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第9話 『必要だ』と言われても、もう帰れない

雪が舞う砦の正門前で、王都監察官の冷ややかな声が響いた。


「グレイスフォード侯爵家における過去三年の財務不備について、貴女様には王都へ出頭し、説明する義務があります」


リディアは、差し出された羊皮紙の召喚状を震える手で受け取った。

書状には、監察局の厳格な印と共に、父である侯爵からの悲痛な嘆願が添えられていた。


監察官は、事務的な口調で言葉を続ける。


「侯爵家は現在、深刻な資金繰りの悪化により、王都の複数商会から契約不履行の訴えを起こされています。このままでは家産差し押さえの事態に発展しかねません。侯爵ならびに次期当主のアラン様は、『領地経営の細部を把握しているリディアがいなければ解決できない。今すぐ戻ってきてほしい、我々にはお前が必要だ』と強く懇願しておられます」


お前が必要だ。


その言葉を聞いた瞬間、リディアの胸の奥で、古傷が疼くような鈍い痛みが走った。

家産維持の道具として扱われ、散々成果を搾取された挙句に、「正しすぎる」と疎まれて捨てられた。

それは紛れもない事実だ。


しかし、生まれてから二十数年間、彼女の世界のすべてはあの家だった。

どれほど冷遇されても、いつか自分の努力が認められ、「家族として」愛してもらえる日が来るのではないかと、心のどこかで信じたかった自分がいたことも否定できない。


(今、私が戻って問題を解決すれば……父様も兄上も、私の本当の価値を認めてくれるのだろうか)


自分が『必要とされている』という甘美な響きが、有能で理性的なはずのリディアの思考を、薄暗い沼のように引きずり込もうとしていた。



* * *



監察官を客室へ案内した後、リディアは本城の執務室でヴィクトルと向かい合っていた。


暖炉の火が赤々と燃えているのに、リディアの手先は氷のように冷たかった。

机の上には、先ほどの召喚状が置かれている。


「……王都へ、戻るつもりか」


腕を組み、静かに問いかけてきたヴィクトルに、リディアは顔を上げられないまま答えた。


「私には、出頭して説明する義務があります。それに……父たちは、私が必要だと言っています。私が戻らなければ、侯爵家は完全に破綻してしまう」


その声は、自分に言い聞かせるように微かに震えていた。

馬鹿な女だと呆れられるだろうか。あれほど酷い目に遭わされた実家に戻るなどと。


だが、ヴィクトルの口から出たのは、嘲笑でも怒りでもなかった。


「リディア」


静かで、酷く真摯な声だった。


「必要とされることと、尊重されることを取り違えるな」


リディアは、弾かれたように顔を上げた。

ヴィクトルの深い色の瞳が、リディアの迷いを真っ直ぐに射抜いていた。


「使い勝手の良い道具は、誰にでも『必要』とされる。壊れれば修理され、また酷使されるだろう。だが、それは道具としての価値であって、君という人間への敬意ではない。君の家族が求めているのは、君自身か? それとも、都合よく帳簿の穴を埋めてくれる機能か?」


容赦のない正論。

しかしそれは、リディアがずっと目を背けてきた核心だった。


父も兄も、かつての婚約者も。誰もリディアの心を、自由を、尊厳を見ようとはしなかった。ただ「役に立つから」傍に置き、都合が悪くなれば切り捨てたのだ。


(北境の配給制度を修正した時、閣下は私を『必要だ』とは言わなかった。ただ、『君の方が正しい』と、私の働きそのものを認めてくれた……)


ヴィクトルが与えてくれたのは、恩着せがましい庇護ではない。

一人の人間として、実務官として対等に扱うという『尊重』だった。


リディアの瞳から、沼のような迷いがすっと消え去っていく。


「……おっしゃる通りです。私は、必要とされるという言葉に、愛を期待してしまっていました。家の道具に、もう戻るつもりはありません」


リディアは背筋を伸ばし、はっきりとヴィクトルを見据えた。


「王都へ行きます。監察局での監査を受け、彼らの不正と無能を証明し、私自身の潔白を晴らすために。……閣下、どうか私に休暇を」


王都へ向かうということは、圧倒的な権力を持つ実家の圧力と正面から戦うということだ。

リディアは心のどこかで、ヴィクトルが「私も行こう」と言ってくれることを期待していた。彼が傍にいてくれれば、どれほど心強いか。


だが、ヴィクトルは首を横に振った。


「私は同行しない」


冷たい拒絶のように聞こえたその言葉に、リディアが息を呑むより早く、ヴィクトルは机の引き出しから分厚い革張りの書類束を取り出し、ドンッと音を立てて置いた。


「私が北境の軍事力を背景に王都の監査へ乗り込めば、君の父たちは必ずこう主張する。『娘は辺境伯に不当に拘束され、脅されて証言をしている』と。君の正当な主張が、辺境伯の政治的圧力だと曲解される」


ヴィクトルは、リディアの目を真っ直ぐに見て言った。


「これは、君自身が実家と向き合い、君自身の口で勝たなければならない戦いだ。私が君の証言を奪ってはならない」


彼はリディアを突き放したのではない。

彼女が『自分の名前』で勝利するための舞台を、完全に整えようとしているのだ。


「その代わり、武器は私が用意する。……持っていけ」


ヴィクトルが示した革張りの書類束。

それは、リディアが北倉庫で上げた見事な決裁記録の写しと、彼女の能力を保証する北境領主としての公的な証明書だった。


「私の直属の法務官を、正式な補佐人としてつける。王都監察局の手続きにも精通した男だ」


ヴィクトルはさらに続けた。


「護衛の騎士も同行させる。ただし、彼らが入るのは王都までだ。審問の場では室外に待機させる。君の証言に、北境の武力が影を落とすような真似はさせない」


リディアは息を呑んだ。


ただ守るのではない。

守るべき場所と、彼女自身が一人で立つべき場所を、正確に切り分けている。


「誰一人として、道中で君に指一本触れさせることはない。だが、審問の場で語るのは君だ。君はただ、己の正しさを王都で証明してくればいい」


同行して守るのではなく、戦うための剣と盾を与え、一人で立つことを信じて送り出す。

これが、ヴィクトル・ヴァルツァーという男の『庇護』なのだ。


リディアの胸の奥底から、熱いものが込み上げてくる。

震える手で、その分厚い書類束を抱きしめた。


「……ありがとうございます、閣下。必ず、勝って戻ります」



* * *



その日の夜。


出発の準備を整えていたリディアは、自室の机に向かっていた。

正式な召喚状は、手続き上の不備がないよう、同行する法務官へ預けてある。


リディアの手元に残っていたのは、その写しと、侯爵家側から添えられた嘆願書だった。


監察官が告げた「侯爵家がリディアを必要としている」という言葉。

しかし、召喚状の写しに記された『侯爵家側主張』の欄へ目を落とした瞬間、リディアの血液が完全に沸騰した。


『――なお、侯爵家側は、過去三年の財務不備および、現在の違法な契約遅延に関する一切の責任について、当時の実務責任者であったリディア・グレイスフォードの独断によるものと主張している』


「……っ」


リディアは、手にした写しをくしゃりと握り潰した。


彼らは、リディアを「必要だ」と言って呼び戻そうとしているのではない。

自分たちが犯した莫大な負債と、リディアが止めたにもかかわらず兄が署名したあの危険な契約の失敗を、すべてリディア一人の罪として監察局に差し出すつもりなのだ。


娘の成果はすべて男たちの名義で奪っておきながら。

いざ失敗すれば、その責任だけを娘に押し付けて破滅させようというのか。


怒りが、冷たい炎のようにリディアの全身を駆け巡った。

もう、一欠片の未練も、悲しみもない。

あそこにあるのは、家族などではない。ただの浅ましく愚かな敵だ。


コンコン、と扉が叩かれた。


「リディア、起きている?」


聞き慣れた声だった。


「セレナさん?」


扉を開けると、旅装に身を包んだセレナが立っていた。

彼女はいつもの朗らかな笑みを浮かべていたが、その目だけは鋭い商人のものだった。


「王都へ行くと聞いたわ」


「はい。監察局で、すべて説明してきます」


「そう」


セレナは短く頷いた後、声を落とした。


「なら、一つだけ覚えておいて。アラン様が署名した、あの融資商会のこと」


リディアの表情が僅かに強張る。


「何か、わかったのですか?」


「まだ断定はできないわ」


セレナは慎重に言葉を選んだ。


「でも、少し妙なのよ。新興商会にしては資金の動きが大きすぎる。それに、表に出ている商会主と、実際に金を出している人間が一致していない可能性がある」


リディアの脳裏に、あの日の光景が蘇った。


『これはオズワルドが紹介してくれた、王都でも新進気鋭の商会からの融資契約だ』


兄アランの声。


「……オズワルド」


思わず、その名が唇から漏れた。


セレナは答えなかった。

ただ、商人らしい鋭い目を細める。


「私の商会網で、資金元を調べさせているところよ。間に合えば、王都へ届ける」


「ありがとうございます」


「礼は、全部終わってからでいいわ」


セレナはそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。


再び一人になったリディアは、握り潰した召喚状の写しへ目を落とした。


そして、暖炉の火の中へ放り込む。


燃えたのは、正式な召喚状ではない。

父たちが自分に罪を押し付けようとしている、その卑劣な主張の写しだけだった。


羊皮紙の端から、赤い炎が広がっていく。


その時、再び部屋の扉が開き、旅装に身を包んだ北境の法務官と護衛の騎士が姿を見せた。


「リディア様。馬車の準備が整いました。いつでも出発できます」


法務官の手には、監察局の印が押された正式な召喚状が、革製の書類筒に収められている。


「王都到着後、私は正式な補佐人として監察局へ同行いたします。審問が始まりましたら、ご指示どおり室外で待機いたします」


護衛の騎士も続けた。


「我々は王都までの道中と、宿舎周辺の警護を担当します。監察局内には入りません」


リディアは静かに頷いた。


そして、ヴィクトルから託された証拠の書類束を手に取り、振り返った。


その瞳には、かつて実家で虐げられていた令嬢の弱さは微塵もない。

あるのは、北境の過酷な実務を取り仕切る、冷徹で有能な実務官の顔だった。


「行きます。戻るためではありません」


リディアは、王都の空が広がる南の窓を一瞥し、はっきりと宣言した。


「私の名前を取り戻すために」

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