第1話 姫君が選んだ騎士
豊かな森と水、そして大地の恵みを持つルミナリア王国。
世界中に精霊が存在するこの時代においても、火、水、風、土、光、闇――六大精霊と共に生きる文化を築いたこの国は、少しばかり珍しい場所だった。
けれど、そんなルミナリアでも、精霊の姿を見て、その声を聞き、言葉を交わせる人間はほとんどいない。
ましてや、六大精霊すべてに愛され、その力を借りることのできる者など。
この国には、ただひとりだけ――存在する。
エリアーナ・ルミナリア、十二歳。
――精霊使い。
それが、第一皇女エリアーナに与えられた、もうひとつの名前だった。
「風の精霊さん、待ってー!」
王城の庭園を、金色の髪を揺らして少女が駆けていく。
楽しそうな笑い声に応えるように、柔らかな風が吹いた。
木々の葉がさわさわと揺れ、エリアーナの頬を撫でていく。
「もう! 速いってば!」
くすくすと笑う。
傍から見れば、ひとりで遊んでいるようにしか見えない。
けれどエリアーナには、ちゃんと見えている。
物心がついた頃から、精霊たちは当たり前のようにそこにいた。
幼い彼女が「せいれいさんたち、きょうもいる」と口にしたのは、まだほんの子供だった頃。
五歳になる頃には、その膨大な魔力量と精霊への類い稀な親和性から、正式に『精霊使い』として育てられるようになった。
それは、国にとって喜ばしいことだった。
けれど――同年代の子供たちにとっては違った。
「……また、ひとりで喋ってる」
遠くから声がした。
「やめろよ。近づくなって」
「だって、あの子……」
ひそめられた声。それでも、その言葉は幼い少女の耳まで届いた。
「バケモノの子供だろ」
エリアーナの足が、一瞬だけ止まる。
風の精霊が心配そうに周囲をくるくると回った。
「……大丈夫だよ」
誰にともなくそう言って、また笑った。
聞こえていないわけではない。
意味が分からないほど幼くもない。
それでも。
「ねぇ、水の精霊さんのところに行こっか!」
エリアーナは駆け出した。
人間には見えなくても、彼女には、ずっと一緒にいてくれる存在がいる。
だからまだ、自分はひとりではないと思えた。
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――一方。
その頃、王立騎士団は少々――いや、かなり困っていた。
数年前から世界各地で小規模な衝突が続いている。
後に『終焉戦争』と呼ばれることになる戦いは、まだ大きな炎にはなっていない。
火種が生まれては消え、また別の土地でくすぶる。
だが、戦場へ人員を送り続ける騎士団に余裕があるはずもなかった。
そんな状況で持ち上がったのが、第一皇女エリアーナの専属護衛問題である。
規格外の魔力を持つ精霊使い。
十二歳になり、王立中央学院中等部へ進学した彼女は、これまで以上に行動範囲が広がる。
当然、専属護衛が必要だった。
問題は――。
「……次の方、どうぞ」
エリアーナの前に、何人目かの騎士が立つ。
少女はじっとその顔を見上げた。
しばらくして――。
「……ごめんなさい」
不採用。
理由を尋ねても、本人にも分からない。
ただ、違うと思うらしい。
ただでさえ人手が足りない騎士団から、いつまでも候補者を出し続けるわけにもいかない。
そうして候補に挙がったのが――。
「ノクス・ルシアンです」
二十歳。
白銀の髪に、青い瞳。
十六歳の頃から学徒動員で戦場へ立ち、十八歳で王立騎士団へ正式入隊。
若手幹部候補のひとりとして数えられる、実戦経験豊富な騎士だった。
基本装備は片手剣と盾。必要とあれば二刀を扱う。
戦場では寡黙で、敵と判断すれば迷いなく剣を振るう。
その端正で冷ややかな容姿も相まって、いつしか周囲は彼をこう呼ぶようになっていた。
――『氷の騎士』。
ノクスは形式通りに礼を取り、少女を見た。
エリアーナもまた、しばらく彼を見つめる。
「…………」
「…………」
長い沈黙が走った。
やがて、エリアーナが口を開いた。
「この人がいい」
その場にいた大人たちの視線が、一斉に集まった。
ノクスまでわずかに眉を動かす。
「理由は?」
尋ねられたエリアーナは、困ったように首を傾げた。
「……わかんない」
「分からない?」
「うん。でも、この人がいい」
それだけだった。
エリアーナ本人にも理由は分からない。
精霊たちが何かを教えたわけでもない。
ただ、エリアーナは、直感的にノクス・ルシアンを選んだ。
こうして――本人たちすらよく分からないまま、氷の騎士は精霊使いの専属護衛となった。
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そして、迎えた初日。
「姫様。朝です」
部屋に迎えに行ったものの、返事はない。
「姫様」
ノクスはベッドの上で丸くなっている少女を見下ろした。
「……学院に遅れます」
「…………」
起きない。
もう一度声をかけようとしたところで、傍らに控えていた侍女が困ったように眉を下げた。
「申し訳ございません、ノクス様。姫様は昔から朝が弱くて……」
「昔から?」
「はい。初等部に通われていた頃から、毎朝この調子でして」
「…………」
それは先に聞いておきたかった。
ノクスは窓の外へ目を向ける。
太陽はすでにそれなりの高さまで昇っている。
王城から王立中央学院までは、およそ二キロ。普通に歩けば、もう間に合わない。馬車を用意する時間も惜しい。
「姫様。起きてください」
「……んみゅぅ……」
反応はあった。
しかし、なんとも気の抜けた声がしただけだった。
エリアーナは布団を抱きしめると、さらに小さく丸くなる。
完全に二度寝の構えである。
「……いつも、どうしているんです?」
「なんとか起こしております」
「今日は?」
侍女は時計を見た。それからノクスを見る。ノクスも時計を見る。
二人の間に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
「…………」
間に合わない。
ノクスは小さく息を吐いた。
「失礼します、姫様」
「……んー……?」
布団を剥がす。まだ寝ているエリアーナの身体を抱え上げ、そのまま肩へ担いだ。
「ノ、ノクス様!?」
侍女が目を丸くする。
「このままでは遅刻します」
「それは、そうなのですが……!」
「行ってきます」
「えっ」
ノクスは歩き出した。
そして。
王城を出た瞬間――走った。
「…………すぅ」
肩に担がれた第一皇女は、まだ寝ている。
「……よく寝られるな」
思わず呟いた。
エリアーナの返事はない。
石畳を蹴る。戦場で鍛えられた脚が、一気に速度を上げた。
白銀の髪が風になびく。
王都の朝。店を開け始めた商人が振り返る。通勤途中の役人が二度見する。通学中の学院生が道を空ける。
その間を、王立騎士団の制服姿の男が全力で駆け抜けていく。
しかも肩には、金髪の少女。
いや。
よく見れば――第一皇女。
「……姫様?」
誰かの声が聞こえた気がしたが、ノクスは無視した。
任務遂行が最優先である。
約二キロ。
戦場ならば、決して長い距離ではない。
装備を身につけたまま走ることも、負傷兵を担いで移動することも経験している。
十二歳の少女ひとりならば、問題はなかった。
――問題があるとすれば。
(専属護衛というのは、こういう仕事だったか?)
そこだけである。
やがて王立中央学院の正門が見えてきた。
ノクスは速度を落とし、呼吸を整える。
間に合った。ぎりぎり、なんとか。
肩の上では。
「……んぅ……」
ようやくエリアーナが身じろぎした。
「……ノクス?」
「おはようございます、姫様」
「……おはよぉ」
眠そうな声が返ってきた。どうやら、今になって目を覚ましたらしい。
ノクスはエリアーナを地面へ下ろす。
少女はまだ半分眠ったまま、制服の裾を整えた。
それから、ふと。
すん。
小さく鼻を鳴らした。
「…………」
「どうしました?」
もう一度。
すん。
エリアーナがノクスを見上げる。
「ノクス」
「はい」
「たばこくさい」
「…………」
初めてまともに交わされた会話が、それだった。
「じゃあ、行ってきます」
「……いってらっしゃいませ」
エリアーナは何事もなかったように学院へ入っていく。
ノクスは、その小さな背中を見送った。
朝、起こす。
起きない。
担ぐ。
約二キロ走る。
ようやく起きる。
――そして。
たばこくさいと言われる。
「…………」
ノクスは自分の制服の襟元をつまんだ。
嗅いでみる。確かに、昨夜吸った煙草の匂いがわずかに残っている。
「……そんなに臭うか?」
専属護衛、初日。
ノクス・ルシアンは早くも、これまでの戦場とはまるで違う種類の難題に直面していた。




