第2話 彼女の見ている世界
専属護衛という仕事は、思っていたよりも静かだった。
少なくとも、戦場とはまるで違う。
剣を抜く必要もなければ、盾を構える必要もない。
周囲へ気を配り、危険がないことを確認しながら、護衛対象のそばにいる。
それだけだ。
――もっとも。
初日から護衛対象を肩に担ぎ、王城から学院まで二キロ近く走ることになるとは思っていなかったが。
「ノクス、たばこくさい」
昨日の言葉が、不意に頭をよぎる。
「…………」
王立中央学院の廊下で、ノクスは自分の制服の襟元へちらりと視線を落とした。
今日は一本たりとも吸っていない。少なくとも、朝からは。
別に十二歳の少女に言われたことを気にしたわけではない。
護衛対象のそばにいる以上、強い匂いを纏わないほうがいいと判断しただけだ。
――そういうことにしておく。
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王立中央学院、中等部芸術学科。
ひとクラス二十人にも満たない、小さな学科だった。
そして、そのほとんどが女子生徒である。
専属護衛である以上、ノクスが教室へ入ること自体に問題はない。
授業中もエリアーナのそばに控えていて構わないと、学院側からは許可を得ている。
――得ているのだが。
「エリアーナ様、ここの色どうする?」
「んー、もう少し明るくしたいなあ」
「じゃあ白、混ぜてみる?」
「それいいかも!」
楽しそうな少女たちの声が飛び交う。
絵の具の瓶が並び、色とりどりの画材が広げられた教室。
十代前半の少女たちが集まって、作品を見せ合っては笑っている。
その片隅で……王立騎士団の制服を着た二十歳の男が、ひとり立っている。
「…………」
場違いでは?
ノクスは、わりと真剣にそう思っていた。
戦場ならば、何人敵兵がいようと気にならない。
敵陣の真ん中へ放り込まれたところで、やることは明確だ。
だが――この、かしましい少女たちの空間で、自分はいったいどんな顔をして立っていればいいのか。
分からない。
専属護衛という仕事は、思っていた以上に難しいらしい。
結局ノクスは、エリアーナの姿と教室全体を見渡せる後方の壁際を定位置にすることにした。
そこなら授業の邪魔にもならない。
何かあれば、すぐに動ける。
そして何より、少女たちの輪の中へ入らなくて済む。
(……ここでいい)
ようやく落ち着ける場所を見つけた気がした。
ノクスはエリアーナを改めて観察する。護衛対象となる姫君は、どんな人物なのか。
クラスメイトと楽しそうに話している。
よく笑う。
友人らしい少女たちに囲まれ、作品を見せ合い、時折ころころと声を上げて笑っている。
(……普通だな)
それが、ノクスの率直な感想だった。
第一皇女。
精霊使い。
前代未聞の魔力量を持つ少女。
そして――『バケモノの子供』。
事前に聞いていた言葉から想像していた姿と、あまりにも違う。
目の前にいるのは、絵の具で指先を汚して笑っている十二歳の少女だ。
授業が終わると、生徒たちが一斉に動き始めた。
「次、外に行かない?」
「行こう!」
「エリアーナ様もどう?」
声をかけられたエリアーナは、一瞬だけ目を瞬かせた。
それから――。
「ううん。今日はいいや。誘ってくれてありがとね」
いつもの笑顔で答えた。
「そっか。じゃあ、またあとでね」
「うん」
少女たちが教室を出ていく。
賑やかな声が遠ざかっていった。
エリアーナは、それを追わなかった。
窓際の席に座る。そして頬杖をつき、ぼんやりと外を眺め始めた。
「…………」
ノクスは廊下からその姿を見ていた。
寂しそうには見えない。むしろ、穏やかだった。
窓の外を見ながら、時折ふっと笑う。何かを目で追っているようにも見える。
だが、ノクスには何も見えない。
木々が揺れている。
雲が流れている。
それだけだ。
「……?」
エリアーナが、窓の向こうへ小さく手を振った。
そして、笑った。
誰に?
そう思った直後――風が吹いた。
閉められていなかった窓から柔らかな風が入り込み、金色の髪を揺らす。
エリアーナは嬉しそうに目を細めた。
(……精霊か)
ようやく気づく。
ノクスには見えない。声も聞こえない。
けれど、彼女には見えている。おそらく、ずっと。
「姫様」
声をかけると、エリアーナが振り返った。
「ノクス」
「何をしているんです?」
「風の精霊さんとお話ししてたの」
あまりにも当然のように答えられる。
ノクスは窓の外を見る。やはり、何もいない。
「……そこに?」
「うん」
エリアーナは不思議そうに首を傾げた。
「ノクスには見えない?」
「見えません」
「そっかあ」
それだけだった。驚きもしない。がっかりもしない。
エリアーナは再び窓の外へ顔を向けた。
「今日はね、風が気持ちいいって」
「……風が?」
「うん」
ノクスはもう一度、窓の外を見る。
分からない。何も見えない。
だが、少女が嘘をついているようにも見えなかった。
✦ ───────────── ✦
次の休憩時間、今度は本を読んでいた。
その次は、また窓の外。
教室ではよく笑う。話しかけられれば楽しそうに話す。
けれど、大勢の生徒が集まる場所へ自分から向かうことはなかった。
食堂の混雑も避ける。
中庭が賑やかな時間には出ない。
人の多い廊下では、ほんの少し歩幅が速くなる。
最初は偶然かと思った。
だが、一日そばにいれば分かる。
(避けているのか)
人を嫌っているわけではない。
むしろ、話しかけられれば嬉しそうにする。
それなのに……人が多くなると、エリアーナは静かな場所へ行く。
理由までは分からない。
けれど、ノクスは戦場で、人間を観察することを覚えた。
言葉より先に身体が動くことがある。
危険を感じれば肩が強張る。
逃げたい人間は出口を見る。
そしてエリアーナは、人が増えると――少しだけ周囲を見る。
誰がいるのかを確かめるように。
――放課後。
「ノクス、お待たせ!」
教室から出てきたエリアーナは、朝とは別人のように元気だった。
「帰ろ!」
「はい」
隣を歩き始める。
少しして、向こうから数人の生徒が歩いてきた。すれ違いざまに小さな声が聞こえた。
「……精霊使い」
そして。
「バケモノの子供」
ノクスの足が止まりかける。だが、その隣を歩くエリアーナは止まらなかった。
表情も変えない。ただ、ほんの少しだけノクスの側へ寄った。
「姫様」
「なに?」
いつもの声。いつもの笑顔。
ノクスは何かを尋ねようとして――やめた。
まだ、自分は何も知らない。
精霊のことも。
彼女の力のことも。
そして――この十二歳の少女が、何を見て、何を聞きながら生きてきたのかも。
「……いえ」
「?」
「帰りましょう」
「うん!」
エリアーナが笑う。
その向こうで、風が吹いた。
ノクスには、やはり何も見えない。
けれど、見えないからといって、そこに何もないとは限らない。
そのことだけは、少し、分かった気がした。




