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第7話 追放令嬢、村をひとつ救う

北西村が魔獣群に囲まれた。

伝令の絶叫が執務室に響き渡った直後、ヴィクトルは既にマントを翻して駆け出していた。


「騎士団へ出撃命令! 第一・第二小隊は直ちに北西村へ向かえ。第三小隊は周辺の街道を封鎖し、避難民の誘導路を確保しろ!」


元王国軍参謀の鋭く淀みない指示が、砦中に飛ぶ。

リディアは一瞬だけ呆然としたものの、すぐに己の頬を両手で強く叩き、実務官としての思考回路を強制的に起動させた。


「私も行きます。補給と避難の計画が必要です!」


馬に跨がろうとしていたヴィクトルは、振り返ってリディアを見た。

危険だ、と足手まといを嫌がるかと思ったが、彼は短く頷いた。


「馬に乗れるか」

「はい」

「ついてこい。お前の頭脳が必要になる」


二人は護衛の騎士たちと共に、凍てつく風を切り裂いて北西村へと馬を走らせた。


到着した北西村は、すでに混乱の極みにあった。

村の周囲を囲む防柵の外には、飢えた冬の魔獣たちが数十匹の群れをなして徘徊しており、時折、忌まわしい咆哮を上げながら柵に体当たりを繰り返している。

柵が破られるのは時間の問題だった。


「住民を南の街道からルヴ川の旧橋へ逃がせ! そこを渡れば本城の防衛圏内だ!」


ヴィクトルが剣を抜き放ち、柵の防衛に当たる兵士たちを指揮する。


一方、リディアは村の集会場に飛び込み、戸板を机代わりにして即席の避難・物資輸送計画を立てていた。

村の人口、荷馬車の数、旧橋までの距離。頭の中で素早く数式を組み上げ、最も効率的で犠牲の出ない避難ルートを文官たちに指示していく。


しかし、避難はリディアの計算通りには進まなかった。


「動いて! 荷物は最小限にして、早く馬車に乗って!」


文官たちが叫ぶが、村の広場に集まった農民たちは、頑として動こうとしなかったのだ。

彼らの手には、冬を越すためのわずかな家財や、怯えて鳴く家畜の縄が固く握りしめられていた。


「家畜を置いてなんて行けねえ! これがいなきゃ、春がきても俺たちは畑を耕せねえんだ!」

「爺様がまだ家の奥にいるんだ、見捨てるわけにはいかねえ!」


パニックに陥った村民たちと、焦る文官たちの間で揉み合いが始まっていた。


(どうして……! 命が一番大事なのに、どうしてわからないの!)


リディアは叫びそうになった。

計算上、家畜や重い荷物を運んでいては、魔獣が柵を破る前に全員が旧橋を渡り切ることは不可能だ。

かつての、王都の侯爵家にいた頃のリディアなら、迷わず『非合理だ、荷物を捨てて今すぐ走れ』と正論を叩きつけていただろう。


だが、今の彼女の脳裏には、北倉庫で見た飢餓世帯の姿が焼き付いていた。


『止めた穀物を食う予定だった家は、来週どうなる?』


ヴィクトルの問いが蘇る。

数字の上では正しくても、彼らの感情や人生を切り捨てた計画は、決して人は動かさない。

家畜はただの財産ではない。彼らの誇りであり、未来の命綱なのだ。それを捨てろというのは、ここで死ねというのと同じこと。


リディアは深く深呼吸をすると、広場の中心に立ち、ありったけの声を張り上げた。


「聞いてください!!」


凛とした声が、喧騒を切り裂いた。

王都の貴族令嬢とは思えないほどの気迫に、村民たちの動きが止まる。


「家畜は置いていかなくて構いません! ただし、人と家畜の避難ルートを分けます!」


リディアは手元の図面を掲げた。


「足の遅い老人と子供は、荷馬車に乗って第一ルートの街道を進んでください! 健康な大人たちは家畜を引き連れ、第二ルートの森の小道を使います!」


傍らにいた騎士が、険しい顔で口を挟んだ。


「待て。森の小道は魔獣が潜んでいる可能性がある」


「ですから、先に斥候を出してください」


リディアは即座に答えた。


「騎馬の斥候二名で小道の安全を確認し、問題がなければ合図を。家畜を連れた一団には騎士を前後につけます。街道側の避難民が先に出発し、その後、時間をずらして家畜を移動させてください」


さらに、村の北側を指差す。


「防衛隊には、柵の外へ松脂を使った囮の火を焚いてもらいます。魔獣の注意を村の北側へ引きつけ、その間に南へ抜けるのです」


リディアは村民たちを見回した。


「危険がなくなるわけではありません。ですが、この方法が、皆さんの命と、春以降の暮らしを両方守れる可能性が最も高いです!」


それは、当初の『効率最優先』の計画から、リスクを承知で『村民の執着』を汲み取った修正案だった。

ただ感情に寄り添うだけではない。

斥候による安全確認、騎士の護衛、時間差での移動、囮の火。

現実に実行できる条件を一つずつ組み込んだ避難計画だった。


リディアの理路整然とした、しかし血の通った提案に、村民たちの目に希望の光が宿る。


「わ、わかった! あんたの言う通りにする!」

「おい、婆さんを馬車に乗せろ! 俺たちは牛を引いて森へ行くぞ!」


先ほどまでの反発が嘘のように、村人たちは一斉に動き始めた。


「斥候、先行しろ!」

「第二班、家畜の一団につけ!」

「北側に囮の火を焚け! 煙を絶やすな!」


騎士たちも次々と動く。

リディアの的確な指示と、感情に寄り添った柔軟な対応が、見事に村をまとめ上げたのだ。


その様子を、血塗れの剣を携えたヴィクトルが遠くから見つめていた。

彼の片目には、驚きと、確かな称賛の色が浮かんでいる。


だが、安堵する暇はなかった。

風向きが変わった瞬間、ヴィクトルはピタリと動きを止め、空を仰いだ。


「……血の匂いが、西から流れてきている」


彼は地面にしゃがみ込み、魔獣の足跡と、風に乗って飛んでくる鳥の動きを鋭く観察した。


「この群れは囮だ。本隊は別にいる」


元軍参謀の目が、瞬時に地形と状況を読み解く。


「魔獣の足跡が浅い。空腹で狂っているように見せて、力のある個体が後方に温存されている。……谷の形からして、狙いは南の旧橋だ! 避難民の退路を断つつもりか!」


ヴィクトルはすぐさま伝令を呼んだ。


「第三小隊を旧橋へ急行させろ! 私は先に行く!」


彼は馬に飛び乗ると、避難民が向かった旧橋を目指して疾走した。



* * *



その頃、ルヴ川にかかる旧橋のたもと。

リディアは、最後尾の村人たちを誘導して橋を渡ろうとしていた。


「慌てないで! 一人ずつ、確実に渡ってください!」


リディアの判断は完全に合理的だった。

魔獣の気配を警戒し、一度に橋に乗る人数を制限し、重い家畜は浅瀬へ誘導していた。


しかし、想定外の事態が起きた。


遠くから地鳴りのような咆哮が響き、大型の魔獣群の第二波が姿を現したのだ。

その凄まじい足音が大地を揺らし、長年の凍害でもろくなっていたルヴ川の岸辺の地盤に、決定的な打撃を与えた。


メキメキと、嫌な音が足元から響く。


「きゃあっ!?」


逃げ遅れていた老人が、崩れかけた地面に足を取られて倒れ込んだ。

リディアは咄嗟に駆け寄り、老人の腕を引いて安全な場所へ押しやった。


だが、その直後。

リディアの足元の地盤が、大きく崩落した。


「あ……っ!」


合理的な判断ミスではない。完全に自然の脅威による不可抗力の二次崩落だった。

リディアの身体は雪と土砂に足を取られ、ルヴ川へ続く急斜面を滑り落ちていく。


掴もうと伸ばした指が、凍った土を虚しく削った。

このまま斜面の先まで落ちれば、下を流れる冷たい川へ叩き込まれる。


死を覚悟し、目を閉じた瞬間。


「リディアッ!!」


凄まじい速度で馬を駆ってきたヴィクトルが、崩落地点の手前で馬から飛び降りた。


彼は地面を蹴り、躊躇なく急斜面へ身を投げ出した。

雪と土砂の上を滑りながら、一気にリディアとの距離を詰める。


「っ!」


伸ばされた腕が、リディアの手首を強く掴んだ。


その直後、二人の身体はさらに斜面を滑り落ちた。

ヴィクトルは咄嗟に身体を捻り、斜面から突き出した岩棚へ片足を叩きつける。


「ぐっ……!」


激しい衝撃に、低いうめき声が漏れた。

古傷のある右腕でリディアを抱え込みながら、もう一方の手で岩の縁を掴む。


だが、崩れやすい土は二人分の体重を長く支えられない。


「閣下!」


崖上から騎士の叫び声が響いた。


「ロープを投げろ!」


ヴィクトルが怒鳴る。


次の瞬間、太い救助縄が斜面を滑り落ちてきた。

ヴィクトルは片腕でリディアを抱いたまま、その縄を掴み取る。


「引け!!」


数人の騎士が一斉に縄を引いた。


雪と泥にまみれながら、二人の身体が少しずつ斜面を上っていく。

やがてヴィクトルはリディアを先に安全な地面へ押し上げ、自身も騎士たちの手を借りて崩落地点から這い上がった。


激しい息遣い。


リディアが我に返るよりも早く、強烈な力で身体を引き寄せられた。


「あ……」


ヴィクトルの分厚い両腕が、リディアの華奢な背中を抱きすくめていた。

骨が軋むほど強く、決して逃がさないとでも言うような、圧倒的な抱擁。


「黙っていろ……」


耳元で、ヴィクトルの声がした。


「君まで失うつもりはない」


その声は、かつてないほどに低く、そして明らかに震えていた。

氷のように冷徹な元軍参謀が、呼吸を乱し、恐怖に耐えるようにリディアを抱きしめている。


リディアの頬が、彼の広い胸に押し付けられていた。

そこからは、あり得ないほど速く、大きな心音が聞こえてくる。


(ドクン、ドクン、ドクン)


王都の男たちに見せてきたような、理路整然とした言葉など何も浮かばなかった。

彼は今、自分の身を危険に晒してでも、リディアを救おうとした。

かつて救えなかった『妹の影』を重ねているのだとしても、彼が今抱きしめているのは、紛れもなくリディア自身だった。


「……っ」


不意に、ヴィクトルが弾かれたように腕の力を緩めた。

自分が無意識に取った行動に気づき、ハッと息を呑む気配が伝わる。


彼はゆっくりとリディアから身を離し、乱れた黒髪をかき上げた。

顔は逸らされ、その表情を窺い知ることはできない。


「……怪我はないか」


無理やり平静を装ったような声。


「はい。閣下のおかげで……」


「……今のは忘れろ」


ヴィクトルはそれだけを言い残し、背を向けて立ち上がった。

魔獣の本隊は、到着した第三小隊とヴィクトルの迅速な指揮によって間もなく掃討され、村人たちは一人残らず本城の防衛圏内へと避難を完了した。



* * *



その夜。

砦の自室に戻ったリディアは、未だに身体に残るヴィクトルの強い抱擁の熱と、激しい心音の記憶に囚われていた。


『君まで失うつもりはない』


あの言葉。あの震える声。

彼にとって、私はただの実務官ではない。ただの「送り出すべき女」でもない。

そう思ってしまっても、良いのだろうか。


熱い吐息をつき、リディアが寝台に倒れ込もうとした時。

コンコン、と扉が叩かれた。


「失礼します。王都から、早馬で急ぎの書状が届いております」


受け取った封筒には、見慣れたグレイスフォード侯爵家の紋章が押されていた。

差出人は、兄のアランだ。


リディアは嫌な予感を覚えながら、ペーパーナイフで封を切った。

便箋を開き、そこに書かれていた第一行目に目を落とす。


『今すぐ金を送れ。お前がいないせいで帳簿が回らない』


リディアは、あまりの滑稽さに思わず天を仰いだ。


あれほど傲慢に妹を追放しておきながら、契約締結から三十日後の初回支払期限ですでに破綻し、その後さらに追い詰められ、恥も外聞もなく金の無心をしてくる無能な兄。

彼が署名したあの契約書の遅延条項が発動し、実家がいよいよ崩壊の危機に瀕していることは火を見るよりも明らかだった。

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