第2話 偏屈辺境伯は、私の顔を見なかった
王都からの長く過酷な旅路の果てに、その城塞はそびえ立っていた。
ヴァルツァー辺境伯領の拠点となる本城。
しかしそれは、王都の貴族たちが好んで建てるような、豪奢な装飾に満ちた宮殿とは程遠い建造物だった。
厚く切り出された無骨な石造りの外壁。
魔獣の襲撃を想定して作られたであろう、狭く高い位置にある窓。
装飾性よりも防衛能力と実用性を極限まで追求したその砦は、厳冬の空の下で威圧的なほどの静謐さを保っていた。
馬車から降り立ったリディア・グレイスフォードは、吹き付けてきた北の寒風に思わず身をすくませた。
刺すような冷気が、王都仕様の薄い外套をあっさりと通り抜けて肌を粟立たせる。
(これが、北境の風……)
寒冷地であるとは知識として知っていたが、肌で感じる暴力的なまでの冷え込みは想像以上だった。
それでもリディアは背筋を伸ばし、冷たい風から逃げることなく顔を上げた。
追放同然で実家を追い出され、この北の果てへと送られた。
だが、リディアの中に悲壮感はない。家産維持の道具として扱われ、成果を奪われ続けるだけの人生よりは、遥かにマシだった。
それに、あの招請書。
花嫁候補を全員送り返すことで有名な辺境伯が、なぜか『リディア・グレイスフォード』という個人を名指しで指定していた事実が、彼女の胸の奥底で小さな熱を帯びていた。
私は捨てられたのではない。彼が、私を呼んだのだ。
その理由を知るまでは、こんな寒さで凍えているわけにはいかない。
リディアが長旅の疲労を隠して出迎えを待っていると、砦の分厚い城門の向こうから、複数の蹄の音と男たちの荒々しい声が響いてきた。
「資材の搬入は裏門へ回せ! 雪が降る前に防水布を被せておけよ!」
「第二小隊は馬の世話が終わったらすぐに食堂へ行け。温かいスープが出ているはずだ」
泥にまみれた数騎の馬が、中庭へと勢いよく駆け込んでくる。
馬たちが荒い鼻息を吐き出す中、先頭を進んでいた大柄な男が軽やかに馬から飛び降りた。
四十代前半とおぼしきその男は、王都の夜会で見かけるような甘い美男子ではなかった。
黒髪には白いものが混じり、鋭い眼光を放つ片目の下には、刃物で付けられたような古い傷跡が刻まれている。
分厚い外套は泥と土埃に塗れており、手綱を握っていた右手には無骨な革手袋が嵌められていた。その手袋の下にも、歴戦を思わせる深い戦傷があることが窺える。
彼こそが、この北境を治める主。
元王国軍参謀にして、花嫁候補を全員送り返す偏屈な男、ヴィクトル・ヴァルツァー辺境伯その人だった。
ヴィクトルは手袋を外し、近くにいた従者に手綱を渡すと、こちらに向かって真っ直ぐに歩み寄ってきた。
低い土音を立てて近づいてくるその威圧感に、リディアは無意識に居住まいを正す。
「到着したか」
低く、地を這うような声だった。
リディアは完璧な淑女の礼をとろうとドレスの裾を摘んだ。
「お初にお目にかかります、辺境伯閣下。リディア・グレイスフォ――」
「道中の雪解け水はどうだった」
挨拶の途中で、唐突に投げかけられた言葉。
リディアは思わず瞬きをした。
彼はリディアを一瞥したが、その顔立ちを値踏みするような視線は一切向けなかった。
実家が用意した持参金が積まれているはずの荷馬車にも、微塵も興味を示していない。
ヴィクトルが真っ直ぐに見据えているのは、着飾った『花嫁候補』としてのリディアではなく、一人の人間としての彼女だった。
「……南街道の第三関所を越えたあたりから、日陰の地面がぬかるんでいました。荷馬車の轍は、深いところで三寸近く沈み込んでいたかと」
王都の令嬢であれば「泥だらけで不快でしたわ」と眉をひそめる場面かもしれない。
だが、リディアの頭脳は即座に実務官としての思考回路に切り替わっていた。道中の光景を思い出し、正確な数値を弾き出す。
「東の村の煙突の数は?」
休む間もなく、次の問いが飛んでくる。
試されている。リディアは直感した。
「視認できた家屋の約八割から煙が上がっていました。残りの二割は、薪を節約するために共同で暖をとっているか、冬を前に村を離れた空き家かと思われます」
「護衛の馬の消耗は」
「先頭の二頭は息が上がっていました。特に右の馬は、到着直前に右前脚を僅かに庇う素振りを見せています。蹄鉄の摩耗か、軽い捻挫かもしれません。早急な手当てを推奨します」
「ルヴ川にかかる橋脚のきしみはどうだった」
ヴィクトルが僅かに目を細める。彼が先程まで泥だらけになっていたのは、おそらく別の橋の補修現場に立っていたからだろう。
「馬車が渡る際、中央の石柱から乾いた音が鳴りました。凍害によって内部にひび割れが生じている可能性があります。本格的な雪が降る前に、補強材を入れる必要があるかと」
澱みなく、全てを即答した。
帳簿の数字だけでなく、現場の状況を正しく把握し、問題点を洗い出す。それこそが、リディアが実家の領地経営を立て直した武器だった。
風が吹き抜け、ヴィクトルの黒い外套が大きく翻る。
彼は無言のまま、じっとリディアの瞳を見つめ返した。
王都の男たちは、リディアがこうして正確な事実を述べると、決まって不愉快そうな顔をした。
『女の分際で賢ぶるな』『可愛げがない』。
父も、兄も、婚約者だったオズワルドもそうだった。
だが、ヴィクトルの顔に浮かんでいたのは、嫌悪でも劣等感でもなかった。
彼は静かに頷き、ただ一言、こう告げた。
「なるほど。君は飾りではないな」
それは、リディアの人生で初めて与えられた、能力に対する純粋で正当な評価だった。
男の顔色を窺うための愛らしさでもなく、家柄でもなく、彼女自身の『見る目』を認められた瞬間。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
この人ならば、私の言葉を、私の働きを、私のものとして見てくれるかもしれない。
だが、その淡い期待は、続く彼の言葉によって冷水に沈められた。
「長旅をご苦労だった。中へ入れ。温かい食事と湯を用意させてある」
踵を返そうとしたヴィクトルは、一度だけ肩越しに振り返り、感情の読めない声で宣告した。
「だが、君を妻にする気はない」
ピシャリと跳ね除けられたような感覚。
花嫁候補として名指しで呼んでおきながら、到着したその数分後に拒絶される。
噂は本当だったのだ。彼は女性を迎えては、その全員を送り返す。
なぜ呼んだのかと問いかけようとした時、不意に強い北風が吹き付けた。
「っ……」
リディアの細い肩が、寒さで大きく震える。気丈に振る舞ってはいても、限界だった。
ヴィクトルは歩みを止めると、無言のまま、自身が肩に掛けていた分厚い外套を乱暴に引っ掴んだ。
そして、リディアに直接着せかけるような真似はせず、彼女のすぐ横にある荷箱の上にそれをバサリと置いた。
「風が冷たい。……必要なら使え」
それだけを言い残し、ヴィクトルは今度こそ振り返ることなく砦の奥へと歩き去っていった。
残されたリディアは、荷箱の上に置かれた大きな外套を見つめた。
革と獣毛で作られたそれは、ひどく無骨で、土と古い血の匂いが微かに混じっている。
『着ろ』という命令ではなかった。
あくまで『必要なら使え』という選択肢。
彼はリディアの顔立ちや持参金には一切興味を示さなかったが、彼女が寒さに凍え、長旅で疲労しきっていることには正確に気づいていたのだ。
リディアはそっと手を伸ばし、その外套を引き寄せた。
重く、不格好な外套。だが、肩に羽織ると、驚くほどの温かさが冷え切った身体を包み込んだ。
妻にはしないと突き放しておきながら、凍えることを見過ごせない男。
なぜ、自分を名指ししたのか。なぜ、誰も妻にしないのか。
彼の中に渦巻く矛盾に、リディアの思考が引き寄せられていく。
その時だった。
砦の外から、澄んだ鈴の音が響いてきた。
見れば、先程までの泥だらけの馬たちとは明らかに異質な、豪華な装飾が施された大型の商会馬車が滑り込んでくる。
王家にも出入りするような大商会の紋章が刻まれた扉が開き、中から一人の女性が軽やかに降り立った。
豪奢な毛皮を纏い、鮮やかな赤茶色の髪を揺らすその女性は、今年で二十八歳になるはずだが、実年齢よりもずっと若々しく生命力に溢れていた。
彼女はきょとんとしているリディアを見つけると、ふわりと花の咲くような笑みを浮かべて近づいてきた。
「あなたがリディア・グレイスフォードね。無事に着いてよかったわ」
親しげに声をかけてきたその女性の顔に、リディアは見覚えがあった。
以前、王都の社交界の端で一度だけ見かけたことがある。たしか彼女も、かつてヴィクトルの元へ向かい、そして『送り返された』はずの花嫁候補の一人だったはずだ。
没落の憂き目に遭っているはずの元花嫁候補が、なぜこれほど堂々と、成功者のような身なりで北境に現れたのか。
混乱するリディアの耳元で、女性――セレナは、悪戯っぽく囁いた。
「驚いた? 無理もないわね」
セレナは、リディアが羽織っているヴィクトルの外套を意味深な目で見つめると、楽しげに目を細めた。
「あなたの実務能力の高さを、あなたの名前と共に旦那様に教えたのは……他でもない、私よ」




