成って」
「……そうですか」
やはり、ノクスには何も見えない。
けれど、見えないから知らなくていいわけではない。
分からないから、遠ざければいいわけでもない。
まずは知ることから。
十二歳の精霊使いと。
二十歳の騎士。
ふたりはまだ、お互いのことをほとんど知らない。
だからこそ、ここから、少しずつ知っていけばいい。
それがきっとふたりにとっての、最初の一歩だった。




