第5話 私を名指しした、本当の理由
北倉庫の臨時監査担当兼副決裁官に任じられてからというもの、リディアの日々は劇的に変化した。
朝から晩まで、ひたすらに数字と現場の実態に向き合う毎日。
王都の侯爵家にいた頃も同じように働いていたが、決定的に違うことが一つだけあった。
ここでは、誰もリディアの手柄を奪わない。
彼女が書き換えた配給制度の修正案は、「リディア・グレイスフォード考案」として公式な記録に残り、文官たちは彼女の指示を仰ぐために頭を下げてくる。
自分の頭脳と働きが、自分の名前で評価される。
ただそれだけのことが、どれほど魂を震わせる喜びであるか、リディアは初めて知った。
「すっかり、北境の顔ね」
砦の一角にある来客用のサロンで、向かいの席に座るセレナが微笑ましそうに目を細めた。
テーブルの上には、彼女の商会が扱っているという香り高い薬草茶から、温かな湯気が立ち上っている。
「顔だなんて、とんでもない。私はただ、与えられた仕事の数字を合わせているだけです」
「それが一番難しいのよ。特にこの過酷な北境ではね」
セレナは優雅な所作でティーカップを傾けた。
その堂々とした振る舞いや、身に纏う上質な毛皮を見ていると、彼女がかつて「没落しかけた令嬢」であったことなど到底信じられない。
「……セレナさんは、なぜ商会を立ち上げようと思ったのですか?」
リディアの問いに、セレナはカップを置き、ふう、と小さく息を吐いた。
その瞳の奥に、過ぎ去った古い記憶を浮かべるように。
「私ね、実家の親の負債のせいで、修道院に入れられる寸前だったの。もし修道院が嫌なら、親ほども歳の離れた、三度も妻を亡くしているような好色な男の後妻に入れと言われていたわ」
リディアは息を呑んだ。
王都の華やかな社交界の裏側では、珍しくない話ではある。家の道具として切り捨てられる娘の末路。それは、一歩間違えればリディア自身の未来でもあった。
「絶望していた時に届いたのが、ヴァルツァー辺境伯からの『花嫁候補』としての招請状だった」
セレナは懐かしそうに目を伏せた。
「北境へ着いた日、私はボロボロだったわ。でもね、旦那様は私の顔なんて見なかった。ただ、私が王都の温室で育てていた薬草の知識についてだけ、しつこく聞いてきたの」
それは、リディアが到着した日に受けた扱いと同じだった。
道中の轍や煙突の数を聞いてきた、あの鋭い眼光。
「そして言われたわ。『君を妻にする気はない』って」
セレナはくすくすと笑った。
「その代わり、彼は私に薬草園の管理を任せてくれた。読み書きや計算の足りない部分は、文官をつけて教育してくれたわ。資金を貸し与え、商会を立ち上げるための推薦状を書いてくれた。……『ここは檻ではない。君が出ていくための場所だ』って言ってね」
セレナだけではない。
マリベルという女性は補給隊長に、イザベラという女性は学校長になった。
かつて花嫁候補だった女性たちは、ヴィクトルという男によって翼の傷を癒やされ、生きる術を与えられ、それぞれの未来へと羽ばたいていったのだ。
(なんて、羨ましいのだろう)
リディアは、無意識のうちに膝の上で両手を握りしめていた。
彼女たちは、ヴィクトルに未来を見てもらえたのだ。庇護されるだけの弱々しい鳥としてではなく、自分の力で空を飛べる存在として、彼にその能力を信じてもらえた。
それに比べて、自分はどうだろうか。
確かに北倉庫の監査と決裁に加えられた。だが、それはあくまで実務上の処理能力を買われたに過ぎないのではないか。
いずれ期限が来れば、彼から「さあ、出ていけ」と冷たく送り出される。彼が見据える北境の未来に、リディアの居場所はないのだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
黙り込んだリディアの顔を覗き込むようにして、セレナが声を落とした。
「……羨ましいと、思っているのね」
図星を突かれ、リディアは肩をビクンと跳ねさせた。
「私たちが、旦那様に救い出されて、未来をもらえたから。……でも、あなたは違う」
リディアは顔を上げた。
「違う?」
セレナはティーカップの縁を指でなぞりながら、真剣な眼差しでリディアを見つめ返した。
「王都の貴族たちは節穴ばかりだけど、商人は違うわ。私たちはお金を扱う生き物よ。誰が本当に力を持っているか、誰が帳簿の数字を動かしているか、匂いでわかるの」
セレナの言葉に、リディアの心臓がどきりと音を立てた。
「グレイスフォード侯爵家は、三年前、莫大な負債を抱えて破綻寸前だった。それが急に、見事な債務再編と領地経営によって息を吹き返した。表向きは、次期当主であるアラン様の手柄ということになっていたけれど……」
セレナの唇に、不敵な笑みが浮かぶ。
「あんな、単利と複利の計算も怪しい男に、あんな鮮やかな再建案が作れるわけがない。私を含め、商会網のトップにいる人間たちは皆、気づいていたわ。グレイスフォード家の裏には、凄腕の実務者がいるってね」
そして、その実務者の正体が次女のリディアであることを、セレナは独自の情報網で掴んでいたのだ。
「その情報を、私は旦那様に伝えたの。……北境の過酷な冬を乗り越えるために、今、最も必要な頭脳が王都で腐っていると」
リディアの目が、限界まで見開かれた。
「旦那様はあなたを、救いたい哀れな女として呼んだんじゃないわ」
セレナの言葉が、リディアの鼓膜を震わせ、魂の奥底まで真っ直ぐに突き刺さってくる。
「旦那様はあなたを、北境に必要な『人材』として名指ししたのよ」
ヴィクトルは、リディアが実家を追放されて行き場を失ったから、同情して拾い上げたわけではない。
彼は最初から、リディア・グレイスフォードという人間の才能を、その圧倒的な実務能力を欲していたのだ。
「そんな……私を、必要だと……?」
家族からは「正しすぎる」と疎まれ、婚約者からは「妻に向かない」と切り捨てられた能力。
それを、あの男は正面から求め、名指しで王都から引き抜いたというのか。
震えるリディアの前に、セレナが一枚の紙片を差し出した。
それは、花嫁候補の選定時に使われる内部書類の、密かな写しだった。
「これを見れば、旦那様がどういうつもりであなたを呼んだか、よくわかるはずよ」
リディアは恐る恐るその紙片を受け取り、そこに記された力強い筆跡に目を落とした。
見覚えのある、ヴィクトル自身の文字だった。
そこには、たった一行、こう記されていた。
『単なる救済対象にあらず。採用候補として招請』
リディアの胸の内で、今まで抱えていた惨めな痛みが、一瞬にして熱い奔流へと反転した。
私は、可哀想な追放令嬢だから拾われたのではない。
彼に、その能力を請われてここにいるのだ。




