廃病院
――ギィィ……。
重たい音を立てて、藤田が廃病院の入口を押し開けた。
「うわ……」
最初に中へ入ったのは石上だった。
五人が入ったのは、思っていたよりも広いエントランスだった。
正面には受付カウンター。
その奥には、かつて事務室だったと思われる空間がある。
壁には古びた案内板が残っていたが、文字はところどころ剥がれ落ちていて、何科がどこにあるのかも分からない。
天井には、蛍光灯の器具。
もちろん電気はついていない。
床には紙の資料が散乱していた。
カルテなのか、業務書類なのか。
紙は湿気を吸って波打ち、茶色く変色している。
慎二が懐中電灯を足元に向けながら歩いた。
「……ん?」
その瞬間。
――パリンッ。
「うわっ!」
靴の下から、乾いた音が響いた。
慎二が慌てて足を上げる。
懐中電灯で照らすと、床には細かなガラスの破片が散らばっていた。
「危な……」
慎二は慎重に足元を見る。
「荒れてるな……」
思わず呟いた。
「廃病院なんだから当然じゃね?」
石上が言う。
「それはそうだけどさ」
慎二は周囲を見回した。
壁紙は剥がれ。
天井には黒ずんだ染み。
床には紙やガラスだけではなく、何かの部品らしきものまで転がっている。
外から見たとき以上に、建物の内部は荒れていた。
そして。
何より気になったのは、臭いだった。
湿っぽい。
そして、カビ臭い。
長い年月を閉じ込めていた空気が、建物の中に澱んでいるようだった。
「……くさ」
神崎が鼻を押さえる。
「カビ?」
「たぶん」
藤田が答えた。
「水が入って、ずっと換気されてないんだろ」
「最悪じゃん」
神崎が顔をしかめる。
五人は懐中電灯を頼りに、エントランスから廊下へ入った。
光が壁をなぞる。
壁。
扉。
壁。
扉。
どこまでも同じような景色が続いている。
時折、床に落ちているものが懐中電灯の光に浮かび上がる。
古いスリッパ。
錆びた金属片。
割れた照明器具。
そして、何に使うものなのか分からない白いプラスチック製の容器。
「……なんか、こういうところって」
神崎が口を開いた。
「うん?」
「時間が止まってるみたい」
慎二も同じことを感じていた。
病院としての役目を終えて、何年も経っている。
なのに。
そこにあるものは、まるで人がいなくなった日のまま取り残されている。
「お」
そのとき。
後ろから藤田の声がした。
慎二が振り返る。
藤田がスマートフォンを構えていた。
「何してんの?」
「撮影」
「撮影?」
「これ、WhoTubeにあげたら、めっちゃ再生されるんじゃね?」
「お前……」
慎二は呆れた。
藤田は廊下の様子をスマートフォンで撮影している。
画面の中に、懐中電灯に照らされた廊下が映っている。
「面白そうだな」
石上が覗き込む。
「だろ?」
「編集して、『ガチ心霊スポットに潜入!』とかタイトル付けようぜ」
「いいな、それ」
「お前ら、本気?」
慎二が言う。
「何が?」
「いや……」
慎二は廊下を見る。
正直なところ。
さっきから早く帰りたいと思っている。
だが、それを言うのは少し気が引けた。
神崎がスマートフォンを取り出す。
「撮ってるの?」
「うん」
「顔映さないでよね」
「大丈夫だって」
「絶対だからね」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら、一行はさらに奥へ進んだ。
やがて。
廊下の途中に、一つの部屋があった。
扉には、薄く文字が残っている。
藤田が懐中電灯を向けた。
「手術室だ」
「手術室?」
神崎が興味を示す。
「入ってみようぜ」
石上が扉を押した。
――ギィ……。
扉が開く。
懐中電灯の光が、暗闇の中を切り裂いた。
「おお……」
神崎が声を漏らす。
部屋の中央。
天井から大きな照明器具が吊り下がっている。
その真下に手術台。
周囲には、金属製の手術器具が置かれていた。
メス。
鉗子。
トレイ。
何に使われていたのか分からない器具。
それらが無造作に残されている。
どれも錆びていた。
「うわ……」
慎二が顔をしかめる。
「結構雰囲気あるじゃん」
神崎はむしろ楽しそうだった。
スマートフォンを取り出し、部屋の中を何枚か撮影する。
「神崎、怖くないの?」
「怖いけど、こういうの好き」
「さっきからそればっかだな」
「だって、こんなところ普通来ないじゃん」
神崎が手術台を撮る。
――カシャ。
フラッシュが一瞬、室内を白く照らした。
その瞬間。
慎二は、部屋の奥に何かがあったような気がした。
「……ん?」
慎二がそちらを見る。
「どうした?」
石上が聞く。
「いや……」
壁だった。
何もない。
「何でもない」
慎二は首を振った。
磯山は部屋に入っていなかった。
入口から、暗い顔で中を見ている。
「磯山?」
「……」
「入らないの?」
「いい」
短い返事。
「そう?」
「うん」
磯山はそれ以上、何も言わなかった。
やがて。
「もういいだろ」
石上が手術室を出る。
「次行こうぜ」
五人は再び廊下へ戻った。
そして、しばらく歩いたところで。
「あ」
藤田が足を止めた。
「どうした?」
慎二が聞く。
藤田は廊下の先を指差した。
「この先に隔離病棟があるんだ」
「隔離病棟?」
神崎が振り返る。
「そう。昔の病院だからな。今は使われてないけど、地下に続いてる」
藤田が指した先。
廊下の脇に階段があった。
下へ。
地下へと続いている。
懐中電灯を向けても、その先は暗闇に沈んでいた。
「地下か……」
慎二は呟いた。
「行ってみようぜ」
石上が言う。
「いや、もう結構見たんじゃない?」
慎二が言った。
「何だよ。せっかくここまで来たんだから」
「……」
そのとき。
――ガタン。
「!」
全員が固まった。
階段の向こう。
地下から聞こえたような気がした。
何かが倒れたような音。
「今……」
磯山が呟いた。
「何か音が……」
「何か倒れただけだろ?」
石上が言った。
「行こうぜ。どうせ何も起きないって」
「でも……」
「ほら」
石上が階段に足をかける。
「行くぞ」
慎二はその背中を見る。
――帰りたい。
今度は、はっきりそう思った。
ここから先は、やめておいたほうがいい。
そう言えばいい。
けれど。
「……」
慎二は口を閉じた。
石上が行く。
神崎も行く。
藤田は明らかに楽しそうだ。
そして。
磯山も、嫌そうな顔をしながらついていこうとしている。
結局。
自分も行くしかなかった。
「……行くか」
慎二はそう言った。
五人は階段を下りていく。
――コツ。
――コツ。
靴音が壁に反響する。
一段。
また一段。
地下へ進むにつれ。
空気が変わった。
「……寒」
神崎が腕をさする。
先ほどまでの湿った空気とは違う。
明らかにひんやりとしている。
エアコンなど動いているはずがない。
それでも。
階段を下りるほど、冷気が強くなっていく。
「地下だからじゃない?」
藤田が言った。
「まあ、そうだろうけど」
神崎が答える。
慎二は壁に懐中電灯を向けた。
コンクリートの壁。
ところどころに黒いシミがある。
水が染みた跡だろう。
そう思った。
そう思いたかった。
階段を下りきる。
そこには、長い廊下が伸びていた。
五人は慎重に歩き始めた。
しばらくすると。
廊下を遮るように、金属製の檻が現れた。
「なんだこれ」
石上が近づく。
床から天井まで伸びた鉄格子。
明らかに、ここから先を人が自由に行き来できないようにするためのものだ。
「隔離病棟の入口じゃない?」
藤田が言う。
「鍵かかってんの?」
神崎が扉を確認する。
錆びた錠前。
しかし。
「……壊れてる」
神崎が触れると、錠前が僅かに揺れた。
「開く?」
石上が押す。
――ギィィ……。
檻の扉が開いた。
「入れるじゃん」
「本当に入っていいのか?」
慎二が聞いた。
「ここまで来て何言ってんだよ」
石上が先に入る。
結局、四人も続いた。
檻の向こう側。
そこから先は、空気がさらに重く感じられた。
廊下の両側には、等間隔に金属製の扉が並んでいる。
扉には、小さな窓。
その窓にも鉄格子が取り付けられていた。
「……これ、病室?」
慎二が聞く。
「たぶん」
藤田が答える。
神崎が一つの扉へ近づいた。
「鍵かかってる」
ノブを回す。
――ガチャ。
動かない。
「こっちも」
隣。
――ガチャガチャ。
「これも」
さらに隣。
――ガチャ。
「全部閉まってるじゃん」
「まあ、隔離病棟だからな」
藤田が言った。
神崎はそれでも諦めず、次々と扉を確認していく。
「ここも……」
ガチャ。
「ここも……」
ガチャ。
そして。
「あ」
「どうした?」
「開く」
神崎が振り返った。
「鍵かかってない」
「マジ?」
石上が覗き込む。
神崎が扉を開ける。
――ギィ……。
部屋の中は狭かった。
簡素なベッド。
壁際に便器。
それだけ。
「……」
慎二は言葉を失った。
窓はない。
壁はコンクリート。
部屋の隅には、何かを固定するための金具のようなものが残っている。
「独房じゃん……」
神崎が呟いた。
「病室だろ」
「病室っていうより……」
神崎はそれ以上言わなかった。
石上が別の部屋を覗く。
「こっちも同じ」
さらに進む。
扉。
扉。
扉。
同じような個室が延々と並んでいる。
そして。
廊下の突き当たりに、一つの扉があった。
「……何だこれ」
藤田が懐中電灯を向ける。
扉の上。
文字が書かれていた。
しかし、ほとんど掠れている。
「……室」
読めたのは、それだけだった。
「何室だよ」
石上が言う。
「最初のほう、もう消えてるな」
藤田がスマートフォンで撮影する。
「開けてみようぜ」
神崎がドアノブを握った。
――ガチャ。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと扉が開く。
その先は。
今までの個室とは比べものにならないほど広かった。
「……広」
慎二が呟いた。
部屋の中央には、手術台のようなものが何台も並んでいる。
ただし。
普通の手術室にあるものとは少し違う。
妙に古い。
そして。
何のために使われていたのか分からない。
「これ、何?」
神崎が近づく。
慎二も懐中電灯を向けた。
その瞬間。
「……っ」
息が止まった。
手術台。
その上。
真っ黒なシミがこびりついていた。
ただの汚れ。
最初はそう思った。
だが。
一つだけではなかった。
「……」
隣の台。
そこにも。
その隣にも。
さらに奥にも。
すべて同じような黒いシミがある。
長い年月が経っているはずなのに。
黒だけが異様に濃い。
何かが染み込んだように。
慎二は喉を鳴らした。
「なんなんだよ。ここ」
思わず声が出た。
「……」
磯山は答えなかった。
ただ、部屋の奥を見つめている。
「磯山?」
慎二が呼ぶ。
智美はゆっくり首を振った。
「ここ……」
「うん」
「すごく嫌な感じがする」
その声は、今までよりも小さかった。
神崎が黒いシミを見ながら言う。
「血……なのかな」
「分からない」
藤田が答えた。
「古すぎて何の染みかも分からない」
「何かの薬品じゃね?」
石上が言う。
「そうかもな」
藤田はスマートフォンを向ける。
――カシャ。
「……」
慎二はその光景を見ながら、妙な違和感を覚えていた。
何かがおかしい。
何が、と言われても分からない。
ただ。
この部屋には。
長くいたくない。
そんな気がした。
「……もういいだろ」
石上が言った。
「何もねぇな。どうする?」
慎二はすぐに答えた。
「もう帰らないか?」
今度は、ちゃんと言えた。
神崎が肩をすくめる。
「そうね。もう飽きたし」
「えー」
藤田が不満そうな声を出す。
「何か出ると思ったんだけどな」
「出たら困るだろ」
「まあ、それはそう」
石上が笑った。
五人は来た道を戻る。
檻を抜け。
地下への階段を上がる。
その間。
慎二は一度も振り返らなかった。
やがて。
見慣れたエントランスが見えてきた。
外から差し込む月明かり。
正面玄関。
そして。
夜の空気。
「……外だ」
神崎が言った。
五人は廃病院を出た。
湿った外気が、今度は心地よく感じられた。
「やっぱ外が一番だな」
石上が伸びをする。
「当たり前だろ」
慎二も大きく息を吐いた。
藤田は最後までスマートフォンをいじっている。
「写真、結構撮れたな」
「動画も?」
「もちろん」
「投稿すんなよ」
「なんで?」
「俺、顔出ししたくない」
「編集するって」
「絶対だからな」
そんなやり取りをしながら、五人は車へ向かった。
そして。
藤田が運転席へ。
石上が助手席。
神崎が後部座席へ。
慎二も乗り込む。
「磯山?」
慎二が振り返る。
「……」
智美だけが、その場に立ったままだった。
「どうした?」
「……ううん」
智美は答えない。
病院を見ている。
慎二もそちらを見る。
正面玄関。
さっきまで自分たちが歩いていた場所。
暗いエントランス。
受付カウンター。
その奥に続く廊下。
何もない。
少なくとも、慎二にはそう見えた。
「磯山?」
智美が呟いた。
「……まだ流れ続けてる」
「何?」
慎二が聞き返す。
智美はハッとしたようにこちらを見る。
「ううん」
「……?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
智美は病院から視線を外した。
そして、車に乗り込む。
ドアが閉まる。
藤田がエンジンをかけた。
――ブォン。
ヘッドライトが廃病院の正面を照らす。
一瞬。
エントランスが明るく浮かび上がった。
受付。
床に散乱した紙。
壁。
そして。
暗い廊下。
慎二は何気なく、その奥を見た。
「……」
何もない。
そう思った。
藤田が車を発進させる。
廃病院が少しずつ遠ざかっていく。
慎二は後部座席から、もう一度だけ建物を振り返った。
暗闇の中。
廃病院は、ただそこに立っていた。
その隣で。
磯山が窓の外を見ていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ。
病院が見えなくなるまで。
ずっと。
じっと。
その建物を見つめ続けていた。




