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第3話 送り返された令嬢は、なぜ笑っている

豪華な馬車から降り立った豪奢な毛皮の女性は、セレナ・フォルクと名乗った。


「さあ、外で立ち話をするような気温じゃないわ。中へ入りましょう」


彼女は呆然としているリディアの手を引くようにして、砦の内部へと案内してくれた。

案内されたのは、簡素ながらも清潔に整えられた応接室だった。石造りの壁には厚いタペストリーが掛けられ、大きな暖炉には赤々と薪が燃えている。


外の暴力的な寒風が嘘のように、室内は暖かな空気に満ちていた。


リディアが長椅子に腰を下ろすと、セレナは慣れた手つきで戸棚から茶器を取り出し、ふわりと花の香りがする温かい茶を淹れてくれた。

王都の貴族令嬢であれば、自ら茶を淹れるようなことはしない。しかし、彼女の無駄のない所作は、人に傅かれることを待つ令嬢のものではなく、自らの足で立つ実務者のそれだった。


「温まるわよ。私の商会で扱っている、特製の薬草茶」


「……ありがとうございます」


リディアは両手でカップを包み込み、ゆっくりと一口飲んだ。

冷え切っていた内臓から、じんわりと熱が広がっていく。大きく息を吐き出すと、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。


向かいの席に座ったセレナは、カップを片手に楽しげな視線をリディアに向けていた。

正確には、リディアの顔ではなく、彼女の膝の上に大切に畳んで置かれている分厚い外套を見つめていた。


「それ、旦那様の外套でしょう?」


セレナの指摘に、リディアは小さく頷いた。


「はい。外の風があまりにも冷たかったので、辺境伯閣下がお貸しくださいました。北境では、客人に対してこのような実用的な配慮をしてくださるのですね。素晴らしい気遣いだと思います」


リディアは心からの称賛を口にした。

王都の男たちならば、気の利いた甘い言葉の一つでもかけるだろうが、凍える身体を温める実利には何の役にも立たない。無言で防寒具を置いていくヴィクトルの態度は、リディアにとって非常に合理的で好ましいものに思えたのだ。


しかし、リディアの真面目な感想を聞いたセレナは、目を丸くした後、くすくすと肩を揺らして笑い始めた。


「旦那様が女性にご自分の外套を渡すなんて、初めて見たわ」


「え……?」


「あの人はね、本当に必要なことしかしないの。ただの客人なら、砦の中へ早く案内するように兵に指示を出して終わりよ。自分の身につけていたものを、わざわざ個人的に渡すなんてね」


セレナは面白くてたまらないというように笑っている。

リディアは困惑して、膝の上の外套に視線を落とした。土と古い血の匂いが微かに残る、無骨な革の外套。


(ただの、客人への礼儀でしょう?)


リディア本人は深く受け取らなかった。

先ほど「君を妻にする気はない」と明確に拒絶されたばかりなのだ。特別扱いなどされる理由がない。

ただ、セレナの言葉の端々に滲むヴィクトルへの親愛と信頼の念が、リディアの胸に別の疑問を呼び起こした。


「あの、セレナ様」


「様はいらないわ。ただの商人だもの。セレナでいいわよ」


「では、セレナさん。失礼を承知で伺いますが……あなたは以前、ヴァルツァー辺境伯の『花嫁候補』としてこの地へいらしたのですよね?」


リディアの問いに、セレナは隠す様子もなく頷いた。


「ええ、そうよ。もう五年も前の話だけどね。実家の借金のカタに、修道院か年の離れた好色な男の後妻にされそうになっていたところを、北境からの招請状に救われたの」


「王都の噂では、辺境伯閣下は花嫁候補を全員『送り返す』と聞いていました。送り返された令嬢は、実家に見放されて没落するか、修道院に入るしかない、と……」


そこまで言って、リディアは目の前のセレナの姿を改めて見つめた。

上質な毛皮、堂々とした態度、そして「自分の商会」という言葉。どう見ても没落した人間の姿ではない。


セレナはふわりと微笑むと、立ち上がって部屋の隅にある書棚から、分厚い革張りの記録簿を取り出してきた。

それをリディアの前のテーブルに広げる。


「王都の貴族たちは、自分たちの見たいものしか見ないのよ。少し、この記録を見てごらんなさい」


リディアは促されるまま、その記録簿に目を通した。

そこには、過去に北境へやってきた花嫁候補たちの名前と、その後の『処遇』が記されていた。


『マリベル・アスト。滞在期間一年。その後、北境補給隊長に就任』

『イザベラ・ロウ。滞在期間二年。その後、領都における平民および女性向け実務学校の学校長に就任』

『セレナ・フォルク。滞在期間一年半。その後、王都と北境を結ぶ薬草商会の会主に就任』


ページをめくるたびに、リディアの目は見開かれていった。

誰一人として、没落などしていない。修道院にも入っていない。

それどころか、彼女たちは実家にいた時よりも遥かに強かな地位を得て、自分自身の名前で立派に生きているではないか。


「補給隊長……冬季の北境における兵站と備蓄の管理は、尋常な実務能力で務まるものではありません。学校長も、商会の会主も……」


リディアは震える指で記録簿をなぞった。

実家にいた頃、リディアはどれほど完璧に帳簿を仕上げても、領地を救う交渉をまとめても、すべて「当主である父の功績」か「次期当主である兄の手柄」として処理されてきた。

女が自分の名前で仕事をし、正当な地位と報酬を得る。それがどれほど困難なことか、リディアは骨の髄まで知っている。


「どういう、ことですか……? 彼女たちは、妻に選ばれなかったのでは……」


顔を上げたリディアに、セレナは優しく、しかし確固たる誇りを持って告げた。


「私たちは送り返されたんじゃない。送り出されたの」


暖炉の火が、パチリとはぜた。


「旦那様はね、家という檻に潰されかけている女たちを一時的に保護するために、この古い『花嫁保護慣例』を利用しているだけなのよ。ここで実務を教え、適性を見極め、資金と推薦状を持たせて、自立させてくれる」


リディアの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。


顔立ちも持参金も見ず、道中の轍や煙突の数、馬の消耗度を尋ねてきたヴィクトルの鋭い眼光。

「なるほど。君は飾りではないな」と、リディアの能力そのものを評価した低い声。


彼が全員を送り返す偏屈な男だという王都の噂は、完全に間違っていた。

彼は女性を使い捨てるのではなく、逃げ場を与え、翼を癒やし、自分の力で飛べるようにして空へと放っていたのだ。


なんという男だろうか。

王都の礼法や家の体面など見向きもせず、ただ愚直に、人の持つ能力と未来だけを見つめている。


リディアは、かつて花嫁候補だった女性たちが、それぞれ自分の未来を掴み取ったことを知り、少しだけ羨ましく思った。

同時に、先ほどの彼の拒絶が再び胸を刺す。


(では、私も……いずれここから『送り出される』ために呼ばれたのだろうか)


家を追放されたリディアにとって、それは間違いなく救いであるはずだった。自分の名前で生きられる未来が約束されているのだから。

しかしなぜか、胸の奥に小さな鈍い痛みが走った。

彼に能力を認められたのに、彼の未来の隣には、自分が立つ場所はないと言われたような気がして。


リディアが膝の上の外套を無意識に強く握りしめたその時、窓の外で再び風が唸り声を上げた。

北の冬は、もうそこまで来ている。



* * *



同じ頃、王都のグレイスフォード侯爵家。


リディアが去った後の執務室は、わずか数日で未処理の書類の山に埋もれていた。


リディアが屋敷を出たあの日。

アランは一度、第五条の危険性を理解し、契約書への署名を思いとどまっていた。


だが、その日の夕刻、オズワルドは契約書を前に渋るアランを鼻で笑った。


「まさか、本気でリディアの言葉を信じているのか?」


「だが、第五条は……」


「形式上の担保条項だ。商会側にも確認してある。実務上、問題になるようなものではない」


オズワルドはそう断言した。


「リディアは昔からそうだろう。起こるかどうかも分からない最悪の事態を並べ立てて、自分だけが正しい顔をする。あれだけ人前で指図されて、今度は妹の言葉に怯えて契約まで取りやめるつもりか?」


その一言が、アランの自尊心を正確に抉った。


次期当主である自分が、追放したばかりの妹に屈したと思われる。

その屈辱に耐えられなかったアランは、結局、契約書を引き寄せた。


そして、第五条から目を背けるようにして署名したのだ。


それから三十日。


契約締結後、最初の支払期限が訪れた。


兄アランは、暖炉の火が燃えているにもかかわらず、額にべっとりと冷や汗を浮かべていた。


彼の手元には、ひと月前に誇らしげに署名した融資契約書と、新進気鋭の商会から届いたばかりの一枚の通知書がある。

そこには、初回の支払い遅延に伴う、担保移転の手続き開始が冷酷な文字で記されていた。


「利息が……違う? いや、これは、どういう意味だ」


アランは震える手で契約書の条文を読み返す。

信じられない思いで目で追ったその一文。


それは、リディアが出立の日に指で押さえた、第五条の但し書きだった。

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