第8話 辺境伯にも、救えないものがある
魔獣の襲撃から数日が過ぎた。
北西村の避難民たちは本城の防衛圏内で無事に冬越しの準備を整え、砦はいつもの厳格な日常を取り戻しつつあった。
リディアの自室の机には、今日も決裁を待つ書類の山が積まれている。
北倉庫の臨時監査担当兼副決裁官としての仕事だけでなく、避難民への特別配給や、周辺の防柵修繕のための物資手配など、彼女の処理能力を見込んだ実務が次々と舞い込んでいたからだ。
王都の侯爵家にいた頃と仕事量は変わらない。
しかし、不思議と疲労感はなかった。自分の出した指示が誰かの命を繋ぎ、その結果が自分の名前で記録されていく。それがどれほど実務者の魂を満たすか、リディアは噛み締めるように実感していた。
「……ん?」
過去数年分の決裁記録と今年の予定表を照らし合わせていたリディアの羽ペンが、ふと止まった。
書類の末尾に記された、ヴィクトル・ヴァルツァーの署名。
力強く、無駄のない見事な筆致だ。
だが、過去の記録を月ごとに並べてみると、ある特定の時期だけ、その署名が微かに乱れていることに気がついた。
(毎年、厳冬期にあたる一月と二月……。それに、つい先日の決裁書類も……)
リディアの脳裏に、数日前のルヴ川での光景がフラッシュバックした。
崩れゆく急斜面へ躊躇なく身を投げ出し、滑り落ちるリディアの手首を掴んだヴィクトル。
あの時、古傷のある右腕でリディアを抱え込み、岩棚へ踏みとどまった彼の身体には、相当な負荷がかかっていたはずだ。
「寒さと……先日の無理が祟って、傷が痛んでいるんだわ」
彼は誰にも言わず、涼しい顔をして激務をこなしている。
辺境伯という立場上、軽々しく弱みを見せるわけにはいかないのだろう。
しかし、数字と記録は嘘をつかない。
リディアは即座に新しい羊皮紙を引き寄せると、ヴィクトルの抱えている決裁案件の一部を、自分や他の高位文官に分散させるための業務再編案を書き上げ始めた。
* * *
その日の午後、リディアは出来上がった再編案を手に、ヴィクトルの執務室を訪れた。
彼は眉間に深い皺を刻み、右手で羽ペンを握りしめながら、羊皮紙に向かっていた。やはり、その手先の動きが普段よりも僅かに硬い。
「閣下。業務の再編案をお持ちしました」
リディアが差し出した書類を一読したヴィクトルは、不快そうに目を細めた。
「私の決裁権限を、大幅に削っているな。なぜだ」
「北西村の復興と、例年以上の降雪に備え、閣下のご負担が集中しすぎていると判断しました。定型的な承認業務は我々実務官に下ろしていただき、閣下には軍事と最終決定のみに注力していただきたく存じます」
リディアは淡々と正論を述べた。
だが、ヴィクトルは書類を机に置き、低い声で言った。
「戦傷への配慮のつもりか。私は病人ではない」
見透かされていた。
軍人としてのプライドが高い彼にとって、同情や気遣いで仕事を奪われるのは屈辱なのだろう。
王都の男たちならば、ここで「女の浅知恵で出しゃばるな」と激怒するところだ。
しかしリディアは、一歩も引かなかった。
「知っています。ですから、働けるようにしています」
リディアの真っ直ぐな瞳に、ヴィクトルが僅かに虚を突かれたような顔をした。
「閣下が倒れれば、北境の防衛線が崩れます。私は閣下を哀れんで仕事を取り上げているのではありません。最も効率的に、最も長く閣下に働いていただくために、この再編案を作りました」
沈黙が流れた。
ヴィクトルは、目の前に立つ令嬢を見つめた。
庇護されるだけの、か弱い花嫁候補ではない。帳簿の僅かな乱れから主の体調を読み取り、感情的な同情ではなく、合理的な制度の修正をもって主を支えようとする、対等な実務者。
ヴィクトルは一度だけ深く息を吐くと、リディアの提出した再編案に、不器用な手つきで署名をした。
「……負けたよ。君の言う通りにしよう」
それは、彼が誰かに背中を預け、初めて支えられる側になった瞬間だった。
* * *
数日後。
どんよりとした鉛色の空から、白い雪が舞い降りていた。
リディアは、砦の裏手にある小さな丘へ向かっていた。
そこに広がるのは、ヴァルツァー家ゆかりの者たちが眠る墓地だ。
黒い外套を羽織ったヴィクトルが、一つの簡素な墓碑の前に立ち尽くしているのが見えた。
足音に気づいたヴィクトルが、肩越しに振り返る。
「……奇遇だな」
「少し、頭を冷やしに出ただけです。お邪魔でしたか」
「いや。構わない」
ヴィクトルは再び墓碑へ向き直った。
リディアもその隣に並び、静かに黙祷を捧げる。墓碑に刻まれているのは、『エレノア・ヴァルツァー』という名だった。
「私の、妹だ」
ぽつりと、ヴィクトルが静寂を破った。
「政務の才能に溢れた、賢い娘だった。私よりも遥かに、領地を豊かにする力を持っていた」
ヴィクトルの声には、深い悔恨の響きがあった。
「だが、当時の王都の派閥争いの中で、女に政務はいらないと、意に沿わぬ政略結婚へ送られた。有能ゆえに夫から疎まれ、才覚を封じられ、心を病んで……私が駆けつけた時には、もう手遅れだった」
リディアは息を呑んだ。
女は有能であってはならない。家の道具として、男を立てるためだけに存在しなければならない。
その王都の呪いのような常識が、かつてヴィクトルの妹の命を奪っていたのだ。
(だから……)
リディアは理解した。
彼がなぜ、古い制度を転用してまで、家に潰されかけた令嬢たちを保護し、教育を与え、自立させて送り出してきたのか。
そしてなぜ、王都で有能さゆえに追放された自分を、名指しで招請したのか。
「同情だけでは、人は救えない」
雪がヴィクトルの黒い外套を白く染めていく。
「逃げ場、金、法、肩書、実務経験、推薦状……そして何より、自分自身の意志で選べる『選択肢』を与えなければ、本当に救ったことにはならない」
それが、妹を救えなかった無力感からヴィクトルが導き出した、彼なりの贖罪であり、絶対の信念だった。
リディアは、じっとヴィクトルの横顔を見つめた。
冷たく厳しい顔立ちの奥にある、深すぎる傷。
彼がリディアを名指ししたのは、妹の姿を重ねたからだろうか。
あの急斜面で、彼が「君まで失うつもりはない」と震える声で抱きしめてきたのは、妹を失ったトラウマが蘇ったからなのだろうか。
リディアは、気づけばその問いを口にしていた。
「……私は、妹君の代わりですか」
雪が、音もなく降り積もる。
ヴィクトルはゆっくりとリディアの方を向き、その瞳を真っ直ぐに捉えた。
悲壮感も、感傷もない。ただ、凍てつくほどに強い理性の光があった。
「違う」
きっぱりと、彼は否定した。
「君は、君だ。リディア・グレイスフォードという、一人の人間だ」
その言葉に、リディアの胸の奥底で、小さな安堵が広がりかけた。
だが、続くヴィクトルの言葉が、その温もりを無惨に切り裂いた。
「代わりにしてはならないから、私は君を妻にしない」
リディアは、冷や水を浴びせられたように硬直した。
「私が君を求めれば、それは必ず、君の自由を奪う鎖になる。恩義や、行き場のない境遇に付け込んで、君の人生を縛り付けることになる」
ヴィクトルの声は、どこまでも論理的で、正しかった。
彼にとって、相手を本当に尊重するとは、決して自分の都合で求めてはならないということなのだ。救い出したのなら、必ず手放し、自由な空へ送り出さなければならない。
「君は、ここで実務の経験を積み、自分の名前を取り戻す。そして時が来れば、自分の意志で、自分の行きたい場所を選ぶんだ」
一見すれば、これほど誠実で思いやりに満ちた言葉はないだろう。
けれど。
(あなたはずっと、『私に選べ』と言うけれど……)
リディアは唇を強く噛み締めた。
彼自身は、それが究極の尊重だと思い込んでいる。
だがリディアには痛いほどわかっていた。彼が本当に恐れているのは、誰かを求めて拒絶されることと、再び大切な誰かを喪うことだ。
相手を尊重しているという正しさを盾にして、彼は最初から、リディアに一つの選択肢しか与えていない。
リディアの人生の選択肢から、『ヴィクトルの隣に残る』というただ一つの未来だけを、最初から取り上げているのだ。
「……冷えてきたな。砦に戻ろう」
ヴィクトルが背を向け、雪の中を歩き出す。
リディアは、その広くて孤独な背中を、悲しい気持ちで見つめることしかできなかった。
* * *
二人が砦の正門まで戻ってきた時だった。
砦の外から、魔獣の襲撃を知らせる警鐘とは違う、重々しい角笛の音が響き渡った。
貴人や公式な使者の来訪を告げる合図だ。
開かれた城門から、一両の馬車が滑り込んでくる。
それは、商会の馬車でも、近隣領主の馬車でもなかった。
車体に燦然と輝くのは、アルディナ王国の王家紋章。
ヴィクトルとリディアが足を止める中、馬車から豪奢な官服に身を包んだ男が降り立った。
その胸元には、王都監察官の記章が光っている。
監察官は二人の前まで歩み寄ると、まず領主であるヴィクトルへ形式的に一礼した。
「ヴァルツァー辺境伯閣下。王都監察局より、正式な任務にて参りました」
ヴィクトルが無言で頷く。
監察官はそれ以上の挨拶を重ねることなく、今度はリディアの方へ向き直り、恭しく一枚の書状を差し出した。
「リディア・グレイスフォード様ですね」
「……はい。そうですが」
嫌な予感が、リディアの背筋を駆け上がった。
監察官は、抑揚のない冷ややかな声で宣告した。
「王都監察局より、家産監査の召喚状をお持ちいたしました。グレイスフォード侯爵家における過去三年の財務不備について、貴女様には王都へ出頭し、説明する義務があります」




