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第13話 最後の花嫁候補

鉛色の空から、粉雪が舞い落ちていた。

北境の本城、その分厚い城門の前に、一両の馬車が静かに滑り込んできた。


王家や貴族の紋章を持たない、簡素だが頑丈な造りの馬車。

その扉が開き、中から一人の女性が降り立った。


リディア・グレイスフォード。

王都近郊での短期監査任務を完璧に成し遂げた彼女は、もはや実家を追放された哀れな令嬢ではなかった。

その出で立ちは無駄のない実務官のそれであり、手には大切に抱えられた革鞄があった。


雪を踏みしめて顔を上げると、そこには黒い外套を羽織った見慣れた巨躯があった。


ヴィクトル・ヴァルツァー。

彼は城内からの報告を聞くよりも早く、まるでずっとこの門の前に立ち尽くしていたかのように、雪を肩に積もらせてリディアを待っていた。


二人の視線が交差する。

ヴィクトルの深い色の瞳が、リディアの顔から、彼女が抱えている革鞄へと移った。


「……無事に終わったようだな」


静かな声だった。

その声の奥にどれほどの感情が抑え込まれているか、リディアには痛いほどにわかった。


「はい」


リディアは歩み寄り、革鞄の中から数枚の分厚い羊皮紙を取り出した。

王都監察局からの、正規実務官採用を前提とした面談要請。そして、セレナの商会をはじめとする複数の大商会からの、極めて好条件な契約打診。さらに、他領から届いた招聘条件の提示書。


ヴィクトルはそれらに視線を落とし、短く息を吐いた。

すべて、彼がリディアのために手配した推薦状から始まり、彼女自身の実績によって掴み取ったものだ。


「これでもう、実家の後ろ盾も、辺境伯という肩書も必要ない。君の能力は完全に証明された」


ヴィクトルは、己の感情を分厚い氷の下に閉じ込めるようにして告げた。


「君はもう、私の庇護を必要としていない」


それは、花嫁候補という名の避難所からの、完全な『卒業』の宣告だった。

彼がどれほどリディアの能力を評価し、どれほど手放したくないと内心で願っていたとしても。彼女の未来を奪わないために、彼は自らの手でリディアを空へ放とうとしている。


王都の男たちのように、自分の都合で女を囲い込もうとはしない。

究極の尊重。そのあまりにも正しすぎる彼の信念に、リディアは真っ向から立ち向かうために帰ってきたのだ。


「はい。だから、戻りました」


リディアの言葉に、ヴィクトルがわずかに眉を寄せた。


「……何?」


「私は、どこでも生きていけます。王都の監察局でも、大商会の顧問としても、私の能力は正当に評価され、一人で生きていくための十分な報酬を得られるでしょう」


リディアは、手にした輝かしい未来の選択肢を鞄にしまい込み、ヴィクトルの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「その私が、あなたを選びました」


粉雪が、二人の間を音もなくすり抜けていく。

ヴィクトルの顔に、初めて明確な動揺が走った。


「……莫迦なことを言うな」


ヴィクトルは顔を逸らし、厳しい声で拒絶の言葉を並べ始めた。


「私と君とでは、年齢が離れすぎている。私はもうすぐ初老を迎える男だ。それに、辺境伯という立場は、君に不要な権力差と重圧を強いることになる。……何より、この北境の過酷な冬は、君のような若く未来ある人間が一生を縛られるべき場所ではない」


すべてが正論だった。

彼はリディアの若さ、才能、そして無限に広がる可能性を誰よりも理解しているからこそ、自分のような男がそれを独占してはならないと己を戒めているのだ。


「君には、もっと華やかで、君に相応しい場所があるはずだ。わざわざこんな最果ての地に残る理由が——」


「あなたはずっと、私に選べと言いました」


リディアの静かで、しかし鋭い刃のような言葉が、ヴィクトルの逃げ口上を真っ二つに切り裂いた。


ヴィクトルは息を呑み、再びリディアを見た。


「……ああ。そうだ。君の人生は君のものだ。だから……」


「けれど、あなたの隣に残るという選択だけは、最初から私の手から取り上げていた」


リディアは一歩、ヴィクトルへと近づいた。

王都の侯爵家を立て直した見事な論理的思考が、今、目の前の男の頑なな矛盾を暴き出していく。


「あなたは『妻にはしない』と宣言し、私に他の場所で生きるための推薦状を握らせて送り出そうとした。私があなたを望むかもしれないという可能性から、目を背け続けて」


リディアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

悲しいからではない。ただ、彼に自分の本当の心をわかってほしかった。


「それは、本当に私を尊重したことになりますか」


「っ……」


ヴィクトルは絶句した。

リディアの指摘は、彼の心の最も柔らかく、そして最も臆病な部分を正確に貫いていた。


相手を尊重しているつもりでいた。

妹を救えなかった過去へのトラウマから、「救う側は求めてはならない」と自分に呪いをかけ、再び大切な誰かを失う恐怖から逃げていただけだったのだ。

彼女の自由を奪わないためだと言い訳をして、本当は、自分が拒絶されて傷つくことを恐れていた。


論破された。

元軍参謀であり、常に冷静な判断を下してきた自分が、二十も歳の離れた令嬢の言葉に、何一つ反論できなくなっていた。


しかし。

完全に追い詰められたヴィクトルの前で、リディアはそれ以上の追及をぴたりと止めた。


彼女は、まるで重い鎧を脱ぎ捨てるように、ふっと肩の力を抜いた。

理知的な実務官の顔から、ただ一人の恋する女性の顔へと、劇的にその表情を和らげる。


「あなたを論破したいわけではありません」


リディアは静かに首を振った。


「私がここに残りたいのは、それが正しいからではありません。あなたに救っていただいた恩があるからでもない」


そして、涙に濡れた瞳で、真っ直ぐにヴィクトルを見つめた。


「これは、私が望んでいるんです。ただ、あなたのそばにいたい。あなたの隣で、この北境を支えて生きていきたいんです」


それは、実家で「正しすぎる」と疎まれ、常に正解を叩き出すことでしか自分の価値を証明できなかった女が、生まれて初めて、自分自身の望みを正面から口にした瞬間だった。


正しさを捨てたのではない。

正しいから選ぶのでも、正しさによって自分の価値を証明するのでもない。


恩義でも、庇護への依存でもない。

ただ、自分がそうしたいから選ぶ。


その純粋で無防備な感情の露呈。


その告白を聞いた瞬間、ヴィクトルの中で、長年彼を縛り付けていた冷たく重い鎖が、音を立てて砕け散った。


彼の中に残ったのは、目の前で涙を流しながら微笑む、愛しい女性への抗いがたい渇望だけだった。

もう、理屈も、年齢も、過去の亡霊も、二人を阻む理由にはならなかった。


ヴィクトルは、ゆっくりとリディアへ手を伸ばした。

常に分厚い革手袋に覆われていたその右手で、震えるように彼女の頬へと触れかける。


「……残ってくれ、リディア」


かすれた、祈るような声だった。

これほど願うように、彼女の名を呼んだのは初めてだった。


ヴィクトルの指先が、許可を求めるように頬の数センチ手前でピタリと止まる。相手を無理やり奪うことを恐れる、彼らしい臆病な躊躇いだった。


リディアは、泣き笑いのような表情を浮かべると、自分から一歩踏み出し、その大きく無骨な掌へと頬を擦り寄せた。

熱い体温が、二人の間に通い合う。


ようやく、互いの居場所を見つけた。

もう二度と、この手を離すことはないだろう。


長い、本当に長い抱擁のあと。

ヴィクトルの腕の中から少しだけ顔を上げたリディアは、ふふっと悪戯っぽく笑って告げた。


「残ります。ただし、条件があります」

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