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第6話 花嫁候補という名の避難所

『単なる救済対象にあらず。採用候補として招請』


セレナから見せられたその一文は、リディアの心に静かな、けれど確かな火を灯していた。


王都の家では「正しすぎる」と疎まれ、婚約者からは「可愛げがない」と切り捨てられた自分の実務能力。

それを、ヴィクトル・ヴァルツァーという男は正面から評価し、必要としてくれた。


その事実がどれほどリディアの心を救ったか、おそらく彼自身は気づいていないだろう。


北倉庫の臨時監査担当兼副決裁官に任じられてから数週間。

リディアの働きぶりは、以前にも増して精彩を放っていた。

新しく制定した配給制度は、末端の領民にまで確実に温かい穀物を行き渡らせている。帳簿の数字は美しく整い、倉庫の文官たちはリディアの指示に絶対の信頼を置くようになっていた。


充実した日々だった。

自分の能力が正当に評価され、誰かの命を繋ぐために機能している。

だが、その充実感の裏側で、リディアの胸には一つの大きな疑問が膨らみ続けていた。


(なぜ彼は、これほど有能な女性たちを『花嫁候補』として呼び寄せながら、誰一人として妻にせず、全員を送り出してきたの?)


薬草商会の会主となったセレナ。

補給隊長として最前線で兵站を支えるマリベル。

領都で学校長を務めるイザベラ。


彼女たちはいずれも、かつてヴィクトルの花嫁候補としてこの北境へやってきて、そして実務を学び、自立していった。

ヴィクトルは彼女たちを使い捨てるどころか、その能力を開花させ、自分の足で生きていけるように手助けをしている。


それは、王都の貴族たちが考える「結婚」や「庇護」とは全く異なるものだった。


その日の夕刻。

その疑問をどうしても解消したくて、リディアは本城の奥にあるヴィクトルの執務室を訪ねた。


分厚い木製の扉をノックすると、中から「入れ」という低い声が響く。


「失礼いたします、辺境伯閣下。少しお時間をいただけますか」


執務机に向かっていたヴィクトルは、羽ペンを置き、静かにリディアを見据えた。


「構わない。北倉庫で何か問題でも起きたか?」


「いえ、実務の報告ではありません。……個人的な、質問です」


リディアは真っ直ぐにヴィクトルの瞳を見つめ返した。

片目の下にある古い傷跡。戦場を生き抜いてきた男の、厳格で冷たい顔立ち。

だが、リディアはもう、この男がただ無愛想で恐ろしいだけの人物ではないことを知っている。


「閣下はなぜ、女性を花嫁候補として迎えては、送り出すのですか」


単刀直入な問いに、ヴィクトルの表情は僅かにも動かなかった。

まるで、いつかその質問が来ることを最初から知っていたかのように。


「……王都では、私が次々と女を乗り換える好色な偏屈男だと噂されているそうだな」


「それは誤りだと、私は知っています。セレナさんたちからお話を伺いました」


リディアの言葉に、ヴィクトルは短く息を吐き、重い口を開いた。


「この北境には、『花嫁保護慣例』という古い縁組制度が残っている。元々は、過酷な冬を越すために、他領から健康な娘を半ば強引に娶るための野蛮な制度だった」


ヴィクトルは立ち上がり、背後の窓から白く染まり始めた北の大地を見下ろした。


「だが、あまりに強引な運用が問題となり、後世の王令で保護規定が加えられた。今は候補者本人の署名がなければ成立せず、第三者機関への登録も必要だ。その手続きを踏めば、実家であっても強制的に連れ戻すことは禁じられている。候補者の私信と個人財産は完全に保障され、いつでも自由な退去が認められている」


リディアは息を呑んだ。

実家が連れ戻せない。個人の財産が守られる。そして、自由退去。

それはつまり。


「家に潰されかけた女性を、合法的に匿うための『避難所』……」


「そうだ」


ヴィクトルは振り返り、リディアを見た。


「同衾の義務も、婚姻の義務も、社交接待の義務もない。仕事をした場合は、男の名義ではなく、すべて本人名義の報酬と実績として公的な記録に残す。……そうでもしなければ、あの王都の古い体質の中で、身寄りを持たない女が自分の力で立つことなど不可能だからだ」


なんという男だろう。

悪評を被ることを承知の上で、彼はこの古い制度を転用し、家という檻に囚われた女性たちに、逃げ場と、教育と、実務経験と、資金を与えていたのだ。


「ここは檻ではない」


ヴィクトルの低い声が、静かに執務室に響いた。


「北境で働きたい者には、その力を生かす場所を用意する。外へ出たい者には、自力で生きていけるだけの力をつけさせる。選択肢を持ち、自分の意志で行き先を決める。そのための足掛かりだ」


それは、究極の尊重だった。

相手を支配せず、自分の都合の良いように囲い込まず、ただ純粋に相手の自由と未来だけを願う行為。

王都の男たちが口にする「君を守ってやる」という甘い言葉の何万倍も、誠実で、重みのある庇護だった。


けれど。


その完璧なまでの正しさと尊重が、リディアの胸を鋭く突き刺した。


(彼は、私を求めてくれた。でも、それは……)


北境に必要な人材としてリディアを呼んだのは事実だ。

彼は、ここで働くことを望んでくれている。


だが、それでも。

彼女を自分のもとへ縛るつもりはないのだ。


能力を認められた。一人の人間として真っ直ぐに見つめられた。

初めて、自分の居場所を見つけたと思ったのに。

彼の描く未来の設計図の中に、「ヴィクトルの隣に立つリディア」という存在は、やはり最初から組み込まれていないのではないか。


リディアは、無意識のうちにドレスの裾を強く握りしめていた。

胸の奥が、軋むように痛い。


「……では」


震えそうになる声を必死に抑え込み、リディアは静かに問うた。


「いつか私が、北境の外でも生きていけるようになったら。閣下は、私も送り出すのですか」


ヴィクトルは、リディアの顔をじっと見つめ返した。

その深い色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か重苦しい感情が揺らいだように見えた。


だが、次に彼の口から紡がれた言葉は、残酷なまでに揺るぎないものだった。


「私は、君に北境で働いてほしい。だから君を呼んだ」


リディアの心臓が、大きく跳ねた。


だが。


「それでも、ここに縛るつもりはない」


続く言葉が、胸の奥へ静かに突き刺さる。


「経験を積んだ後、残るか、出るか。決めるのは君だ。君が外へ行く道を選ぶなら、私は止めない」


ピシャリと、見えない扉が閉められたような気がした。


君が憎いからではない。君に価値がないからでもない。

むしろ必要としているからこそ、それでも相手の自由を奪わない。


それがヴィクトル・ヴァルツァーという男の持つ、逃れられない信念だった。


リディアは唇を噛んだ。

反論したかった。私はただ働く場所が欲しいのではない。あなたに認められたこの場所で、あなたの力になりたいのだと。

できることなら、あなた自身に「残ってほしい」と言ってほしいのだと。


だが、有能な令嬢として常に「正解」を叩き出してきた彼女の理性が、それを言うことを許さなかった。

彼の行いは、どこまでも正しい。これ以上ないほどの善意だ。それに縋って駄々をこねるなど、許されるはずがない。


重く、息苦しい沈黙が、二人の間に降りた。


その時だった。


――カンッ! カンッ! カンッ! カンッ!


不意に、外から甲高い金属音が響き渡った。

砦の最も高い位置にある見張り塔から鳴らされる、異常事態を知らせる警鐘だった。


ヴィクトルの目の色が一瞬にして変わる。

先ほどまでの静かな領主の顔から、歴戦の軍略家の顔へと切り替わった。


バンッ、と乱暴に執務室の扉が開け放たれ、顔面を蒼白にさせた伝令の兵士が転がり込んでくる。


「申し上げます! 北西の観測所より狼煙が上がりました!」


伝令は息を荒らげ、絶叫するように報告した。


「北西村が、魔獣群に囲まれました!」

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