第15話 制度改革官リディア
リディアが北境へ戻り、ヴィクトルへ制度改革を提案してから、一ヶ月余りが過ぎた。
本城の大会議室では、今日も長い議論が続いていた。
円卓の上に広げられているのは、何度も書き直された制度改革案。
『北境庇護・実務研修制度』
それが、新制度の名称だった。
「現行の花嫁保護慣例には、王令による保護規定があります。新制度を別枠で作れば、法的な空白が生じる」
老法務官の指摘に、リディアは頷いた。
「ですから、即時廃止はしません。新制度が独立した保護効力を持つまでは併存させます」
一ヶ月余り。
草案は何度も書き直された。
法務官は王令との抵触を指摘し、財務文官は予算不足を訴えた。
セレナ、マリベル、イザベラら元花嫁候補だけでなく、招請を断った女性や、噂を恐れて北境へ来なかった者からも話を聞いた。
『花嫁候補という名前が怖かった』
『実家から逃げても、また別の男の妻候補になるのかと思った』
成功者だけを見ていては、決して拾えなかった声だった。
そして、さらに二週間後。
制度改革案は最終審査の日を迎えた。
「以上が、『北境庇護・実務研修制度』の最終案です」
リディアは円卓の中央に立っていた。
「本人の意思を確認し、私信、個人財産、退去の自由を保障します。就労には本人名義で報酬を支払い、制度運用者による濫用を防ぐため、独立した女性管理官への申告経路も設けます」
一人の行政官が手を挙げた。
「虚偽申告は?」
「調査します。ただし、疑わしいという理由だけで保護を拒否しません」
「なぜです?」
リディアは、一瞬だけ黙った。
「逃げてきた人間が、最初から完璧な証拠を持っているとは限らないからです」
北倉庫で見た老人と子供たち。
北西村で家畜を手放せず立ち尽くした村人たち。
数字の向こう側に、人がいる。
「まず命を守る。その後で調べる。ただし、不正利用が確認された場合の返還規定も設けます」
長い沈黙の後、老法務官が頷いた。
「……異議なし」
最後に、王都監察局の立会人が署名した。
「王令上の保護規定との重大な抵触なし。試行制度としての登録を認めます」
ヴィクトルの低い声が響く。
「これをもって、『北境庇護・実務研修制度』の試行導入を正式に承認する」
木槌が、一度だけ鳴った。
誰かの花嫁候補にならなくても、逃げられる場所ができた。
* * *
三日後。
今度、審査されるのは制度ではない。
リディア自身だった。
『北境制度改革官』
新制度の立ち上げと、既存制度の見直しを担う新設職。
リディアが提案した仕事だからこそ、彼女をそのまま据えるわけにはいかない。
候補者は三人だった。
審査開始前、ヴィクトルは席を立った。
「私は最終評価には加わらない」
リディアが僅かに目を見開く。
「私と君との関係は、すでに隠すものではない。だからこそ、私が君を選べば疑念が残る」
そして、ただ一言。
「勝て。君自身の力で」
審査は、容赦がなかった。
過去の実績。
法令理解。
予算編成。
危機対応。
最後に、老法務官が問う。
「制度改革官として、領主と意見が対立した場合、どうする」
リディアは迷わなかった。
「反対します」
会議室が静まり返る。
「必要なら、何度でも」
「領主命令に逆らうと?」
「制度改革官の職務が、領主の意見を肯定するだけなら、その役職は不要です」
リディアは真っ直ぐに答えた。
「ただし、私が正しいとは限りません。現場を見ます。数字を確認します。反対意見を聞きます。その上で私が間違っていれば、修正します」
北境へ来たばかりの頃。
帳簿だけを見て、穀物の流れを止めようとした自分。
あの日の自分なら、こうは答えられなかった。
「正しさを押し通すのではありません。人が生きられる仕組みを作ります。そのために必要なら、領主にも、自分自身にも反対します」
老法務官は、黙って評価書へ羽ペンを走らせた。
* * *
翌朝。
本城の大広間で、審査結果が発表された。
「新設職、北境制度改革官」
リディアは背筋を伸ばした。
「リディア・グレイスフォード。総合評価第一位。よって本日付で任命する」
差し出された任命書。
王都の侯爵家にいた頃、どれほど働いても成果は父や兄の名前で記録された。
だが、今そこにあるのは。
父ではない。
兄でもない。
未来の夫でもない。
『リディア・グレイスフォード』
自分自身の名前だった。
「……謹んで、お受けいたします」
声は、最後まで震えなかった。
拍手が響く。
その向こうで、ヴィクトルが誰よりも誇らしげな目でリディアを見つめていた。
* * *
就任後、本城は第一期研修生を迎える準備に追われた。
仮住居の整備。
女性管理官の採用。
医師の診察規定。
本人名義の報酬管理。
数日後、王都監察局から最初の保護対象者について連絡が届いた。
十代半ばの少女。
借金のカタに、年老いた商人の後妻として売られそうになり、親族の家から逃げ出したという。
「受け入れます」
リディアは即答した。
「第一号ですね」
「はい」
人の人生を預かる。
だからこそ、間違えない努力は必要だ。
けれど。
「……完璧でなくてもいいのかもしれません」
女性管理官が目を瞬く。
「間違えたら、直せばいい」
リディアは静かに微笑んだ。
かつての自分なら、決して口にできなかった言葉だった。
* * *
その夜。
リディアは、ヴィクトルに呼ばれて小さな談話室を訪れた。
暖炉の前に立つ彼は、珍しく落ち着かない様子だった。
「どうかなさいましたか?」
「……本当は、もっと早く渡したかった」
ヴィクトルは懐から小さな箱を取り出した。
中に入っていたのは、飾り気の少ない銀の指輪だった。
「だが、君の役職が決まる前には渡せなかった」
リディアは彼を見上げた。
「私との関係が、君の審査に一片でも影を落とすのは嫌だった」
胸の奥が、どうしようもなく熱くなる。
この男は、どこまでも不器用だ。
愛しているからこそ、自分の権力で彼女の人生を汚さない。
「リディア」
ヴィクトルは、ゆっくりと息を吐いた。
「君はもう、私の庇護を必要としていない。制度改革官としても、一人の人間としても、私がいなくても生きていける」
「はい」
「だから、それでも私の隣にいてほしい」
彼は逃げなかった。
「私が、君を愛しているからだ」
リディアの目頭が熱くなる。
「リディア・グレイスフォード。私と、正式に婚約してくれないか」
涙が一筋、頬を伝った。
「……条件があります」
ヴィクトルの顔が僅かに強張る。
「またか」
リディアは泣きながら笑った。
「仕事では、一切手加減しないでください」
数秒の沈黙。
「それは、こちらの台詞だ」
「では、問題ありません」
リディアは左手を差し出した。
「お受けします」
銀の指輪が、ゆっくりと薬指へ通される。
その内側には、小さな文字が刻まれていた。
『選び、選ばれる』
必要だからではない。
恩があるからでもない。
どこへでも行ける者同士が、それでも互いを選ぶ。
「……気に入らないか」
珍しく不安そうな声。
リディアは首を横に振り、自分からヴィクトルの胸へ飛び込んだ。
「いいえ。これ以上のものはありません」
彼の腕が、今度は迷うことなくリディアを抱きしめた。
* * *
数日後。
北境へ向かう一両の馬車が、雪解けの始まった街道を進んでいた。
その中には、小さな鞄を胸に抱きしめた一人の少女が座っている。
自分がこれから向かう場所が、新しい檻なのか。
それとも、本当に自分の人生を選べる場所なのか。
まだ、何も知らないまま。
馬車は、春を待つ北境へと静かに走り続けていた。




