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第1話 お前は正しすぎる

「お前は正しすぎる。この家にはいらない」


侯爵家当主である父の低く冷ややかな声が、埃っぽい執務室の空気を震わせた。


窓の外では、王都に初冬を告げる冷たい風が吹き荒れている。

だが、室内の空気はそれ以上に凍てついていた。


巨大なマホガニーの執務机を挟んで、リディア・グレイスフォードは父と向き合っていた。

豪奢な装飾が施された部屋の中で、彼女だけが地味なインク染みのついた実務用のドレスを着ている。


侯爵家の次女であるリディアは、今日この日まで、この家を裏から支え続けてきた。

兄が見落とした契約書の罠を見抜き、父が放置して膨れ上がった負債を三年がかりで立て直し、領民への増税を一切行わずに領地の危機を救った。


その結果が、これである。


彼女の有能さは、当主である父の権威を傷つけ、次期当主である兄アランの無能さを白日の下に晒した。

彼らにとって、リディアは家産を維持するための便利な機能であっても、敬意を払うべき家族ではなかったのだ。


「……もう一度、おっしゃっていただけますか」


リディアは静かに問い返した。

感情を交えない、いつも通りの淡々とした声だった。


「聞こえなかったのか。お前はもう、グレイスフォード家には必要ないと言ったのだ」


父は忌々しげに顔を歪め、机の上に数枚の書類を投げ出した。

それは、北の果てへと向かうための通行証と、ある縁組の招請状。そして、父自身の署名が入った追放宣告書だった。


「お前のその、他人の落ち度をいちいち数え上げるような正しさが、この家の空気をどれほど悪くしているか。女の分際で帳簿に口を出し、兄の顔に泥を塗る。これ以上、お前を置いておくわけにはいかない」


追放宣告。

しかも、後から言葉を翻せぬよう、当主直筆の署名まで入った正式な書面である。


しかし、リディアの視線は父の顔にも、投げ出された自分への処分の書類にも向いていなかった。


彼女の瞳は、執務室の長椅子でふんぞり返っている兄、アランの手元をじっと見つめていた。

彼の手には、羽ペンと、たった今署名しようとしている真新しい契約書が握られている。


「兄上」


リディアの凛とした声が響く。


「その契約書には、署名しないでください」


アランはピタリと羽ペンの動きを止め、眉間に深い皺を刻んでリディアを睨みつけた。


「……なんだと?」

「今はお前の処分の話をしているのだぞ、リディア!」


父が声を荒らげるが、リディアは怯むことなく兄へ一歩踏み出した。


「だからです。私が今日この家を出るなら、なおさら今、その契約を止めなければなりません」


アランが鼻で笑った。

妹に指図されることへの苛立ちが、その軽薄な顔にありありと浮かんでいる。


「お前にはもう関係のないことだろう。これはオズワルドが紹介してくれた、王都でも新進気鋭の商会からの融資契約だ。これさえあれば、領地の北鉱山をさらに開発できる。俺の初仕事の邪魔をするな」


「それは利息で儲けるための契約ではありません」


リディアは毅然と言い放った。

彼女の頭の中には、すでにその契約書がもたらす最悪の未来が克明に描かれていた。


「一度でも支払いが遅れた時、担保をまるごと奪うための契約です」


「馬鹿なことを言うな。遅れなければいいだけだろうが。我が家の資金繰りなら十分に回せる」


「北境の冬は、馬車が止まります」


リディアの言葉に、アランが怪訝な顔をした。


「……は?」


「どんなに良質な鉱石を掘り出しても、冬の間は王都へ運べず、利益は入ってきません。支払いの遅延は確実に起きます」


そして、リディアはアランの手元にある紙片の一点を指差した。


「今それに署名すれば、初雪の頃には北鉱山を失います。第五条の但し書きです」


沈黙が落ちた。


執務室から音が消えた。

アランは呆然として手元の書類に目を落とし、第五条の項目をなぞる。彼の顔からすっと血の気が引いていくのがわかった。


リディアの指摘が正しいことを、彼自身が悟ったのだ。

もしリディアがこの場で声を上げなければ、ひと月余り後、グレイスフォード家は最大の収入源である北鉱山を失い、完全に没落していただろう。


アランの指から力が抜けた。

羽ペンの先が契約書から離れ、机の上へ置かれる。


少なくとも、この場で署名を強行できるほど、彼も愚かではなかった。


本来なら、感謝されてしかるべき場面である。

だが、父の口から漏れたのは、深い溜息だった。


「……そういうところだ、リディア」


父の声には、安堵よりも濃い嫌悪が混じっていた。


「お前は常に正しい。そして、正しいがゆえに人を追い詰める。自分がどれほど賢いかを見せつけるために、相手の無知を責め立てる。そんな女が、誰に愛されるというのだ」


リディアは奥歯を噛み締めた。

決して自分が賢いとひけらかしたかったわけではない。ただ、家を守りたかっただけだ。家族が破滅するのを黙って見過ごすことなどできなかっただけなのに。


「侯爵閣下の仰る通りです」


不意に、部屋の隅から別の声が響いた。

今まで壁際で腕を組んで黙っていた男が、ゆっくりと歩み出てくる。


オズワルド・ベルク。

見目麗しい伯爵家の子息であり、リディアの婚約者であった男だ。


オズワルドは、リディアを見下ろすように冷ややかな視線を向けた。


「君は確かに正しい。有能で、隙がない。だが……妻には向かない」


その言葉が、リディアの胸に冷たく突き刺さった。


「私が求めているのは、安らぎを与えてくれる愛らしい妻だ。私を論破し、私のやり方に赤字を入れて修正するような『優秀な実務官』ではない。君と一緒にいると、自分が無能な男になったような気にさせられる」


オズワルドはそう言って、わずかに顔を歪めた。

彼の言葉の端々には、リディアの有能さを御しきれない男の劣等感と、それをリディアの「可愛げのなさ」のせいにして正当化しようとする卑屈さが滲み出ていた。


「婚約は破棄させてもらう。……それに、ちょうど都合よく、君には北境から招請状が届いている」


オズワルドが顎でしゃくると、父が先ほど投げ出した書類を指差した。


「見ろ、リディア」


父の言葉に従い、リディアは机の上の書類を手に取った。

そこには、王国の北端、魔獣が徘徊する過酷な寒冷地を治める『ヴァルツァー辺境伯領』の印が押されていた。


「北境のヴァルツァー辺境伯。花嫁候補を何人も迎えては、その全員を送り返すことで有名な、あの偏屈な男の元へ行ってもらう」


リディアでも噂は知っていた。

歳は四十を過ぎており、無愛想で恐ろしい顔つきをした元軍人。何人もの令嬢が花嫁候補として北へ向かい、そして誰も妻に選ばれることなく帰されてきたという。


「北境花嫁保護慣例に基づく、正式な招請だ。先日届いたものだが、使い道ができて何よりだ。これならば、婚約破棄された傷物の令嬢でも受け入れてもらえるだろう」


父は冷酷に言い放った。

要するに、届いた招請状を厄介払いに利用するつもりなのだ。遠い北の地へ追いやり、二度と王都の社交界に、そしてこの家の敷居を跨がせないつもりなのだろう。


「……この制度は、候補者本人の署名が必須のはずです」


リディアは書類の末尾を見つめながら言った。


「私が署名を拒んだら、どうなさるおつもりですか?」


「その時は、修道院にでも入るんだな」


アランが吐き捨てるように言った。


先ほどまで握っていた危険な契約書は、長椅子の脇に伏せられている。

第五条の意味を理解した今、少なくともこの場では署名するつもりを失ったらしい。


リディアは、目の前の三人の男たちを静かに見回した。

家産維持の道具として自分を利用し、用済みになれば責任を押し付けて切り捨てる父。

妹の忠告を鬱陶しがり、見栄と虚栄心だけで家を傾かせる兄。

有能な妻を愛する度量がなく、自分の弱さを相手のせいにした元婚約者。


(……ああ、そうか)


リディアはすとんと腑に落ちた。

自分は今まで、この人たちに必要とされれば、いつか家族として愛されるのだと誤認していた。


だが、違った。

彼らが求めていたのは、文句を言わずに尻拭いをしてくれる都合の良い道具だ。リディアという一人の人間ではない。


ここに残っても、自分の成果は兄の名義にされ、失敗は自分の責任として処理され続けるだけだ。自分の名前と人生は、永遠に奪われたままだ。


リディアは迷いなく机上の羽ペンを手に取った。


さらさらと、流れるような筆致で、同意書の署名欄に自らの名前を書き込む。

父たちが驚いたように目を丸くしたが、リディアは構わずに書類を整えた。


「よろしい。今日限りで、私はこの家を出ます」


未練は一切なかった。

むしろ、重苦しい鎖からようやく解き放たれたような、奇妙な清々しさすら感じていた。


リディアは、自分の控えとなる招請書と、父の署名入り追放宣告書の控えを手元へ引き寄せた。

追放を命じたのは父自身であり、自分は正式な招請に本人の意思で応じた。その事実を示す書面だ。実務を担ってきた者として、手元に残すべき証拠を曖昧にするつもりはなかった。


そして招請書を折り畳もうとして、ふと、その文面に目を留めた。


何気なく流し読みしていた箇所に、あり得ない一文が記されていたのだ。


彼女は思わず瞬きをし、もう一度その文字列を凝視した。


『招請者指定候補 リディア・グレイスフォード』


リディアの心臓が、大きく跳ねた。


花嫁候補は通常、家同士の調整や仲介人を通じてリストアップされるものだ。

だが、この書類は違った。


(私は、家に捨てられただけではない……?)


リディアは、北の空を思い浮かべた。

一度も会ったことのない、偏屈で恐ろしいと噂の辺境伯。花嫁候補を全員送り返してきた男。


その男が、最初から、リディア・グレイスフォードという個人を名指しで求めていた。


冷たい風が窓を叩く音が、どこか遠い世界への扉が開く音のように、リディアの耳に響いていた。

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