第12話 君は、もうどこへでも行ける
王都での過酷な監査審問を終え、北境の本城へ帰還したリディアを待っていたのは、山のような書状の束だった。
王都監察局での見事な証言と、彼女が北倉庫で上げた圧倒的な実績は、ヴィクトルが手配した推薦状の力も相まって、またたく間に各方面へと知れ渡っていた。
実家という重い軛を外され、能力を保証された若い実務官を、世の人間が放っておくはずがない。
「王都監察局からの、短期の財務監査任務の依頼。……他領の有力な商人ギルドからの、会計顧問への就任打診」
リディアは自室の机で、次々と届く書状を開きながら小さく溜息をついた。
それだけではない。
北境内部からも、マリベルからの「補給部の実務職として正式に迎えないか」という誘いや、イザベラからの「新設する平民向け学校の運営補佐を頼みたい」という手紙。さらに、セレナの薬草商会からの専属契約の打診まで届いていた。
侯爵家で成果を搾取され続けていた頃には、想像もできなかった光景だ。
今やリディアの手の中には、数え切れないほどの『未来の選択肢』が握られていた。
しかし、どの手紙を読んでも、彼女の心は一向に晴れなかった。
『君はもう、どこへでも行ける』
王都の私邸で、ヴィクトルが静かに告げた言葉が、呪いのようにリディアの胸に絡みついている。
彼はリディアに自由を与えた。
自分の足で立ち、自分の意志で生きる場所を選ぶ権利を。
だが、その無限に広がる選択肢の中に、『ヴィクトルの隣』という項目だけは用意されていなかった。
彼はリディアを庇護下から完全に切り離し、一人の自立した女性として送り出そうとしている。彼にとって、それが真の『尊重』だからだ。
(私がここで『残りたい』と願うのは……彼がせっかく与えてくれた自由を捨てるという、愚かな甘えなのだろうか)
リディアは羽ペンを置き、冷たい窓ガラスに額を押し当てた。
彼にすがって生きるような、重荷にはなりたくない。
彼が望むように、どこでも一人で生きていけるだけの力を、完全に証明しなければ。
そうでなければ、彼女の選択はただの『庇護への逃避』だと見なされてしまう。
リディアは机に戻ると、一枚の依頼状を手に取った。
それは、王都近郊の有力な領地から依頼された、複雑な会計監査の短期任務だった。
北境の権力も、辺境伯の威光も届かない、完全な単独任務。
「……まずは、これをお受けします」
リディアは、自らの力だけで完璧な結果を出すための、短い旅に出る決意を固めた。
ただし、今のリディアには北倉庫の臨時監査担当兼副決裁官としての責務がある。
自分の力を証明するために、任された仕事を放り出すわけにはいかない。
リディアはその日のうちに、北倉庫の副官と主要な文官たちを集めた。
「私の不在中、定型案件の決裁は副官へ一時委任します。備蓄総量を大きく動かす案件と、処罰を伴う案件は辺境伯閣下の最終承認を受けてください」
リディアは、あらかじめ作成しておいた引き継ぎ書を机の上に広げた。
「緊急の判断が必要で、なおかつ既存の基準では処理できない案件だけ、早馬で私へ。通常業務であれば、この手順で止まることはありません」
「承知しました」
引き継ぎ簿を作り、未処理案件を分類し、決裁経路を明文化する。
誰か一人が抜けただけで仕事が止まるような組織では、実務は回らない。
すべての手配を終えてから、リディアはようやく短期任務の受諾書に署名した。
* * *
数日後。
出立の朝、砦の分厚い雪門の前には、冷たい北風が吹き荒れていた。
旅装に身を包んだリディアが馬車に乗り込もうとした時、背後から低い足音が近づいてきた。
「見送りに来た」
振り返ると、黒い外套を羽織ったヴィクトルが立っていた。
相変わらず感情の読めない、冷徹で静かな顔立ち。だが、その瞳の奥には、わずかな緊張の色が滲んでいるようにも見えた。
「閣下……お忙しい中、わざわざありがとうございます」
リディアは深く一礼した。
王都での審問を終えてから、二人の間には目に見えない深い溝のようなものができていた。
互いに言葉を交わすことはあっても、どこかよそよそしく、核心に触れることを避けているような。
「他領での短期任務と聞いた。王都の監察局も一枚噛んでいる、厄介な案件だと」
「はい。ですが、事前に帳簿の写しを確認した限り、問題の所在はすでに把握できています。半月もあれば、確実に終わらせられるかと」
実務官として隙のない返答。
ヴィクトルはそれに対し、ただ短く「そうか」とだけ応えた。
沈黙が降りる。
風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
リディアの胸は、張り裂けそうなほどの痛みを抱えていた。
『終わったら、北境へ帰ってこい』。
その一言を言ってほしかった。彼が待っていてくれるとわかれば、どんな過酷な任務でも耐えられる。
だが、ヴィクトルは何も言わない。
彼はリディアの自由を尊重している。だからこそ、自分の元へ縛り付けるような命令も、甘い言葉も決して口にしないのだ。
これでお別れかもしれない。
短期任務を終えた後、再びこの北境へ戻る口実を、自分は見つけられるだろうか。もし戻ったとしても、彼はもう、私の居場所を用意してはくれないのではないか。
「……閣下」
震えそうになる声を必死に抑え込み、リディアは顔を上げた。
「任務が、終わりましたら。私は……」
『戻ってきてもいいですか』。
その言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。拒絶されるのが、たまらなく怖かったからだ。
長い、果てしないような沈黙の後。
ヴィクトルは、革手袋に包まれた右手で、馬車の扉にそっと触れた。
「……君が選べ」
それは、彼が絞り出した、最大の譲歩であり、残酷な突き放しでもあった。
焦点は「戻るか否か」ではない。
彼が言いたいのは、「君がどうしたいかを、君自身の意志で決めろ」ということだ。
だが、リディアにはそれが、「戻ってきても、私が君を受け入れるかはわからない」という、冷たい宣告のように聞こえてしまった。
「……行ってまいります」
リディアはそれ以上何も言えず、逃げるように馬車に乗り込んだ。
動き出した馬車の窓から振り返ると、雪の降る門の前に立ち尽くすヴィクトルの黒い影が、いつまでも見えなくなるまで小さくなっていった。
* * *
リディアの他領での短期監査任務は、完璧な成功を収めた。
辺境伯の威光も、誰の庇護もない完全な単独任務。
彼女は持ち前の凄まじい実務能力と、北境で培った『現場を見る目』をフルに活用し、複雑に絡み合った帳簿の不正をわずか十日で解き明かしたのだ。
関係した領主や王都監察局の役人たちは、彼女の手腕に舌を巻き、最大限の賛辞と破格の報酬を与えた。
誰もがリディアを認め、彼女の能力を求めていた。
宿屋の一室。
静かな夜の明かりの下で、リディアは机の上に数枚の書類を並べていた。
王都監察局からの、正規実務官採用を前提とした面談要請。
複数の大商会からの、極めて条件の良い顧問契約の打診。
他領の領主からの、好待遇を明記した招聘条件の提示。
どれも、今すぐ署名すれば成立する正式契約ではない。
だが、リディアが望めば、その先に輝かしい未来が待っていることは疑いようもなかった。
誰の庇護も必要としない。
完全に自立した、一人の有能な人間としての人生。
これで彼女は、本当に「どこでも生きていける」状態になったのだ。
(私は、自由になった……)
リディアは、並べられた書類の束を静かに見つめた。
ヴィクトルが望んだ通り、自分の実力だけで未来を掴み取った。これで、彼に庇護されるだけの哀れな娘ではなくなったはずだ。
だが。
リディアは、どれほど輝かしい条件の記された書状を見ても、どの打診にも返事を書くことができなかった。
机の上に並んだ未来のどれを見ても、心が少しも動かない。
彼女の心は、ずっと、あの雪降る北境の砦に……無骨な革の外套を羽織り、不器用なほどに自分を尊重してくれた、あの偏屈な男の元に置いてきたままだった。
どこへでも行ける。
誰の庇護も必要ない。
だからこそ、胸の奥底で、ごまかしのきかない一つの感情が静かに形を成し始めていた。
(私は……)
ランプの炎が揺れる。
机に並べられた無数の選択肢を前にして、リディアの心だけが、深く、静かに迷い続けていた。




