今頃くしゃみをしているかもしれない。
思えばいつだってそうだった。
何か問題が起こる原因―それは、あのやったら美形な許嫁様のせいだった。
私としては平凡に、慎ましやかに。ほんのちょっとの幸せ、そう例えば美味しいお菓子をたまに食べるとか。そんな生活を送りたいだけだったのに。
何時だったか、私が気に入って食べていたお菓子があった。
王都の外れの小さなお菓子屋さんが作るバタークッキー。
ちょっと落ち込んだ時に食べるのが、大好きだった。それなのに。
『リア、君が好きだと聞いたから。手土産に買ってきたよ』
『あ、あの、その…どうもありがとうございます』
どこから情報が漏れたのか…は、言うまでもあるまい。
暫くアルフ兄様とは口を利かないようにしよう。
そう心に決めながら、実は少しだけ嬉しかった。
やっぱり人は現金な生き物だ。好きなものを貰ったという事実だけで、嬉しくなれる。
―だけど、だからといって、その後山のようにバタークッキーを送ってこられた場合、ものすごくうんざりした気持ちになるのは仕方ないと思う。
手の込んだ嫌がらせか!と、ますますルイのことを苦手に思った記憶がある。
さらに、その後、ルイがその店のバタークッキーを買い占めている噂がご令嬢方の間で広まり、結果としてバタークッキーは入手困難な代物となってしまった。
とまあ、こんな具合にルイが原因で起こったちょっとした悲劇は数えたらキリがない。
それもこれも、あの頃は不釣り合いな許嫁に対する嫌がらせを、と思っていたが―真実はきっと、ルイの重たすぎる…ぞっとするので何も考えないようにしよう。
1人自分の世界に入ってしまったマリアベルに、ミレア女帝が不可解といった面持ちで柳眉を顰めた。
おかしい。今頃、予定ではマリアベルは、顔を真っ赤にして悔しがっているはずだ。
普通の、それも高位の貴族令嬢ならばこんな屈辱耐えられないはず。
ましてや、この娘は王妃となる予定だったはずなのだ。それなのに。
「…マリアベル、面を上げよ」
微かな苛立ちを含みながらミレア女帝はそう命じる。何度見ても美しくない娘。
その事実に憎悪すら覚える。
「…はい、陛下」
マリアベルの声は思いの外落ち着いていた。内心では、ものすごく緊張していたが。
ああ、もう本当早くここから去りたい。
必死に表情を保ちながら、ふと顔を上げる途中で、先程のアスコットの“髪の毛”が目に入った。
そうして思わず、マリアベルは勢いよく顔を上げてしまった。
「ふむ。改めてみても、なんともまあ田舎くさい顔じゃのぉ」
クスクスと嘲笑うようなミレア女帝の声も、今は気にならない。
マリアベルの瞳は真っ直ぐと、ミレア女帝の背後―ククリを見据えた。
底の見えない虚ろな瞳。ニヤリと弧を描く真っ赤な口。
瞬間、寒気が全身を駆け抜けた。
「どうした?間抜けな顔をして。ああ、自分がどうしてこの場に連れ込まれているのかわからないのであろう。愚かしいのぉ」
マリアベルの表情を、ミレア女帝は都合よく解釈したようだった。
知らない。あれは、何?
出来ることなら、声を出して叫びたい。
けれど、今そんなことをしたら、まずいことになるというのはわかりきっている。
じとり、と嫌な汗がマリアベルの背中を伝った。これは、思った以上に厄介なことに巻き込まれたのかもしれない。
「哀れなマリアベル、優しいわらわが教えてやろう」
ミレア女帝のその声に、マリアベルの意識が引き戻される。
そうだ。そもそもの事の始まりはなんだったというのだろう。
「そなたにはな、ベルデウス帝国の皇太子紋を盗んだ嫌疑が掛けられておる。身に覚えが無いとは言わせぬぞ。そなたは現にそれを使いこのアリスティシャ帝国にやってきたのだから」
思わず、きょとん、とマリアベルは目を丸くしてしまう。
…予想外だった。
てっきり、ルイが私を探し出すため、ミレア女帝を脅した…政治的な取引をした腹いせだと思っていたのに。ああ、でもそうか。私は勇者になったんだ。
勇者とは国を超えたしがらみの無い存在。フェルトリーリエ王国のことで、私が縛られることはもう無い。
その事実が嬉しい、と同時にアスコットたちの、何してんだお前、的な雰囲気が怖い。
いやいや、私無実ですよ、盗んだりとかしてませんからね!
というか、ベルデウス帝国の皇太子とかお会いしたこともないし。
だいたい、使用した魔紋印は野生の男―クロヴィスから借り受けたものだ。
そこでふと、マリアベルは思い至る。
会ったこと無いのだから、クロヴィスが皇太子かどうかわかるはずもない。
(確かに、なんか身分は高そうだった。でも、まさか)
果たして真実は分からない。
分からないけれど…なんてややこしいもの渡してくれたんだ!
この魔紋印がなければ国を抜け出すことが出来なかった…だろうけど。
…次に会うことがあったら文句くらいは言ってもいいよね。
そのためには、どうやってここを切り抜けるか。
ミレア女帝の様子を伺えば、至極愉快そうに意地の悪い笑みを浮かべていた。
恐らく、マリアベルが答えに窮すことも想定済みなのだろう。
「どうした?その口は飾りではあるまい。だというのに、何も言えぬとみえる」
(下手なこと言うと、デッドエンドだって分かってるから黙ってるんですよ)
だが、それも長くは持たないだろう。
口を開いても、開かなくても、マリアベルにとって絶体絶命なのは変わりない。
ああ!もうどうしたら。
ここで、勇者としての身分を捨てて、実家であるグラディウス家に泣き付けばなんとかしてくれるかもしれない。
けれど、それでは意味が無い。マリアベル自身の力で乗り越えなければならないのだ。
それに、ここには勇者として…倒さなければならない何かがいるような気がする。
(私だって“あの”グラディウス家の娘。やる気になればなんだって出来るんだから)
実を言えば、魔紋印の件に関してはさっきから何かが違和感としてひっかかっているのだ。
あと少しで、きっと何とかなりそうな。
だが、それには情報が足りない。それならば―。
先ほどとは変わり、一転して不敵な笑みを浮かべるマリアベルに、ミレアは思わず怯みそうになる。
(馬鹿な。状況は圧倒的にわらわの有利。全てはククリの言った通りではないか)
そうだ。わらわにはククリがいる。万に一つも、わらわが不利になることなど無い。
そもそもここはわらわの帝国なのだ。全てわらわが是と言えば是。否と言えば否。
斜め後ろに控えたククリの顔をミレアは知らずの内に縋るように見つめていた。
ククリが薄ら微笑めば、ミレアはそれだけで酷く安堵する。それがおかしいとさえ、もう思えない。
「さあ、マリアベル!早よぉ申してみよ!」
「はい。それでは恐れながら申し上げます。ですが、その前に…ミレア女帝。どうして国主である貴女がわざわざ足を運ばれたのですか」
「何?」
「確かに、ベルデウス帝国の皇太子紋が盗まれた、となれば大事件でしょう。しかし、それは国主が動く程のことでしょうか?…お言葉ですが、アリスティシャ帝国の女帝は随分と政務に余裕がおありなのですね」
挑発的にマリアベルがミレア女帝を見据える。その姿はまさしく、大貴族の令嬢といった貫禄を備えていた。何時だって、学院で俯いていた姿はどこにもない。
「…それは侮辱かえ?」
「いえ、そんなつもりは。ただ―…そう、ただどうしてフェルトリーリエ王国に抗議をいれなかったのですか?」
そう、そうだ。これは、大事件のはず、なんだ!
マリアベルの中で、何かが繋がる。
アリスティシャ帝国では、今回の件は国主が動く程の事件とされている。
なのに、何故―…私が勇者になる前に、正式にフェルトリーリエ王国に抗議をいれなかったのだろう。
もしも、ベルデウス帝国が、皇太子紋は盗まれていた、と宣言したのであれば、それを使用したフェルトリーリエ王国の王太子の許嫁に責任があることになる。
何も、国との関係が断たれた後―勇者になった後に、処罰すべき問題ではない。
(だって、新米勇者の私よりも、勇者になる前のフェルトリーリエ王国王太子許嫁のリズベリー女公爵令嬢である私の方が、国としては価値があるはず)
では、この事実が指し示すのは何か。
まるで立場が入れ替わったかのように、打って変わって口をつぐむミレア女帝。
マリアベルはゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。
「本当は、ベルデウス帝国の魔紋印は‘‘盗まれた’’のではないのでしょう?ミレア女帝」




