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4話 強くなるということ

 木剣を初めて握った日から、さらにしばらく経った。

 エリアーナは、少しずつ剣の重さにも慣れてきていた。

 最初の頃のように、振った木剣に身体ごと引っ張られることはない。

 構えて、踏み込んで。振って、戻す。

 まだ動きは遅い。騎士たちのように鋭くもない。

 それでも、ひとつひとつの動作なら、ノクスから注意される回数も減ってきた。


「右足が前に出すぎです」


 ――減ってきた、だけだった。


「……はい」


 エリアーナは素直に足を戻した。


 訓練場の隅っこで、エリアーナ用の訓練は続いている。

 今日、二人の前に置かれているのは、人の形をした訓練用の人形だった。

 藁を詰め、革で補強した簡素なものだ。

 王立騎士団では剣や槍の訓練に使われている。

 エリアーナは木剣を握り直した。


「では、右肩」

「はい!」


 ぱしっ。

 木剣が人形の右肩を叩く。


「次。左腕」

「はい!」


 ぱしん。今度も当たった。


「右脚」

「えいっ!」


 少し姿勢が崩れた。けれど、狙った場所には届いている。

 ノクスが頷いた。


「いいでしょう」

「ほんと?」

「はい」


 ノクスから褒められた。

 エリアーナの顔が、ぱっと明るくなる。


「上手になった?」

「最初に比べれば」

「最初と比べるの禁止」

「なぜですか」

「最初は剣に振り回されてたから!」

「だから成長が分かりやすいんですが」

「むぅ……」


 頬を膨らませながらも、少し嬉しい。

 自分でも分かっていた。

 できることが増えている。訓練場を走ることも、転ぶことも、起き上がることも、木剣を扱うことも。

 三か月前にはできなかった。できなかったことが、できるようになる。

 エリアーナは、それが好きだった。


「では、次」


 ノクスが人形へ近づいた。

 指先で示す。


「ここです」


 胸。人間で例えると、心臓があるあたりだった。


「…………」


 エリアーナは木剣を構えた。

 右足を引き重心を落とす。

 人形を見る。胸を見る。


「…………」


 動かない。

 ノクスは急かさなかった。


「姫様?」

「……ここ?」

「はい」

「胸だよ?」

「そうですね」

「…………」


 木剣を握る手に、少しだけ力が入った。

 相手は人形だ。分かっている。

 痛くない。血も出ない。死ぬこともない。

 それでも――もし、これが人だったら?

 そう考えた瞬間、腕が動かなくなった。


「……できません」


 エリアーナはとても小さな声で呟いた。


「分かりました」


 ノクスはそれだけ言った。


「次にしましょう」


 今度は、人形の首を示す。

 エリアーナの顔が曇った。


「……そこも、やだ」

「では、腹部」

「…………」

「ここも?」


 こくり。

 エリアーナは頷いた。

 ノクスが黙る。

 怒られるかもしれない。エリアーナはそんな気がした。


 強くなりたいと言ったのは、自分だ。

 教えてほしいと言ったのも、自分だ。


 ……それなのに。


「ごめんなさい」

「なぜ謝るんです?」

「だって、できないから」

「何がですか」

「……人を傷つけるところ」


 人形を見つめる。


「これが人形なのは分かってるよ?」


 木剣の先が、ゆっくり下がった。


「でも、ここを叩いたら……痛いでしょう?」


 胸、首、腹部。どこも、人だったら痛い。強く打てば、大怪我をするかもしれない。もっと強ければ、命にかかわってしまうかもしれない。


「私、やだ」


 ぽつり。


「誰かが痛いの、やだよぅ……」


 精霊たちは、エリアーナに大きな力を貸してくれる。

 火を起こせる。水を操れる。風を呼べる。土を動かせる。光も、闇も。

 使い方によっては、きっと木剣なんかよりずっと簡単に、人を傷つけられる。

 だからこそ「強くはなりたい」とエリアーナは言った。


「自分で自分を守れるようになりたい。精霊さんたちの力も、ちゃんと使えるようになりたい」


 でも。


「誰かを傷つけられるようには、なりたくない」


 十二歳の少女は、そう言った。

 ノクスは何も答えなかった。しばらく、人形とエリアーナを見ていた。

 やがて――。


「分かりました」


 静かに告げる。


「それで構いません」


 エリアーナが顔を上げた。


「……いいの?」

「はい」

「でも、強くなるなら――」

「姫様」


 ノクスが言葉を遮った。


「あなたは兵士ではありません」

「…………」

「敵を倒すために、ここへ来ているわけでもない」


 木剣を持ったまま、ノクスはエリアーナの前に立った。


「最初に話したでしょう。俺が教えるのは、自分の身を守るための方法です」


 危険に気づくこと。

 攻撃を避けること。

 相手から距離を取ること。

 転んでも、すぐに起き上がれること。

 掴まれたなら、振りほどくこと。

 必要なら腕や脚を打ち、相手が怯んだ隙に逃げること。


「それができれば、今は十分です」

「……倒さなくても?」

「はい」

「勝たなくても?」

「少なくとも、今の姫様に必要なのはそこではありません」

「逃げてもいい?」

「逃げられる状況なら、迷わず逃げてください」


 あまりにもはっきり言われて、エリアーナは目を丸くした。


「でも私、精霊使いだよ?」

「知っています」

「お姫様でもあるよ?」

「それも知っています」

「だったら、強くならなきゃいけないんじゃないの?」


 ノクスは少しだけ黙った。


 王女であること。

 精霊使いであること。

 そのどちらも、エリアーナ自身が選んだものではない。

 けれど、その立場と力が、この少女に何も求めないままでいてくれるとは、ノクスにも思えなかった。


「だからこそ、です」

「……んー?」

「力を持っているからといって、最初に覚えることが誰かを傷つける方法である必要はありません」


 危険に気づくこと。

 自分の身を守ること。

 力を制御すること。

 そして、戦わずに済むなら戦わないこと。


「姫様には、まずそれを覚えていただきます」

「……そっか」

「はい」


 エリアーナはしばらく考えてから、もう一度尋ねた。


「じゃあ、ノクスは?」

「俺?」

「ノクスは、人を傷つけられるの?」


 一瞬、風の音だけが聞こえた。

 ノクスは目を逸らさなかった。


「はい」


 短い答えだった。


「どうして?」

「俺は騎士ですから」


 それ以上は言わなかった。

 エリアーナも、それ以上は聞かなかった。

 ただ、同じ木剣を持っていても、自分とノクスは違うのだと。

 そのことだけは、なんとなく分かった。


「……そっか」


 エリアーナは人形を見る。

 それから木剣を構え直した。


「じゃあ、腕だったら……すこしだけ頑張る」

「はい」

「脚も」

「はい」

「でも、痛そうなところは嫌」

「分かりました」

「逃げる練習もする」

「もちろんです」


 少しだけ、考えて。


「ものすごく逃げるのが上手になったら、それも強い?」


 ノクスの口元が、ほんの少し緩んだ。


「強いと思いますよ」

「ノクスより?」

「それは難しいでしょうね」

「なんで!」

「俺も走りますから」

「私だって走れるようになったよ!」

「三か月前よりは」

「最初と比べるの禁止!」


 訓練場に、少女の声が響いた。

 少し離れたところにいた騎士たちが、また笑っている。

 エリアーナはそちらを振り返った。


「今、笑った!」


 慌てて目を逸らす騎士たち。その様子を見て、ノクスも小さく息を吐いた。


 エリアーナは、もう一度木剣を握る。

 強くなりたい。

 その気持ちは変わらない。


 けれど、強くなることと、誰かを傷つけられるようになることは、きっと同じではない。

 少なくとも今は、それでいいのだと、隣にいる騎士が教えてくれた。


 十二歳の春。

 エリアーナ・ルミナリアは、初めて自分の意思で強くなることを選んだ。

 誰かを倒すためではない。

 誰かを傷つけるためでもない。

 自分を守り、大切なものを守り、できることなら、誰も傷つけないために。

 それが彼女の選んだ、強さだった。

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