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第4話 君に足りないのは、能力ではない

北境の本城に滞在を始めてから数日。

リディア・グレイスフォードは、与えられた私室の机で膨大な帳簿と格闘していた。


分厚い石造りの壁は外の寒風を遮ってくれるが、それでも底冷えのする部屋である。

暖炉の火を背に受けながら、リディアは羽ペンを走らせ、数字の羅列を一つ一つ目で追っていた。


「花嫁候補」としての甘い扱いや、王都の貴族令嬢が好むような優雅な茶会など、この城には存在しない。

リディアに与えられたのは、実務の課題だった。


かつてこの地へ送られ、そして「送り出されて」いった没落令嬢たちが、ここで実務を学び自立していったというセレナの言葉を、リディアは身をもって実感していた。

与えられたのは、領内の物流拠点の一つである『北倉庫』の過去数年分の穀物出納記録である。


王都の侯爵家で、幾度となく複雑な債務再編や領地経営の帳簿を読み解いてきたリディアにとって、数字は嘘をつかない最も誠実な言葉だった。


(……おかしいわね)


ページをめくる手が止まる。

リディアの目が、微かな不自然さを捉えた。


入庫の記録と、正規の手続きを踏んで出庫された記録。

その間に、わずかだが確実に、合算が合わない箇所が散見される。数ヶ月にわたり、少しずつ、まるで鼠が囓るように備蓄穀物が消えているのだ。


「帳簿外の流出がある……」


王都の感覚であれば、これは即座に処分を下すべき事案だ。

リディアはすぐさま別紙を用意し、流出した総量と、その時期、関与が疑われる役人の署名をリストアップした。

そして、被害の拡大を防ぐための『緊急棚卸し及び疑義出庫の一時保留案』を書き上げると、足早にヴィクトルの執務室へと向かった。


執務室では、ヴィクトルが書類の山に囲まれながら、不機嫌そうな顔で文官たちに指示を飛ばしていた。

彼はリディアの姿を認めると、人払いをし、彼女が提出した報告書に目を落とした。


静かな部屋の中に、紙を繰る音だけが響く。


「……正確だ。数年分の巧妙な細工を、よく数日で見抜いたな」


ヴィクトルは顔を上げ、短く称賛の言葉を口にした。

女が指摘したからといって、不機嫌になることも、難癖をつけて手柄を横取りすることもない。純粋に彼女の眼力を評価する声だった。


だが、彼はリディアが提出した一時保留案の書類には、署名しようとしなかった。


「一つ、聞こう」


ヴィクトルの鋭い眼光が、真っ直ぐにリディアを射抜く。


「この帳簿外の穀物流出を止めたとして……止めた穀物を食う予定だった家は、来週どうなる?」


リディアは、一瞬言葉に詰まった。


「それは……疑義のある経路だけを止めるのです。不正を犯している者が、利益を失うだけでは……」


「数字だけを見れば、君の言う通りこれは不正だ。だが、帳簿の向こう側で何が起きているか、君はまだ見ていない」


ヴィクトルは、署名のない一時保留案の書類をリディアに突き返した。


「自分の目で確かめてこい。判断はそれからだ」


突き放すような言葉だったが、そこには失望ではなく、確かな問いかけが含まれていた。



* * *



その日の午後、リディアは護衛兼案内役の文官を伴い、北倉庫の周辺と、隣接する領民の居住区へと足を運んだ。


吹きすさぶ冷たい風の中、彼女が見たものは、王都の整然とした美しい街並みとは程遠い、過酷な現実だった。


調査の結果は、リディアの想定を半分裏切り、半分は超えるものだった。

確かに、倉庫管理の役人の一部が私腹を肥やすために、商人へ穀物を横流ししている形跡があった。これは純然たる罪であり、早急に処罰すべきだ。


だが、帳簿から消えた穀物の多くは、別の場所へ向かっていた。


「……あれは?」


リディアが視線を向けた先には、粗末な小屋の前に身を寄せ合うようにして座る、老人と痩せた子供たちの姿があった。

彼らの手には、北倉庫の刻印が押された古い麻袋が握られている。


「彼らは、今年の凍害で働き手を失った世帯です」


案内役の文官が、苦々しい顔で口を開いた。


「冬を越す蓄えがありません。本来ならば救済の対象となるはずですが、手続きに時間がかかり、正規の配給を待っていては凍え死んでしまいます。だから……倉庫の役人たちが、規則を破って見逃しているのです。黙認供給です」


リディアは息を呑んだ。

彼らは、私腹を肥やす悪徳役人ではなく、目の前の命を繋ぐために、帳簿を誤魔化して穀物を流していたのだ。


しかも、その流れは正規の記録を欠いている。

帳簿だけを見れば、私腹を肥やす横流しと区別がつかない。


もし、リディアが提案した一時保留案がそのまま実行されていれば。

横流しをする悪徳役人の経路を止めることはできても、同時に、あの老人や子供たちへ向かう穀物まで止めることになっていた。


(私はまた、同じことを……)


冷たい風が頬を打つ。

実家で追放を宣告された日、父が忌々しげに吐き捨てた言葉が蘇った。


『お前は常に正しい。そして、正しいがゆえに人を追い詰める』


リディアは自分の過ちに気づき、顔を青ざめさせた。

自分は数字の整合性だけを見て、正しい処理をした後に人がどう生きていくかまで、まったく見ていなかったのだ。

全てを止めようとしたわけではない。それでも、帳簿上の疑義だけで経路を切り分ければ、人の命を繋ぐ流れまで断ち切っていた。


ヴィクトルの「来週どうなる?」という問いの重さが、今になってリディアの胸に重くのしかかってきた。



* * *



夜。

リディアは自室の机に向かい、ランプの明かりの下で羽ペンを握りしめていた。


不正をただ断罪し、流れを止めるだけでは冬は越せない。

ならば、どうするべきか。


(不正を止めるのではなく、不正を必要としない仕組みを作らなければ)


黙認供給に頼らざるを得ないのは、正規の救済手続きが複雑で遅すぎるからだ。

リディアは、昼間の調査の後、ヴィクトルから借り受けた過去の救済制度案の書類を広げた。

そこには、ヴィクトル自身が起案した、領民を救うための配給制度の骨子が記されていた。だが、軍人上がりである彼の案は、目的は正しいものの、手続きの経路に無駄が多く、末端の文官に負担が集中する構造になっていた。


リディアの頭の中で、数字と現場の状況が猛烈な勢いで噛み合っていく。


労働の対価としての特別配給枠の明文化。

高齢者や病人への福祉備蓄の正規化と、手続きの簡略化。

私腹を肥やす役人を排除しつつ、命を繋ぐためのルートを合法化する再編案。


リディアは赤いインクをつけ、ヴィクトルが作成した既存の制度案に、次々と修正を書き込んでいった。

より効率的で、無駄がなく、末端まで血の通う仕組みにするために。


自分の案が赤字で埋まっていくのを見れば、普通の男なら面子を潰されたと激怒するだろう。

だが、リディアの手は止まらなかった。彼が求めているのは、耳触りの良いお世辞ではなく、北境を生き抜くための正解であるはずだからだ。


気づけば、夜は深く更け、書類はリディアの引いた赤字で埋め尽くされていた。


コンコン、と。

不意に控えめなノックの音がして、扉が開いた。


「まだ起きているのか」


現れたのは、分厚い外套を羽織ったヴィクトルだった。

見回りから戻ったばかりなのか、その肩には微かに雪が乗っている。


「申し訳ありません。どうしても、今日中に仕上げたくて」


リディアは立ち上がり、インクで汚れた指先を隠すようにして、書き上げたばかりの書類を差し出した。

真っ赤に修正された制度案。

ヴィクトルはそれを受け取ると、ランプの明かりに寄せて、無言のまま目で追い始めた。


室内に、張り詰めた静寂が落ちる。

リディアは胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。

家では、彼女がこうして兄や父の案を修正するたびに、「女の分際で賢ぶるな」「可愛げがない」と疎まれ、成果だけを奪われてきた。


長い沈黙の後。

ヴィクトルはゆっくりと顔を上げ、書類からリディアへと視線を移した。


「……そこは、君の方が正しい」


低く、落ち着いた声だった。


リディアは思わず瞬きをした。

そこに怒りや劣等感は微塵もない。男としての面子でも虚栄心でもなく、ただ純粋に、リディアの出した答えが「より良い正解」であることを認める、圧倒的な度量。


「君に足りないのは、能力ではない」


ヴィクトルは、リディアの赤いインクで埋まった書類を大切そうに丸めると、静かに告げた。


「現場の血肉を知る経験だけだ。……見事な再編案だった」


それは、リディアが生まれて初めて、自分の能力を正当に、そして自分の名前で評価された瞬間だった。

胸の奥底から、熱いものが込み上げてくる。


そして、翌朝。


リディアは、北倉庫の管理棟へ呼び出された。

そこには、出納係の文官たちと、昨日リディアが不正を指摘した役人たちが揃って整列させられていた。


ヴィクトルは彼らの前に立つと、リディアを指し示し、一切の感情を交えない淡々とした声で宣告した。


「今日から君を、北倉庫の臨時監査担当兼副決裁官に任じる」


「え……っ?」


リディアは驚きのあまり声を漏らした。

文官たちもざわめきを隠せない。つい数日前にやってきたばかりの、王都からの花嫁候補が、領内の重要な物流拠点の監査と決裁に加わるというのだ。


「新しい配給制度の試験運用と、不正の切り分けは君の案で進めろ。通常の決裁は任せる。ただし、備蓄総量を大きく動かす案件と処罰を伴う案件は、私の最終承認を通せ」


ヴィクトルはざわめく文官たちを一瞥した。


「責任は私が持つ」


家では正論を吐いたがゆえに追放された女が。

この北の地では、間違いを正しく修正したことで、新たな権限と居場所を与えられたのだ。


ヴィクトルの背中を見つめながら、リディアは自分が今、かつてないほど清々しい気持ちでいることに気がついていた。

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