第3話 精霊使い
エリアーナ・ルミナリアが、規格外の魔力を持っている。
その話自体は、ノクスも知っていた。
第一皇女の専属護衛を命じられる以前から、噂くらいは耳にしている。
生まれながらにして、類を見ないほどの魔力を持つ少女。
幼い頃から精霊の姿を見ることができ、言葉を交わすことさえできる――精霊使い。
けれどノクスにとって、それはあくまで知識でしかなかった。
精霊を見ることができない彼にとっては、なおさらだ。
だからこそ。
「一度、実際に見ておいたほうがいいでしょうね」
そう言ったのは、フェリア・ルシアンだった。
ノクスの実母であり、稀代の大魔導師として、王立騎士団に所属する魔導師たちを束ねる女性でもある。
魔法に関する知識と経験では、王国内でも彼女の右に出る者はほとんどいない。
そして何より、エリアーナが幼い頃から、その規格外の力を見守ってきた人物のひとりだった。
「あなたはこれから、エリアーナ様の一番近くにいることになるでしょう?」
フェリアは息子を見る。母親としてではない。魔導師を束ねる者としての、真剣な眼差しだった。
「なら、知っておくべきよ。あの方が何を見て、どんな力と一緒に生きているのか」
「……分かった」
噂を知っているだけでは足りない。
精霊使いとは、何なのか。
ノクスはまだ、それを知らなかった。
✦ ───────────── ✦
翌日の午後。
王城に設けられた訓練場の一角には、普段よりも厳重な準備がされていた。
使用する区画は完全に封鎖。周囲には結界が張られ、関係者以外は立入禁止。
訓練用の標的は、いつもよりずっと遠くに置かれている。
「……ここまでするのか」
思わず呟いたノクスの隣で、ヴァルクが腕を組んだ。
「する」
王立騎士団長。そして、ノクスの父でもある男は、珍しく真面目な顔をしていた。
「お前も今日は護衛じゃなく、見学者のつもりでいろ。何かあっても勝手に動くな」
「親父」
「団長と呼べ」
「……団長。俺は姫様の専属護衛だぞ」
「だから言ってるんだ。お前が飛び込んでどうにかなる規模じゃない」
ノクスは黙った。
冗談ではない。父の表情を見れば分かる。
その少し先では、フェリアがエリアーナと話をしていた。
王立騎士団を束ねるヴァルクに対し、フェリアは王国に属する魔導師たちを束ねる立場にある。
魔法に関しては、ノクスなどより遥かに詳しい。
その彼女が、安全管理のために自ら立ち会っている。
それだけでも、今日ここで行われることが、通常の魔法訓練ではないことくらい理解できた。
「エリアーナ様」
「はい」
「今日は練習ではありません。ノクスに、あなたの力を見てもらうだけです」
「うん」
「ですから、頑張る必要もありません。いつも通りで大丈夫です」
「はーい」
返事は軽い。
ノクスは眉を寄せた。
本人だけが、普段学院へ通っている時の変わらない様子だった。
✦ ───────────── ✦
「では、始めましょうか」
フェリアの声で、エリアーナが標的へ向き直った。標的までは、かなり距離がある。
「今日は火だけにしましょう」
「火の精霊さん?」
「ええ。ほんの少しだけ、お力を貸してもらってください」
「わかった」
エリアーナが頷く。
ノクスは、その横顔を見ていた。
詠唱は?
魔力の収束は?
魔導師が術を発動する前には、何かしらの兆候がある。
だが、エリアーナは何もしない。
ただ、何もない空間を見上げた。
そして。
「あのね」
誰かに話しかけるように、言った。
「ちょっとだけ、手伝ってくれる?」
瞬間。
空気が変わった。
「――!」
ノクスの身体が反射的に強張る。
熱い。
火など、まだ見えていない。
それなのに、肌を焼くような熱気が一気に訓練場を満たした。
フェリアが即座に片手を上げる。
周囲を覆う結界が強く輝いた。
次の瞬間、炎が生まれた。
いや、これはノクスの知る魔法とは、全く違う。
魔力を練り上げて炎へ変換したようには見えなかった。
まるで最初からそこにあった炎が、エリアーナに呼ばれて姿を現したような――そんな、不自然なほど自然な現象だ。
「……なんだ、これは」
ノクスの呟きに答えたのは、ヴァルクだった。
「見てろ」
エリアーナが標的を指差した。
「お願い」
炎が走る。
直後、ノクスの視界から、標的が消えた。
「…………」
燃えた――のではない。
そこにあったはずのものが、ほとんど残っていない。
焦げた破片が、わずかに地面へ散っているだけだった。
ノクスは、言葉を失った。
戦場で魔法を見たことなら何度もある。
攻撃魔法の威力も知っている。
人間がそれを受ければどうなるかも。
だからこそ……目の前で起きたことの異常さが分かった。
(これを――)
十二歳の少女が?
そう思って隣を見る。
「……あれ?」
当の本人は、首を傾げていた。
「ちょっとだけって言ったのに」
困ったような顔で、何もない空間を見ている。
「もう。張り切らなくてよかったのに」
誰かを叱っている。
ノクスには、やはり何も見えない。
昨日と同じだ。
窓辺で風の精霊と話していたときと。
ただ。
今なら分かる。
本当に、いる。
ノクスに見えないだけで。
エリアーナのそばには、確かに何かがいる。
「フェリア様」
ノクスは母を見る。
「今のは、姫様の魔法なのか?」
フェリアは少し考えてから、首を横に振った。
「それを魔法と呼んでしまうと、少し違うわね」
「違う?」
「私たち魔導師は、自分の魔力を使って術を構築するでしょう?」
「……ああ」
「でも、エリアーナ様は違う」
フェリアの視線が、少女へ向く。
エリアーナはまだ、見えない誰かへ向かって「やりすぎだよ」と話していた。
「あの方は、精霊に呼びかけるの」
「呼びかける……」
「そして精霊たちが、それに応える」
ノクスは、もう一度標的があった場所を見る。
跡形もない。
「それが――精霊使いよ」
その言葉を、ノクスは初めて、実感を伴って理解した。
精霊使い。
ただ魔力の多い魔導師ではない。
人には見えない存在を見て。
人には聞こえない声を聞いて。
そして――その存在から、これほどの力を借りることができる者。
ふと、昨日の光景が蘇る。
窓辺で笑っていた少女。
誰もいない場所へ手を振っていた少女。
『今日はね、風が気持ちいいって』
あのとき、ノクスには何も見えなかった。
けれど、エリアーナはずっと、こんな稀有な存在たちと一緒に生きてきたのだ。
「……ノクス?」
呼ばれて、顔を上げる。エリアーナがこちらを見ていた。
「怖かった?」
昨日までなら、その問いの意味すら、分からなかったかもしれない。
だが今は、少しだけ分かる。
目の前で見せられた力は、確かに恐ろしい。
戦場でこれを向けられれば――そう考えた瞬間、背筋が冷えるほどに。
けれど――。
「……いいえ」
ノクスは答えた。
怖いのは、この少女ではない。
少なくとも。今、自分が見たものは――そうではなかった。
「ただ」
もう一度、消えた標的を見る。
「知らないことが、多すぎるとは思いました」
「?」
エリアーナが首を傾げる。
その姿は、昨日、教室で絵の具を指につけて笑っていた十二歳の少女と、何も変わらなかった。




