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第10話 私はもう、家の道具ではありません

王都監察局の審問室は、冷たい石造りの壁に囲まれ、重苦しい静寂に支配されていた。


巨大な円卓の長座に座るのは、王家から全権を委任された厳格な老監察官。

その対面に、リディア・グレイスフォードは背筋を伸ばして着席していた。彼女の斜め後ろには、正式な補佐人として認められたヴィクトル直属の法務官が静かに控えている。


護衛の騎士たちは、事前の取り決め通り審問室の外だ。

北境の武力を、この場へ持ち込まないために。


そして、円卓を挟んだ向かい側には、父であるグレイスフォード侯爵と、顔面を蒼白にさせた兄アラン。さらに、関係人として呼ばれた元婚約者、オズワルド・ベルク伯爵子息の姿があった。


「これより、グレイスフォード侯爵家の家産および財務不備に関する監査審問を開始する」


監察官の低く威厳のある声で、審問の幕が開かれた。


「侯爵家は現在、複数商会からの債務不履行により、王都の金融筋に多大な混乱を招いている。当主である侯爵、これについての釈明を」


父は、苦々しい顔で立ち上がると、真っ直ぐにリディアを指差した。


「すべては、そこにいる次女リディアの責任です」


迷いのない、堂々とした責任転嫁だった。

父は監察官に向かって、淀みなく言い放つ。


「我が家の財務および領地経営の実務は、長年彼女に一任しておりました。しかし彼女は、些細な家族の諍いから責務を放棄し、身勝手にも北境へ出奔したのです。現在の混乱は、引き継ぎもなしに実務責任者が逃亡したことによる、一時的な書類の停滞に過ぎません」


「そうだ! あいつが逃げたせいで、急ぎの契約書に俺が署名する羽目になったんだ!」


アランが父の言葉に便乗し、声を荒らげる。


「俺は騙されたんだ。あいつが普段からきちんと商会を管理していれば、あんな悪辣な遅延条項のある契約を結ばされることはなかった!」


男たちは必死だった。

自分たちの無能を棚に上げ、すべての失敗を「実務責任者であった娘の逃亡」のせいにしようとしている。

もしリディアが一人でここに来ていたなら、あるいはかつての「愛されたい」と願う彼女のままであったなら、その威圧感と罪悪感の押し付けに屈していたかもしれない。


だが、今のリディアの心は、北の湖面のように静まり返っていた。


「……よろしいでしょうか、監察官殿」


リディアは静かに立ち上がり、傍らの法務官から受け取った分厚い革張りの書類束を、円卓の上にことりと置いた。


「侯爵と次期当主の主張には、致命的な誤りがあります。私は責任を放棄して逃亡したわけではありません。当主の明確な意志により、正式に『追放』されたのです。これがその証明たる、当主直筆の署名入り追放宣告書と、北境花嫁保護慣例の招請同意書です」


提出された公文書を確認した監察官が、鋭い視線を父へ向ける。

父は居心地悪そうに視線を逸らした。


「次に、現在の財務不備が『私の不在』によるものかについてです」


リディアは書類の束から、数枚の紙を抜き出し、円卓の中央へ滑らせた。


「これは、私が家を出る直前に作成していた、向こう三年の安全な返済計画書の写しです。そしてこちらが、私が家を出た後に、アラン様が自ら署名し、侯爵の決裁印が押された新規の融資契約書です」


アランが「あっ」と短い悲鳴を上げた。


「私は家を出る直前、この契約書には絶対に署名してはならないと、遅延条項のリスクを明確に警告いたしました。第五条の但し書きを示し、初回支払期限に遅延が起きれば北鉱山を失うと説明しています。その場には、オズワルド卿も同席しておられました」


突然話を振られたオズワルドが、肩をビクンと跳ねさせた。


「実際、アラン様はその場では署名を見送っています」


審問室の空気が、僅かに変わった。


「ですが、私が屋敷を去った後、改めて契約書へ署名した。警告を理解した上で、自らの意志で危険な契約を締結したのです。そして、私が作成した健全な返済計画を破棄したのも彼らです。これが証拠です」


「ち、違う!」


アランが慌てて立ち上がった。


「あれは、問題ないと言われたんだ! 実務上は何の危険もない、妹が大げさに騒いでいるだけだと……!」


言いかけて、アランはハッと口を噤んだ。


遅かった。


老監察官の目が鋭く細められる。


「誰に、そう言われた」


「そ、それは……」


アランの視線が、無意識にオズワルドへ向いた。


オズワルドの顔から、さっと血の気が引いた。


リディアは何も言わなかった。

ただ、その一瞬の視線だけを静かに見届けた。


監察官は、リディアが提出した書類と、侯爵家が提出した帳簿を照らし合わせた。

数字と証拠は、決して嘘をつかない。

リディアの不在が家を壊したのではない。彼女が抑え込んでいた彼らの無能さが、彼女が消えたことで一気に吹き出しただけなのだ。


「さらに、もう一点」


リディアの追及は止まらない。

彼女の視線は、円卓の端で青ざめている元婚約者、オズワルドを真っ直ぐに射抜いた。


「アラン様が署名したこの悪辣な融資契約についてです」


オズワルドの喉が、僅かに動いた。


「北境へ発つ前、私はこの商会について詳しく調べる時間がありませんでした。ですが、この融資契約をアラン様へ紹介したのがオズワルド卿であることは確認しています」


「そ、それがどうした! 商会を紹介することの何が罪だ!」


「紹介しただけなら、何の問題もありません」


リディアは淡々と言った。


「ですが、王都へ向かう直前、セレナ・フォルク商会から連絡がありました。新興商会にしては資金の動きが大きすぎる。表向きの商会主と、実際の資金提供者が一致していない可能性がある、と」


オズワルドの表情が凍りついた。


リディアは、法務官へ視線を向けた。


「続きを」


「承知しました」


北境の法務官が一歩前へ出る。

その手には、複数の商会帳簿と送金記録の写しがあった。


「フォルク商会の調査結果を受領後、王都到着と同時に、監察局の許可を得て資金経路の照合を行いました」


一枚。

また一枚。


円卓へ証拠が並べられていく。


「融資商会へ流入した資金は、三つの名義商会を経由しています。ですが、送金日、金額、保証人記録を照合した結果、その実質的な資金元はベルク伯爵家の管理下にある商会へ行き着きました」


「なっ……!?」


オズワルドがガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。


「つまり」


リディアが静かに口を開く。


「アラン様が署名したこの融資契約。仲介した商会の資金の流れを洗ったところ、オズワルド・ベルク卿の実家であるベルク伯爵家のダミー商会に行き着いたのです」


「君は、有能な妻を愛せないから婚約を破棄するとおっしゃいましたね。ですが本当は、私が帳簿を見張っている限り、グレイスフォード家から不当な利益を搾り取れないから私を追い出したのではありませんか?」


「ち、違う! それはただの投資で……!」


「私が家を出た後、第五条の危険を理解して署名を止めていたアラン様に、実務上は問題ないと再び契約を勧めた」


オズワルドの唇が震えた。


「一度でも支払いが遅れれば、我が家の北鉱山の権利がそちらへ移る手はずでしたね。……帳簿の動きが、すべてを物語っています」


完璧に裏付けられた証拠の数々。

商会網による資金調査と、正式な補佐人である法務官の検証を経たその書類に、反論の余地は一切なかった。


監察官は重々しく頷き、宣告の準備に入る。

オズワルドは絶望に顔を覆い、アランは震える膝を抱えて座り込んでいた。


逃げ道が完全に塞がれたことを悟った父が、突然、声のトーンを変えた。


「……リディア。もう、よい」


父は、まるで聞き分けのない子供を諭すような、かつての『父親』の顔を作ってリディアを見た。


「お前の優秀さはよくわかった。私とアランが間違っていた。……だから、戻ってきなさい」


それは、実の父親からの初めての謝罪であり、彼女の能力への懇願だった。


「お前が戻れば元通りだ。借金も、領地の経営も、お前ならすぐに立て直せるだろう。新しい婚約者も見つけてやる。グレイスフォード家には、お前が必要なんだ」


哀れな姿だった。

彼らはまだ、リディアが「家族に愛されたい」と願う、都合の良い操り人形だと思っているのだ。

謝れば、必要だと言ってやれば、喜んで自分たちの尻拭いをしてくれると信じている。


リディアは、かつて自分が焦がれた父親の姿を静かに見つめ返し、はっきりと告げた。


「だから戻りません」


冷ややかな、一切の熱を持たない声だった。


「私はもう、家の道具ではありません。あなた方のために数字を合わせる人生は、あの日、あなた方が私を切り捨てた時に終わりました」


感情的に喚き散らすこともなく、復讐の喜びに歪むこともない。

ただ、淡々と過去を切り捨てる娘の姿に、父は愕然と口を半開きにした。


「……監査の結論を述べる」


監察官の厳正な声が響いた。


「まず、法的根拠を確認する」


老監察官は、円卓の上に置かれた一冊の法令集へ手を置いた。


「王家から爵位および領地統治権を預かる貴族家が、重大な金融不安を引き起こし、領民生活または王国の信用秩序を脅かした場合、王命を受けた監察局は、一時的な財務監督権を行使できる」


父の顔が強張った。


「グレイスフォード侯爵家の債務不履行は、既に複数商会へ波及し、王都金融筋に混乱を生じさせている。本件は、その適用要件を満たす」


審問室に、重い沈黙が落ちた。


「提出された証拠に基づき、財務不備および違法契約の責任は、グレイスフォード侯爵およびアラン卿にあると断定する。リディア嬢の責任は一切問わない」


監察官の声に、一切の揺らぎはなかった。


「侯爵家を、王都監察局の一時財務監督下に置く。侯爵は今後、一定額を超える借入、担保設定、領地資産の処分について、監察局の事前承認を必要とする。また、アラン卿の独断での契約行為を禁ずる」


それは、貴族としての信用と財務権力の事実上の剥奪だった。


「さらに、オズワルド・ベルク卿。貴殿の利益相反および詐欺的融資への関与については、別途、王室法務局にて詳細な調査を行う。覚悟しておくように」


「そんな……私の、私の社会的立場が……」


オズワルドが崩れ落ちる。

敵を物理的に殺したわけではない。しかし、彼らは自らが犯した責任の重さを、本来あるべき場所へ返されただけだった。

理性的で、完全なる決着。


リディアが深く一礼し、踵を返そうとした、その時だった。


「……ふざけるな」


権限を失い、追い詰められた父の目には、理性を失った狂気が宿っていた。


「こんなものが認められるか……! たかが女の分際で、偉そうに証拠などと……お前は、あの野蛮な辺境伯に操られているだけだ!」


父は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、血走った目で監察官へ叩きつけた。


「正式な申立書を提出する! これは、北境花嫁保護慣例の濫用だ! 辺境伯による、未婚令嬢の不当拘束である!」


その言葉に、リディアは足を止めた。

父は、自分が助かるためなら、ヴィクトルの名誉すら泥で汚すつもりなのだ。


「あの男は、保護という名目で有能な娘を誘拐し、洗脳して実家を攻撃させているのだ! ただちに娘を王都へ返還し、辺境伯を処罰せよ!」


狂気じみた父の申立書を受け取った監察官は、眉間に深い皺を寄せ、ゆっくりとリディアを見た。


「……事態は、侯爵家の内部問題にとどまらなくなったようですね」


監察官は、冷徹な声で宣告した。


「申立を受理します。王都監察局は、ヴィクトル・ヴァルツァー辺境伯にも説明を求めます」

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