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第14話 妻ではなく、隣に立つ者として

「残ります。ただし、条件があります」


長い、本当に長い抱擁のあと。

ヴィクトルの腕の中から少しだけ顔を上げたリディアは、そう告げた。


鉛色の空から、粉雪が静かに舞い落ちている。


ヴィクトルが、僅かに眉を寄せた。


「……条件?」


「はい」


リディアは一歩だけ身を引いた。

だが、距離を取るためではない。

一人の人間として、彼と正面から向き合うためだった。


「私はもう、あなたの庇護下で甘えるだけの存在にはなりたくありません」


ヴィクトルの瞳が、静かにリディアを見つめる。


「いずれあなたの伴侶になるからという理由で、役職を与えられるのも嫌です」


「……まだ、そこまで話は進めていないが」


リディアは一瞬だけ目を丸くした。


そして、ふっと頬を緩める。


「では、そこはこれから話し合いましょう」


「……君は」


四十を過ぎた歴戦の元軍参謀が、額を押さえた。


その姿が可笑しくて、けれど愛おしくて。

リディアは小さく笑った後、再び真剣な表情へ戻った。


「ですが、仕事のことは別です」


彼女は、はっきりと言った。


「私は、一人の実務官として、あなたの隣に立つ者として、ここで働きたいのです」


ヴィクトルの表情から照れが消えた。

代わりに現れたのは、北境を治める領主の顔だった。


「具体的には」


「北境花嫁保護慣例を、改めたいと思っています」


ヴィクトルの目が鋭く細められた。


「……続けろ」


「この制度によって救われた女性がいることは知っています。セレナさんも、マリベルさんも、イザベラさんも。そして、私自身も」


リディアは静かに続けた。


「だから、制度そのものを否定するつもりはありません。ですが、女性が救われるために、誰かの『花嫁候補』という名を借りなければならないこと。それは、やはりおかしいと思うのです」


ヴィクトルはすぐには答えなかった。


やがて、低く慎重な声で言う。


「古い制度だからこそ、これまで救えた女性もいる。本人署名、私財保障、自由退去、実家による強制連れ戻しの禁止。名称だけを嫌って急に改組すれば、その保護まで弱める危険がある」


「おっしゃる通りです。ですから、明日からすべてを廃止しろとは申しません」


リディアは迷わなかった。


「現行制度の保護を残したまま、婚姻を前提としない受け入れ枠を作ります。住居と私財を保障し、実務を学び、働いた分は本人名義で報酬を得る。最後に残るか、外へ出るかも本人が選ぶ」


ヴィクトルは黙って聞いていた。


「運用実績を積み、問題点を洗い出す。王都とも協議しながら、少しずつ新制度へ移行するのです」


リディアは真っ直ぐに彼を見た。


「誰かの花嫁候補にならなくても、女性たちが救われ、自立できる道を作りたい」


そして。


「私と、あなたとで」


雪の降る城門前に、静かな沈黙が落ちた。


やがて、ヴィクトルが深く息を吐く。


「……君は、告白の直後に制度改正を持ち出すのか」


「重要なことですから」


「普通は、もう少し何かあるだろう」


「何か、とは?」


本気で問い返したリディアに、ヴィクトルは再び額を押さえた。


「いや。もういい」


その声には、呆れと。

隠し切れないほどの愛おしさが滲んでいた。


```

* * *

```


その日の夜。


リディアとヴィクトルは、本城の執務室で向かい合っていた。


机の上には、古い花嫁保護慣例の法令集と過去の候補者記録。

そして、リディアが書き上げた新制度の骨子案が並んでいる。


「この条項では、実家からの異議申立てに弱い」


ヴィクトルが一点を指で叩いた。


「では、本人の意思確認後に暫定保護を」


「期間が長ければ悪用される」


「短ければ王都との手続きが間に合いません」


「ならば北境内の登録官を増やす」


「予算が必要です」


「捻出しろ」


「簡単におっしゃらないでください」


「君ならできる」


「それは信頼ではなく丸投げです」


二人は夜が更けるまで議論を重ねた。


互いの案の穴を突き。

修正し。

また組み直す。


やがて、机の上には赤字だらけの制度骨子が残った。


それでも、まだ草案に過ぎない。


「明日、法務官を呼ぶ」


ヴィクトルが言った。


「財務文官と現場の担当者にも意見を出させる」


「セレナさんたち元候補者にも聞き取りをしたいです」


リディアは頷いた。


「救う側の理屈だけで制度を作れば、また同じ間違いをします」


「ああ」


「王都の監察局にも照会を」


「私から出そう」


二人の視線が交差する。


それだけで、自然に次の仕事が決まっていく。


これが、自分の望んだ場所なのだとリディアは思った。


守られるだけでもなく。

誰かの命令に従うだけでもない。


意見をぶつけ。

間違えば修正し。

同じ未来を見る。


「それから」


ヴィクトルが、不意に言った。


「君の役職についてだ」


リディアは背筋を伸ばした。


「制度改革を提案した者を、そのまま制度改革官に据えるつもりはない」


一瞬、リディアの胸が詰まる。


「君が言った通りだ。私との関係を理由に役職を与えれば、君が取り戻してきたものを、私自身が傷つけることになる」


ヴィクトルは草案へ視線を落とした。


「役職の必要性と権限を文官団に審査させる。その上で候補者を募る」


「私以外も?」


「当然だ」


ヴィクトルは平然と答えた。


「君が最も優秀なら、審査で勝てばいい」


その瞬間。

リディアの胸の奥に、熱いものが広がった。


愛しているから与えるのではない。

伴侶になるから、特別扱いするのでもない。


一人の実務官として、正当に競わせる。


それは、リディアが何より望んでいた扱いだった。


「……望むところです」


彼女は微笑んだ。


「必ず、勝ち取ります」


「知っている」


あまりにも当然のように返された言葉に、今度はリディアの方が僅かに頬を赤らめた。


```

* * *

```


夜も深まった頃。


ようやく書類を閉じた二人は、小さな談話室で暖炉の火を見つめていた。


制度はまだ完成していない。

リディアの役職も決まっていない。


だが、不思議と焦りはなかった。


「……対等というのは、とても心地よいものですね」


リディアが呟く。


ヴィクトルが僅かに口元を緩めた。


「君に一晩中、案を修正されることがか?」


「それも含めてです」


四十を過ぎた男の、不器用な照れ隠しが愛おしくてたまらない。


「ヴィクトル」


リディアが彼の名を呼ぶと、ヴィクトルは少しだけ身構えた。


「人前ではなく、二人きりのときに言ってください」


「……何をだ」


「私が欲しいと。あなたが、私を隣に望むと」


ヴィクトルの瞳が揺れた。


「……慣れていない」


彼はそう呟き、リディアの細い肩に大きな手を置いた。


「四十過ぎて、ようやく学んだ。欲しいものを、欲しいと口に出すことに」


ゆっくりと距離を詰める。


「練習させてくれ」


彼はリディアの額に、自らの額を合わせた。


「リディア」


「……はい」


「君が欲しい」


その言葉と共に、ヴィクトルはリディアの唇に、深く、熱い口づけを落とした。


恩義でも。

庇護でもない。


どこへでも行ける二人が、それでも互いを選んだという、確かな選択の証だった。


暖炉の火が、静かに揺れていた。


二人の前には、まだ山ほどの仕事が残っている。

何一つ、正式には決まっていない。


だからこそ。


リディアはヴィクトルの胸に額を預けながら思った。


これから一つずつ、自分たちで選んでいけばいいのだと。

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