始まり
八月。
大学の夏休みが始まって、まだ間もない頃だった。
午後十時を過ぎても、昼間の熱気が街に残っている。
駅前の居酒屋では、冷房の効いた店内に学生たちの笑い声が響いていた。
その奥のテーブル席。
五人の大学生が、酒と料理を囲んでいる。
「――でさ、教授がいきなり『四年生なんだから、もう少し自分で考えろ』とか言い始めてさ」
石上徹が、生ビールのジョッキを片手に愚痴をこぼした。
「いや、それはお前が悪いだろ」
藤田亮太が眼鏡を押し上げる。
「なんでだよ」
「卒研の進捗を聞かれて、『順調です』しか答えなかったんだろ?」
「順調なんだからいいじゃん」
「何が順調なんだよ。まだ研究室のパソコンにログインしただけだろ」
「一歩前進だろ」
「そのペースだと卒業までに百歩くらいしか歩かないぞ」
「十分じゃね?」
「十分じゃない」
テーブルに笑い声が広がった。
新田慎二も笑っていた。
工学部四年。
これといって特徴のない顔。
特別高くも低くもない身長。
成績も、大学生活も、ごく普通。
自分で自分を説明するなら、平凡という言葉が一番しっくりくる。
そして、もう一つ。
周りに流されやすい。
今日だってそうだった。
別に飲みに行きたかったわけではない。
徹に誘われて。
優香が来ると聞いて。
藤田も来るらしいから。
――じゃあ、行くか。
それだけだった。
「慎二、これ食べる?」
向かいから声がした。
磯山智美だった。
「ん?」
「唐揚げ。まだあるから」
「ああ、もらう」
「はい」
智美が皿を慎二の前へ寄せる。
長い黒髪。
切り揃えられた姫カット。
童顔で整った顔立ち。
日本人形を思わせるような雰囲気を持っている。
工学部四年。
五人の中でも特に物静かな性格で、こういう飲み会でも、自分から会話を始めることは少ない。
「ありがとう」
「うん」
智美は小さく頷いた。
その隣では、神崎優香がジョッキを空にしている。
「っはー!」
「お前、飲むの早すぎない?」
慎二が言った。
「大丈夫、大丈夫」
優香は笑う。
茶髪をポニーテールにまとめた長身の女性。
医学部に所属しているが、堅苦しいところはなく、五人の中では一番元気で活発だった。
「明日、二日酔いで死ぬぞ」
徹が笑う。
「あたし医学部なんだけど?」
「医学部だからって二日酔いしないわけじゃないだろ」
「細かいこと気にしない」
「お前が医者になったら患者が心配だわ」
「失礼ね」
また笑い声が上がった。
そんな中。
藤田が、ふいにスマートフォンをテーブルへ置いた。
「……なあ」
「ん?」
優香が顔を向ける。
「このあと、心霊スポット行かない?」
慎二の箸が止まった。
「……は?」
「心霊スポット」
「聞こえてるよ」
「じゃあ行こう」
「いや、話が飛びすぎだろ」
藤田は楽しそうだった。
「夏だし」
「それ理由になる?」
「なるだろ」
「ならない」
「じゃあ、どこがいい?」
「そういう問題じゃない」
優香が笑った。
「どこ?」
「廃病院」
「おお」
優香の目が輝いた。
「いいじゃん」
「よくないだろ」
慎二が即座に言う。
「何で?」
「廃病院だぞ?」
「だから面白いんじゃん」
「普通に危ないだろ。床が抜けたり、ガラスが落ちたり」
「それは確かに」
優香が頷く。
「でも行ってみたい」
徹もジョッキを置いた。
「俺も行く」
「石上まで……」
「こういうの、一回やってみたかったんだよ」
「藤田、どこにあるの?」
優香が聞いた。
藤田はスマートフォンを操作した。
「郊外。山の中」
「遠い?」
「車で一時間くらい」
「藤田、車出せる?」
「出せるよ」
「準備いいな」
「こういう日のために車に懐中電灯積んでるから」
「お前、普段から何を想定してるんだよ」
徹が笑う。
藤田は答えず、スマートフォンの画面を見せた。
「ここ」
画面には、古い建物の写真が表示されていた。
黒ずんだ外壁。
割れた窓。
建物を覆う蔦。
写真だけでも、普通の廃墟ではないことが分かる。
「……病院?」
慎二が聞いた。
「結構昔に閉鎖されたらしい」
藤田の声が少し低くなる。
「なんで有名なの?」
優香が聞いた。
「いろいろ噂があるから」
「例えば?」
「まず、閉鎖された理由がよく分からない」
「経営難とかじゃないの?」
「そういう説もある。でも、一番有名なのは――」
藤田が一度言葉を切った。
「入院患者の変死」
空気が少しだけ変わった。
「……変死?」
徹が聞き返した。
「何人も死んだらしい」
「病院で?」
「そう」
「病気で亡くなった人もいるんじゃない?」
「普通ならな」
藤田は画面をスクロールした。
「でも、噂では死因が説明できない患者が何人もいたっていう」
「説明できないって?」
「外傷もない。薬物中毒でもない。病気でもない」
「じゃあ何で死んだの?」
「分からない」
藤田が言った。
「ただ、亡くなる前におかしなことを言っていた患者がいたらしい」
「何て?」
優香が聞く。
藤田は一瞬黙ってから、
「病院のアナウンスが怖い、ってな」
そう言った。
「…………」
慎二は笑えなかった。
徹も黙っている。
優香だけが、少し面白そうな顔をしていた。
「それ、結構怖いじゃん」
「だろ?」
「他には?」
「病院には昔、隔離病棟があったらしい」
「隔離病棟?」
「重症患者や、外部との接触を制限する必要がある患者を入れていた棟」
「そこは残ってるの?」
「残ってる」
藤田が頷いた。
「今も建物の奥にあるらしい」
「……そこまで入れるの?」
「入ろうと思えば」
「思えば、って」
慎二は嫌な予感がしてきた。
「まさか、そこまで行くつもり?」
藤田が笑った。
「せっかく行くんだから」
「いやいやいや」
慎二は首を振る。
「普通の廃病院でも嫌なのに、隔離病棟って……」
「だから面白いんじゃん」
優香が言う。
「優香、お前本当に怖くないの?」
「怖いよ」
「怖いんじゃん」
「でも興味のほうが勝つ」
「マジか……」
慎二は頭を抱えた。
その横で。
「……私は」
智美が口を開いた。
全員が彼女を見る。
「行きたくない」
静かな声だった。
慎二は少し安心した。
「だよな」
智美は頷く。
「うん」
「じゃあ、やめよう」
慎二が言った。
智美が続けた。
「……何か、嫌な予感がする」
徹が笑う。
「ただ怖がってるだけじゃん」
「違う」
智美は首を振った。
「そういうんじゃなくて」
自分でも説明できないのか、少し考える。
「病院の話を聞いたときから……なんとなく」
智美はスマートフォンに表示された写真を見る。
「行かないほうがいい気がする」
慎二も写真を見た。
ただの古い建物。
そう見える。
それなのに。
「……俺も、やめといたほうがいいと思うけど」
慎二が言う。
すると徹が、
「じゃあ俺、行く」
と言った。
「え?」
「優香も行くんだろ?」
「行く」
「藤田は?」
「もちろん」
「ほら」
徹が慎二を見る。
「三人行くぞ」
「……」
慎二は三人を見た。
そして智美を見る。
智美も困ったように三人を見ている。
「……」
慎二はため息をついた。
いつものことだった。
自分は、こういうときに断れない。
「……じゃあ、行くか」
「よし!」
徹が笑う。
「決まり!」
「本当に?」
智美が慎二を見る。
「うん」
慎二は苦笑した。
「みんな行くなら」
智美はしばらく黙っていた。
やがて。
「……じゃあ、私も行く」
「無理しなくていいんじゃない?」
慎二が言う。
「ううん」
智美は小さく首を振った。
「みんなが行くなら」
その言葉は、慎二自身の言葉とよく似ていた。
ただ一つ違ったのは。
智美の表情には、笑みがなかったことだった。
* * *
店を出たのは、午後十一時を過ぎた頃だった。
夜の街はまだ明るい。
酔ったサラリーマン。
笑いながら歩く大学生。
コンビニから漏れる白い光。
走り去る車。
どこにでもある、夏の夜。
これから自分たちが向かう場所とは、あまりにもかけ離れている。
五人は藤田の車へ向かった。
慎二は歩きながら、隣の智美を見る。
「……磯山」
「うん?」
「本当に大丈夫?」
「何が?」
「その……嫌な予感」
智美は少し黙った。
「まだある」
「そう」
「むしろ……」
「むしろ?」
「さっきより強い」
慎二は黙った。
「……気のせいじゃない?」
「そうかもしれない」
智美はそう言って、少し笑った。
「だったらいいんだけど」
* * *
藤田の車が街を離れる。
十分。
二十分。
三十分。
窓の外から、街灯が少しずつ消えていった。
住宅街が途切れる。
コンビニがなくなる。
道路を走る車も減っていく。
そして。
完全な山道に入った。
「……なあ」
後部座席から慎二が声を上げる。
「何?」
運転席の藤田が答える。
「本当にこっち?」
「ナビ見ろよ」
「見ても山しかないんだけど」
「目的地が山の中だからな」
「そういう意味じゃない」
徹が笑った。
「怖いのか?」
「怖くない」
「じゃあいいじゃん」
「……」
慎二は窓の外を見る。
真っ暗だった。
ヘッドライトに照らされた道路。
その左右を覆う木々。
ときおり、枝が車体を擦る。
――ザッ。
――ザザッ。
「……」
慎二は視線を前に戻した。
隣では智美が黙っている。
ずっと窓の外を見ていた。
「磯山」
「うん?」
「寝ていいぞ」
「眠くない」
「そう?」
「……」
しばらく沈黙が続く。
やがて。
「あと十分くらい」
藤田が言った。
「病院?」
「そう」
慎二は時計を見た。
午前零時を少し回っている。
いつの間にか、日付が変わっていた。
その瞬間。
なぜか慎二は、少しだけ嫌な気分になった。
だが、それを口には出さなかった。
やがて木々の向こうに、白い建物が見えた。
「あれじゃない?」
優香が身を乗り出す。
「たぶん」
藤田が答える。
車がカーブを曲がる。
そして――。
山の木々が突然途切れた。
そこだけ、不自然なほど広い空間が広がっていた。
雑草に覆われた広場。
その奥に。
巨大な建物が立っている。
「……」
五人の会話が止まった。
廃病院。
何人もの患者が変死したという噂の場所。
その建物が、月明かりの下に姿を現した。
三階建ての本館。
横に伸びる病棟。
車がゆっくりと広場へ入っていく。
雑草がタイヤに踏み潰される。
――ザッ。
――ザザッ。
やがて車が止まった。
エンジンが切れる。
静寂。
山の中には、虫の声だけが響いている。
誰も、すぐには車から降りなかった。
「……着いたな」
徹が呟く。
「ああ」
藤田が答える。
慎二はフロントガラス越しに病院を見た。
割れた窓。
黒ずんだ壁。
絡みつく蔦。
そして、正面玄関。
扉は半分開いていた。
暗い入口が、まるで巨大な口のように見える。
「……」
慎二は思った。
帰りたい。
だが。
それを口にすることはできなかった。
隣を見る。
智美も病院を見つめていた。
その顔から、血の気が少し引いている。
「磯山……」
「……うん」
「大丈夫?」
「……」
智美は答えない。
しばらくして。
「やっぱり」
小さく呟いた。
「何?」
「ここ……」
智美が病院を見る。
「来ちゃいけなかった気がする」
慎二は何も言えなかった。
その言葉を聞いた瞬間。
なぜか、車内の空気が一段と重くなった気がした。
だが。
「よし、行こうぜ!」
徹がドアを開けた。
外気が車内へ流れ込む。
「ちょっと待てよ」
慎二も慌てて降りる。
優香と藤田も続く。
最後に。
智美がゆっくりと車を降りた。
五人は病院を見る。
誰もいない。
音もない。
ただ、山の中に建つ廃病院だけが、月明かりを浴びている。
藤田がトランクから懐中電灯を取り出した。
「一人一本」
「準備いいな」
徹が笑う。
「こういう日のために持ってきた」
五人がそれぞれ懐中電灯を手にする。
そして。
病院へ向かって歩き始めた。
雑草が足に絡みつく。
湿った空気が肌にまとわりつく。
――ザッ。
――ザッ。
五人分の足音。
その後ろに広がる、誰もいない山。
やがて、正面玄関が近づいてきた。
入口の上には、かつて病院名が書かれていたと思われる看板が残っている。
文字はほとんど剥がれ落ちていた。
その奥。
受付カウンター。
長い廊下。
そして、そのさらに奥に続く暗闇。
慎二は足を止めた。
「……」
何かがおかしい。
理由は分からない。
ただ。
病院の中から、見られているような気がする。
「新田?」
優香が振り返る。
「どうしたの?」
「いや……」
慎二は首を振った。
「何でもない」
その隣で。
智美が病院の入口を見つめていた。
そして、小さな声で言った。
「……ねえ」
「ん?」
「今、誰か……」
全員が振り返る。
「何?」
智美は入口の奥を指差した。
「……見えなかった?」
懐中電灯の光が、暗い受付を照らす。
何もない。
人影もない。
動くものもない。
「何もいないよ」
優香が言った。
「……そう」
智美は手を下ろした。
「ごめん。気のせい」
藤田が入口を見る。
「じゃあ、行こう」
一歩。
藤田が病院の中へ入った。
徹が続く。
優香も入る。
慎二は一瞬だけ迷った。
そして。
「……行くか」
智美と一緒に、入口へ向かう。
そのとき。
病院の奥から。
――カラン。
何かが転がるような音がした。
五人の足が止まった。
誰も喋らない。
静寂。
やがて。
遠くの暗闇から。
――カラン。
もう一度。
何かが転がる音。
慎二は息を呑んだ。
智美が隣で、ぎゅっと懐中電灯を握りしめる。
藤田が光を奥へ向ける。
だが。
そこには何もない。
ただ暗い廊下が続いているだけだった。




