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第11話 送り返された令嬢たちの証言

グレイスフォード侯爵が放った最後の一矢。

それは、自らの保身のために北境の主を「誘拐犯」として告発するという、あまりにも見苦しく、浅ましい悪あがきだった。


数日後。

王都監察局の最も広い大審問室にて、特例の公聴会が開かれた。


円卓の片側には、すでに権限を制限され、憔悴しきった父と兄が座っている。

そして対面には、リディア。

彼女の隣には、分厚い黒の外套を纏ったヴィクトル・ヴァルツァー辺境伯本人が、岩山のような静かな威圧感を放って座していた。


『私は同行しない』と言ってリディアを送り出したヴィクトルだったが、彼自身に国家の法を揺るがす嫌疑がかけられた以上、出頭しないわけにはいかなかったのだ。

王都に到着した彼は、リディアを責めることもなく、ただ一言「よく戦ったな」とだけ声をかけ、彼女の隣に座った。


「これより、ヴィクトル・ヴァルツァー辺境伯に対する、北境花嫁保護慣例濫用の嫌疑について審問を行う」


老監察官の重々しい声が響く。

室内には、この前代未聞の事態を見届けるべく、王室法務局の役人や関係貴族たちが多数詰めかけていた。


「侯爵家の主張によれば、辺境伯は保護という名目で身寄りのない令嬢を誘拐し、洗脳して私兵のように扱っているとのこと。辺境伯、反論はあるか」


ヴィクトルは表情一つ変えることなく、淡々と事実だけを述べた。


「すべては法に則った正当な手続きのもとに行われています。強制的な連行も、不当な拘束も一切存在しない。……法務官、証拠を」


控えていた北境の法務官が進み出て、数枚の公文書を提出した。


「まず、現在北境で補給隊長を務めるマリベル・アストの軍務記録、および本件に関する宣誓書です。彼女は実家の借金のカタに売られそうになっていたところを保護され、その後、自らの意志で軍属となることを選びました。

次に、領都で平民向けの学校長を務めるイザベラ・ロウの学校設立文書と公文書。彼女もまた、教育の機会を奪われた過去を持ち、北境で学び直した後に独立を果たしています」


監察官たちが、提出された公文書に目を落とす。

そこには、王国の正式な印と共に、彼女たちが現在どれほど重い責任を担い、立派に領地を支えているかが克明に記されていた。

洗脳された奴隷や、閉じ込められた哀れな女の記録ではない。自らの足で立ち、自分の名前で生きる実務官たちの軌跡だった。


「書面だけでは偽造の疑いがある、とおっしゃるか」


ヴィクトルが視線を向けると、大審問室の重い扉が開かれた。


「ならば、直接本人から聞くがいい」


室内に足を踏み入れたのは、豪奢な毛皮を纏い、鮮やかな赤茶色の髪を揺らす女性だった。

王都の社交界でも一目置かれる大商会の主、セレナ・フォルク。彼女が放つ圧倒的な生命力と自信に満ちた足取りに、周囲の貴族たちがざわめく。


セレナは円卓の中央まで進み出ると、優雅に一礼した。


「王都と北境を結ぶ薬草商会、会主のセレナ・フォルクと申します。かつて、ヴァルツァー辺境伯閣下の『花嫁候補』として北へ向かった者の一人ですわ」


彼女は隠すことも恥じることもなく、堂々と名乗った。


「私は修道院へ送られる寸前で、旦那様に救われました。北境では、住居も私財も保障され、同衾や婚姻の強要など一度も受けたことはありません。むしろ、薬草の知識を活かすための資金と推薦状をいただき、今の商会を立ち上げるに至りました」


セレナの真っ直ぐな視線が、青ざめる父と兄を射抜く。


「北境の『花嫁候補』とは、家に居場所を奪われた女たちが、再び自分の名前を取り戻すための仮の姿。私たちは誰も、不当に拘束などされていません。全員が自らの意志で署名し、花嫁候補という仮の身分を離れ、自分の名前で生きる道を選んだのです」


沈黙が降りた。


完璧な物証。そして、王都で誰もが知る成功者となった元花嫁候補からの、一点の曇りもない証言。

ヴィクトルが誘拐犯でも好色な偏屈男でもなく、不遇な令嬢たちを合法的に救済し、自立させてきたという真実が、公の場で完全に証明された瞬間だった。


「……以上の証拠および証言により、辺境伯に対する嫌疑は完全に晴れたものとする」


監察官が木槌を鳴らした。

ヴィクトルの無罪が確定した。それと同時に、根拠のない虚偽の申立てを行った侯爵家の立場は、いよいよ取り返しのつかない泥沼へと沈んだ。


もはや、父に残されたカードは一枚もなかった。

貴族としての信用は失墜し、財務の権限は著しく制限され、借金の返済だけが重くのしかかる。

それでも、家という古い価値観の頂点に君臨してきた父の傲慢さは、最後の最後まで彼自身の目を曇らせていた。


「……たかが、娘一人に」


父が、うわ言のように呟いた。

その濁った目が、ヴィクトルを睨みつける。


「たかが道具として使うための娘一人に、これほどの時間と労力をかけるなど、正気の沙汰ではない! 娘は、女は、家のために使うものだ! 私が管理してやれば、使い方さえ間違えなければ役に立つ道具だったのだ! それを、貴様のような男が唆し、我が家を崩壊させた……!」


追い詰められたゆえの、哀れで醜い本音だった。

リディアという人間など見ていない。ただ、自分たちのために動く『便利な道具』を壊されたことへの恨み言。


ヴィクトルは当初、この父の暴言に対しても、ただ事実だけを述べて一蹴するつもりだったのだろう。

しかし。

父の口から「使い方さえ間違えなければ役に立つ」という言葉が出た瞬間。


ドンッ!!


大審問室の空気を震わせるほどの轟音。

ヴィクトルが、分厚い革手袋に包まれた拳で、円卓を激しく叩きつけた音だった。


静まり返る室内。

老監察官は一瞬だけ眉を動かした。だが、侯爵の暴言の方を看過できぬと判断したのか、ヴィクトルを制止しなかった。


常に氷のように冷徹だった元軍参謀の片目が、凄まじい怒りに見開かれていた。

抑え込んでいた理性のタガが、完全に外れた。


「貴様は、まだそんなことを言っているのか」


低く、地鳴りのような声だった。

ヴィクトルが立ち上がると、その巨大な影が父をすっぽりと覆い隠す。


「彼女は道具ではない。数字を合わせるだけの機械でもない! 帳簿の裏にある領民の命を見つめ、不正を正し、北西村の危機を見事に救ってみせた、かけがえのない人間だ!」


公の場。

多くの貴族や役人たちが見ているこの大審問室で、ヴィクトルは激しい感情を隠すことなく露わにした。


「彼女が成し遂げたことは、貴様らのような無能な男たちの面子を保つための飾りにされるべきではない」


ヴィクトルの手が、リディアの細い肩にそっと触れた。

その手のひらから伝わる、熱く、力強い体温。


「彼女の能力は、彼女自身のものだ。私は二度と、それを誰にも奪わせない」


その言葉は、リディアの胸の奥底にあった、冷たく固い氷を完全に打ち砕いた。


ずっと、悲しかった。

どれほど努力しても、自分が生み出した成果を自分のものだと言えなかったことが。

有能であればあるほど、家族から疎まれ、孤独になっていく自分が惨めだった。


だが今、この男は。

自分よりも二十近くも年上で、絶対的な権力を持つ辺境伯は。

彼女の知性を、能力を、リディア・グレイスフォードという人間そのものを、公の場で真っ向から肯定し、守り抜いてくれた。


目頭が熱くなる。

視界が滲んで、父の惨めな顔も、驚く監察官たちの顔も、もう見えなかった。

ただ、肩に置かれた彼の手の重みだけが、リディアのすべてだった。



* * *



その夜。

王都に構えられた辺境伯の私邸の一室で、リディアは暖炉の前に座っていた。


監査は完全に終わった。

実家との縁は切れ、彼女に押し付けられようとしていた負債の責任も消滅した。

リディアは文字通り、完全な自由を手に入れたのだ。


コンコン、と扉がノックされ、ヴィクトルが静かに入ってきた。

昼間の激しい怒りはすっかり影を潜め、いつもの静かで落ち着いた領主の顔に戻っている。


「……失礼する。少し、いいか」


「はい、閣下。昼間は、本当に……ありがとうございました」


リディアが立ち上がって深く頭を下げると、ヴィクトルは「気にするな」と短く応え、彼女の前のテーブルに、数通の封筒を並べた。


上質な羊皮紙で作られた、封蝋の押された手紙。


「それは……?」


「推薦状だ」


ヴィクトルは淡々と告げた。


「王都監察局の局長宛てのもの。王立学院の会計顧問宛てのもの。そして、他領の有力な商人ギルドへの紹介状だ。……君の監査での見事な証言と、北倉庫での実績があれば、どこへ持っていっても即座に実務官として重用されるだろう」


リディアは、目の前に並べられた手紙を見つめたまま、動けなかった。


わかっていたはずだ。

彼は女性を囲い込まない。自由と選択肢を与え、送り出すことが彼の信念なのだと。


昼間、あんなにも激しく『彼女の能力は彼女自身のものだ』と守ってくれたのは、リディアを独占したかったからではない。彼女を自由な空へ放つために、彼女の翼に絡みついていた鎖を断ち切っただけなのだ。


「実家という軛は外れた。君の実力は証明された。資金も、推薦状もある」


ヴィクトルは、少しだけ目を伏せ、静かな声で宣告した。


「君はもう、どこへでも行ける」


暖炉の火が、パチリとはぜた。


自由に生きていい。

その言葉は、本来なら何よりも嬉しいはずの祝福だ。

だが、リディアの胸に広がったのは、どうしようもないほどの冷たい喪失感だった。

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