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まとわりつく声【夏のホラー2026・音】  作者: A.N.C.


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2/10

廃病院


 ――ギィィ……。


 重たい音を立てて、藤田が廃病院の入口を押し開けた。


「うわ……」


 最初に中へ入ったのは石上だった。


 五人が入ったのは、思っていたよりも広いエントランスだった。


 正面には受付カウンター。


 その奥には、かつて事務室だったと思われる空間がある。


 壁には古びた案内板が残っていたが、文字はところどころ剥がれ落ちていて、何科がどこにあるのかも分からない。


 天井には、蛍光灯の器具。


 もちろん電気はついていない。


 床には紙の資料が散乱していた。


 カルテなのか、業務書類なのか。


 紙は湿気を吸って波打ち、茶色く変色している。


 慎二が懐中電灯を足元に向けながら歩いた。


「……ん?」


 その瞬間。


 ――パリンッ。


「うわっ!」


 靴の下から、乾いた音が響いた。


 慎二が慌てて足を上げる。


 懐中電灯で照らすと、床には細かなガラスの破片が散らばっていた。


「危な……」


 慎二は慎重に足元を見る。


「荒れてるな……」


 思わず呟いた。


「廃病院なんだから当然じゃね?」


 石上が言う。


「それはそうだけどさ」


 慎二は周囲を見回した。


 壁紙は剥がれ。


 天井には黒ずんだ染み。


 床には紙やガラスだけではなく、何かの部品らしきものまで転がっている。


 外から見たとき以上に、建物の内部は荒れていた。


 そして。


 何より気になったのは、臭いだった。


 湿っぽい。


 そして、カビ臭い。


 長い年月を閉じ込めていた空気が、建物の中に澱んでいるようだった。


「……くさ」


 神崎が鼻を押さえる。


「カビ?」


「たぶん」


 藤田が答えた。


「水が入って、ずっと換気されてないんだろ」


「最悪じゃん」


 神崎が顔をしかめる。


 五人は懐中電灯を頼りに、エントランスから廊下へ入った。


 光が壁をなぞる。


 壁。


 扉。


 壁。


 扉。


 どこまでも同じような景色が続いている。


 時折、床に落ちているものが懐中電灯の光に浮かび上がる。


 古いスリッパ。


 錆びた金属片。


 割れた照明器具。


 そして、何に使うものなのか分からない白いプラスチック製の容器。


「……なんか、こういうところって」


 神崎が口を開いた。


「うん?」


「時間が止まってるみたい」


 慎二も同じことを感じていた。


 病院としての役目を終えて、何年も経っている。


 なのに。


 そこにあるものは、まるで人がいなくなった日のまま取り残されている。


「お」


 そのとき。


 後ろから藤田の声がした。


 慎二が振り返る。


 藤田がスマートフォンを構えていた。


「何してんの?」


「撮影」


「撮影?」


「これ、WhoTubeにあげたら、めっちゃ再生されるんじゃね?」


「お前……」


 慎二は呆れた。


 藤田は廊下の様子をスマートフォンで撮影している。


 画面の中に、懐中電灯に照らされた廊下が映っている。


「面白そうだな」


 石上が覗き込む。


「だろ?」


「編集して、『ガチ心霊スポットに潜入!』とかタイトル付けようぜ」


「いいな、それ」


「お前ら、本気?」


 慎二が言う。


「何が?」


「いや……」


 慎二は廊下を見る。


 正直なところ。


 さっきから早く帰りたいと思っている。


 だが、それを言うのは少し気が引けた。


 神崎がスマートフォンを取り出す。


「撮ってるの?」


「うん」


「顔映さないでよね」


「大丈夫だって」


「絶対だからね」


「はいはい」


 そんなやり取りをしながら、一行はさらに奥へ進んだ。


 やがて。


 廊下の途中に、一つの部屋があった。


 扉には、薄く文字が残っている。


 藤田が懐中電灯を向けた。


「手術室だ」


「手術室?」


 神崎が興味を示す。


「入ってみようぜ」


 石上が扉を押した。


 ――ギィ……。


 扉が開く。


 懐中電灯の光が、暗闇の中を切り裂いた。


「おお……」


 神崎が声を漏らす。


 部屋の中央。


 天井から大きな照明器具が吊り下がっている。


 その真下に手術台。


 周囲には、金属製の手術器具が置かれていた。


 メス。


 鉗子。


 トレイ。


 何に使われていたのか分からない器具。


 それらが無造作に残されている。


 どれも錆びていた。


「うわ……」


 慎二が顔をしかめる。


「結構雰囲気あるじゃん」


 神崎はむしろ楽しそうだった。


 スマートフォンを取り出し、部屋の中を何枚か撮影する。


「神崎、怖くないの?」


「怖いけど、こういうの好き」


「さっきからそればっかだな」


「だって、こんなところ普通来ないじゃん」


 神崎が手術台を撮る。


 ――カシャ。


 フラッシュが一瞬、室内を白く照らした。


 その瞬間。


 慎二は、部屋の奥に何かがあったような気がした。


「……ん?」


 慎二がそちらを見る。


「どうした?」


 石上が聞く。


「いや……」


 壁だった。


 何もない。


「何でもない」


 慎二は首を振った。


 磯山は部屋に入っていなかった。


 入口から、暗い顔で中を見ている。


「磯山?」


「……」


「入らないの?」


「いい」


 短い返事。


「そう?」


「うん」


 磯山はそれ以上、何も言わなかった。


 やがて。


「もういいだろ」


 石上が手術室を出る。


「次行こうぜ」


 五人は再び廊下へ戻った。


 そして、しばらく歩いたところで。


「あ」


 藤田が足を止めた。


「どうした?」


 慎二が聞く。


 藤田は廊下の先を指差した。


「この先に隔離病棟があるんだ」


「隔離病棟?」


 神崎が振り返る。


「そう。昔の病院だからな。今は使われてないけど、地下に続いてる」


 藤田が指した先。


 廊下の脇に階段があった。


 下へ。


 地下へと続いている。


 懐中電灯を向けても、その先は暗闇に沈んでいた。


「地下か……」


 慎二は呟いた。


「行ってみようぜ」


 石上が言う。


「いや、もう結構見たんじゃない?」


 慎二が言った。


「何だよ。せっかくここまで来たんだから」


「……」


 そのとき。


 ――ガタン。


「!」


 全員が固まった。


 階段の向こう。


 地下から聞こえたような気がした。


 何かが倒れたような音。


「今……」


 磯山が呟いた。


「何か音が……」


「何か倒れただけだろ?」


 石上が言った。


「行こうぜ。どうせ何も起きないって」


「でも……」


「ほら」


 石上が階段に足をかける。


「行くぞ」


 慎二はその背中を見る。


 ――帰りたい。


 今度は、はっきりそう思った。


 ここから先は、やめておいたほうがいい。


 そう言えばいい。


 けれど。


「……」


 慎二は口を閉じた。


 石上が行く。


 神崎も行く。


 藤田は明らかに楽しそうだ。


 そして。


 磯山も、嫌そうな顔をしながらついていこうとしている。


 結局。


 自分も行くしかなかった。


「……行くか」


 慎二はそう言った。


 五人は階段を下りていく。


 ――コツ。


 ――コツ。


 靴音が壁に反響する。


 一段。


 また一段。


 地下へ進むにつれ。


 空気が変わった。


「……寒」


 神崎が腕をさする。


 先ほどまでの湿った空気とは違う。


 明らかにひんやりとしている。


 エアコンなど動いているはずがない。


 それでも。


 階段を下りるほど、冷気が強くなっていく。


「地下だからじゃない?」


 藤田が言った。


「まあ、そうだろうけど」


 神崎が答える。


 慎二は壁に懐中電灯を向けた。


 コンクリートの壁。


 ところどころに黒いシミがある。


 水が染みた跡だろう。


 そう思った。


 そう思いたかった。


 階段を下りきる。


 そこには、長い廊下が伸びていた。


 五人は慎重に歩き始めた。


 しばらくすると。


 廊下を遮るように、金属製の檻が現れた。


「なんだこれ」


 石上が近づく。


 床から天井まで伸びた鉄格子。


 明らかに、ここから先を人が自由に行き来できないようにするためのものだ。


「隔離病棟の入口じゃない?」


 藤田が言う。


「鍵かかってんの?」


 神崎が扉を確認する。


 錆びた錠前。


 しかし。


「……壊れてる」


 神崎が触れると、錠前が僅かに揺れた。


「開く?」


 石上が押す。


 ――ギィィ……。


 檻の扉が開いた。


「入れるじゃん」


「本当に入っていいのか?」


 慎二が聞いた。


「ここまで来て何言ってんだよ」


 石上が先に入る。


 結局、四人も続いた。


 檻の向こう側。


 そこから先は、空気がさらに重く感じられた。


 廊下の両側には、等間隔に金属製の扉が並んでいる。


 扉には、小さな窓。


 その窓にも鉄格子が取り付けられていた。


「……これ、病室?」


 慎二が聞く。


「たぶん」


 藤田が答える。


 神崎が一つの扉へ近づいた。


「鍵かかってる」


 ノブを回す。


 ――ガチャ。


 動かない。


「こっちも」


 隣。


 ――ガチャガチャ。


「これも」


 さらに隣。


 ――ガチャ。


「全部閉まってるじゃん」


「まあ、隔離病棟だからな」


 藤田が言った。


 神崎はそれでも諦めず、次々と扉を確認していく。


「ここも……」


 ガチャ。


「ここも……」


 ガチャ。


 そして。


「あ」


「どうした?」


「開く」


 神崎が振り返った。


「鍵かかってない」


「マジ?」


 石上が覗き込む。


 神崎が扉を開ける。


 ――ギィ……。


 部屋の中は狭かった。


 簡素なベッド。


 壁際に便器。


 それだけ。


「……」


 慎二は言葉を失った。


 窓はない。


 壁はコンクリート。


 部屋の隅には、何かを固定するための金具のようなものが残っている。


「独房じゃん……」


 神崎が呟いた。


「病室だろ」


「病室っていうより……」


 神崎はそれ以上言わなかった。


 石上が別の部屋を覗く。


「こっちも同じ」


 さらに進む。


 扉。


 扉。


 扉。


 同じような個室が延々と並んでいる。


 そして。


 廊下の突き当たりに、一つの扉があった。


「……何だこれ」


 藤田が懐中電灯を向ける。


 扉の上。


 文字が書かれていた。


 しかし、ほとんど掠れている。


「……室」


 読めたのは、それだけだった。


「何室だよ」


 石上が言う。


「最初のほう、もう消えてるな」


 藤田がスマートフォンで撮影する。


「開けてみようぜ」


 神崎がドアノブを握った。


 ――ガチャ。


 鍵はかかっていなかった。


 ゆっくりと扉が開く。


 その先は。


 今までの個室とは比べものにならないほど広かった。


「……広」


 慎二が呟いた。


 部屋の中央には、手術台のようなものが何台も並んでいる。


 ただし。


 普通の手術室にあるものとは少し違う。


 妙に古い。


 そして。


 何のために使われていたのか分からない。


「これ、何?」


 神崎が近づく。


 慎二も懐中電灯を向けた。


 その瞬間。


「……っ」


 息が止まった。


 手術台。


 その上。


 真っ黒なシミがこびりついていた。


 ただの汚れ。


 最初はそう思った。


 だが。


 一つだけではなかった。


「……」


 隣の台。


 そこにも。


 その隣にも。


 さらに奥にも。


 すべて同じような黒いシミがある。


 長い年月が経っているはずなのに。


 黒だけが異様に濃い。


 何かが染み込んだように。


 慎二は喉を鳴らした。


「なんなんだよ。ここ」


 思わず声が出た。


「……」


 磯山は答えなかった。


 ただ、部屋の奥を見つめている。


「磯山?」


 慎二が呼ぶ。


 智美はゆっくり首を振った。


「ここ……」


「うん」


「すごく嫌な感じがする」


 その声は、今までよりも小さかった。


 神崎が黒いシミを見ながら言う。


「血……なのかな」


「分からない」


 藤田が答えた。


「古すぎて何の染みかも分からない」


「何かの薬品じゃね?」


 石上が言う。


「そうかもな」


 藤田はスマートフォンを向ける。


 ――カシャ。


「……」


 慎二はその光景を見ながら、妙な違和感を覚えていた。


 何かがおかしい。


 何が、と言われても分からない。


 ただ。


 この部屋には。


 長くいたくない。


 そんな気がした。


「……もういいだろ」


 石上が言った。


「何もねぇな。どうする?」


 慎二はすぐに答えた。


「もう帰らないか?」


 今度は、ちゃんと言えた。


 神崎が肩をすくめる。


「そうね。もう飽きたし」


「えー」


 藤田が不満そうな声を出す。


「何か出ると思ったんだけどな」


「出たら困るだろ」


「まあ、それはそう」


 石上が笑った。


 五人は来た道を戻る。


 檻を抜け。


 地下への階段を上がる。


 その間。


 慎二は一度も振り返らなかった。


 やがて。


 見慣れたエントランスが見えてきた。


 外から差し込む月明かり。


 正面玄関。


 そして。


 夜の空気。


「……外だ」


 神崎が言った。


 五人は廃病院を出た。


 湿った外気が、今度は心地よく感じられた。


「やっぱ外が一番だな」


 石上が伸びをする。


「当たり前だろ」


 慎二も大きく息を吐いた。


 藤田は最後までスマートフォンをいじっている。


「写真、結構撮れたな」


「動画も?」


「もちろん」


「投稿すんなよ」


「なんで?」


「俺、顔出ししたくない」


「編集するって」


「絶対だからな」


 そんなやり取りをしながら、五人は車へ向かった。


 そして。


 藤田が運転席へ。


 石上が助手席。


 神崎が後部座席へ。


 慎二も乗り込む。


「磯山?」


 慎二が振り返る。


「……」


 智美だけが、その場に立ったままだった。


「どうした?」


「……ううん」


 智美は答えない。


 病院を見ている。


 慎二もそちらを見る。


 正面玄関。


 さっきまで自分たちが歩いていた場所。


 暗いエントランス。


 受付カウンター。


 その奥に続く廊下。


 何もない。


 少なくとも、慎二にはそう見えた。


「磯山?」


 智美が呟いた。


「……まだ流れ続けてる」


「何?」


 慎二が聞き返す。


 智美はハッとしたようにこちらを見る。


「ううん」


「……?」


「何でもない」


「そう?」


「うん」


 智美は病院から視線を外した。


 そして、車に乗り込む。


 ドアが閉まる。


 藤田がエンジンをかけた。


 ――ブォン。


 ヘッドライトが廃病院の正面を照らす。


 一瞬。


 エントランスが明るく浮かび上がった。


 受付。


 床に散乱した紙。


 壁。


 そして。


 暗い廊下。


 慎二は何気なく、その奥を見た。


「……」


 何もない。


 そう思った。


 藤田が車を発進させる。


 廃病院が少しずつ遠ざかっていく。


 慎二は後部座席から、もう一度だけ建物を振り返った。


 暗闇の中。


 廃病院は、ただそこに立っていた。


 その隣で。


 磯山が窓の外を見ていた。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ。


 病院が見えなくなるまで。


 ずっと。


 じっと。


 その建物を見つめ続けていた。

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