第16話 (エピローグ) 北境の春
厳しかった北境の冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。
凍てついていたルヴ川の氷が割れ、豊かな雪解け水が力強い音を立てて流れ下っていく。
砦を囲む分厚い雪の下から顔を出した黒い土には、青々とした新しい芽が吹き出し、吹き抜ける風の中にも、確かな春の匂いが混じり始めていた。
開かれた本城の正門から、一両の簡素な馬車が中庭へと滑り込んでくる。
停まった馬車の扉が開き、中から恐る恐る降り立ったのは、十代半ばとおぼしき少女だった。
薄手の外套を羽織り、小さな鞄を胸に抱きしめた彼女の瞳には、見知らぬ辺境の地への強い不安と怯えが滲んでいる。
無理もない。
彼女はつい先頃まで、借金のカタに老商人の後妻として売られそうになっていたところを逃げ出してきたのだから。
だが、彼女はかつてのように『辺境伯の花嫁候補』としてこの地に呼ばれたわけではない。
彼女は、新たに始まった『北境庇護・実務研修制度』の、記念すべき第一期研修生だった。
「長旅、ご苦労様でした。よくここまで来ましたね」
怯える少女の前に進み出たのは、濃紺の実務服を身に纏ったリディアだった。
その胸元には、『北境制度改革官』の銀色の徽章が輝いている。
過酷な実家から放り出され、この北の最果てに辿り着いたあの日から数ヶ月。
今のリディアの表情には、自分の足で立ち、自分の人生を選び取った人間だけが持つ、穏やかで揺るぎない自信が満ちていた。
「あの、私は……ここで、何をさせられるのでしょうか。計算も、文字も、あまり得意ではありません……」
震える声で尋ねる少女に、リディアは優しく微笑みかけ、彼女の冷え切った両手を包み込んだ。
「何も心配はいりません。ここは、あなたを誰かの都合の良い道具にするための場所ではないからです」
リディアの言葉に、少女がすがるように顔を上げる。
「文字が読めないなら、領都の学校で読み書きを学べます。計算が得意でないのなら、薬草の知識や、物流の管理、縫製や食品加工など、あなたが興味を持てる仕事を探しましょう」
「私が……選んでも、いいのですか?」
「はい」
リディアは迷いなく頷いた。
「研修中の住居と食事は制度で保障されます。仕事をした分の報酬は、すべてあなた自身の名義です。私信も、個人財産も守られます」
少女の瞳が、大きく見開かれる。
「ここを出たいと思えば、いつでも出られます。研修を終えた後、北境に残ってもいい。王都へ行ってもいい。他領で働いてもいい。資金も、推薦状も、必要なら私たちが支援します」
かつて、自分がヴィクトルやセレナたちから与えられたものを。
今度はリディアが、新しい世代へと手渡していく。
「ここでは、あなたが何になるかを、あなた自身で決められます」
リディアの力強い言葉に、少女の瞳から張り詰めていた涙が溢れ落ちた。
「……本当に?」
「本当です」
「誰かの、妻にならなくても?」
一瞬。
リディアの胸の奥に、あの日の記憶が蘇った。
『君を妻にする気はない』
北境へ到着したばかりの自分へ、ヴィクトルが最初に告げた言葉。
あの時は、拒絶されたのだと思った。
自分はやはり、誰にも望まれない女なのだと。
だが今なら、その言葉の意味がわかる。
誰かの妻になることと。
一人の人間として生きることは。
本来、まったく別の選択なのだ。
「はい」
リディアは、少女の手を優しく握った。
「誰かの妻にならなくても、あなたの人生は、あなたのものです」
少女は俯いた。
ぽろぽろと。
堰を切ったように涙を落とす。
リディアは急かさなかった。
泣き止めとも。
強くなれとも言わない。
ただ。
少女が自分から顔を上げるまで、その手を離さずに待った。
やがて。
少女は何度か深く頷いた。
「……はい」
その声はまだ小さい。
けれど。
馬車を降りた時より、ほんの少しだけ強かった。
リディアは少女を女性管理官へ引き継ぐと、安堵の息をついた。
「まずは温かい食事を。今日は何も決めなくて構いません」
「承知しました」
女性管理官が頷く。
少女は数歩進んだところで、ふと振り返った。
「あの……」
「はい?」
「ありがとうございます」
リディアは一瞬、目を見開いた。
それから。
静かに微笑んだ。
「礼は、あなたが自分で行き先を選んでからで構いません」
少女は涙の跡を残した顔で、ほんの僅かに笑った。
その姿を見送り。
リディアは胸元の銀色の徽章へ、そっと指を触れた。
* * *
その日の午後。
円卓が置かれた大会議室では、春からの予算配分について、激しい議論が交わされていた。
「ですから、新制度の研修生用住居の整備を優先すべきです」
リディアは、手元の分厚い資料の束を指差しながら、理路整然と主張した。
彼女の対面に座り、腕を組んでその言葉を聞き入れているのは、北境の主であるヴィクトル・ヴァルツァーだ。
ヴィクトルは眉間に深い皺を寄せ、手元の地図を睨みつけた。
「西側の旧橋はどうする」
「最低限の安全補強を行います」
リディアは即答した。
「雪解け水で地盤が緩んでいる以上、放置はできません。橋脚の緊急補強、重量制限、監視員の常駐。この三点は今季予算で実施します」
「全面改修は見送ると?」
「はい」
会議室の空気が僅かに張り詰めた。
リディアは別の資料を円卓へ広げる。
「現在、新制度の第一期研修生は一名です。ですが、すでに王都監察局と複数の修道院から、追加の保護相談が入っています」
指先で、数字を示す。
「現状の仮住居では、夏までに受け入れ限界を迎えます」
「だから、旧橋の全面改修を後回しにする?」
「今季は」
リディアはヴィクトルの鋭い視線を、真っ直ぐに受け止めた。
「新制度の研修生用住居を優先すべきです」
ヴィクトルの眉間の皺が深くなる。
「旧橋が落ちれば、南の補給線が細るぞ」
「ですから、落としません」
一歩も引かない声だった。
「最低限の補強に必要な予算はこちらです。全面改修との差額を、研修生用住居と研修棟へ回します」
「最低限で足りる根拠は」
「昨年までの橋脚記録と、先週の現地調査結果です」
リディアは即座に答えた。
「最も傷んでいる第二橋脚を春の増水前に補強。通行重量を三割制限し、南からの重量物は時間帯を分散させます」
「東側の迂回路は」
「補給部と協議済みです。マリベルさんから運用可能との回答を得ています」
ヴィクトルが僅かに目を細めた。
「……先回りしたな」
「実務官ですから」
元軍参謀の辺境伯と。
かつて王都で領地経営を立て直し、今や北境の制度改革を担う実務官。
二人の意見の衝突は、刃と刃がぶつかり合うような緊張感を会議室にもたらしていた。
周囲に座る文官たちは、胃が痛くなるような思いで書類で顔を隠し、息を潜めている。
彼らが恐れているのは、領主が怒り出すことではない。
二人の関係性が、すでに北境中で周知の事実となっているからだ。
(婚約者同士で、ここまで容赦なくやり合うか、普通……)
文官たちの一人が心の中で突っ込んだ通り、今の二人の間には、王都の貴族が好むような「男を立てて女が三歩下がる」といった従属関係は微塵もない。
あるのは、北境の未来を真剣に憂う、完全に対等な二人の実務者としての姿だけだった。
長い沈黙の後。
ヴィクトルは、リディアの提出した予算案をもう一度見直した。
「……わかった」
文官たちが僅かに顔を上げる。
「西の旧橋は、緊急補強と通行制限で今季を凌ぐ。全面改修は次年度予算へ回す」
ヴィクトルは、リディアを見た。
「今年は、新制度の研修生用住居を優先する」
会議室に、小さなどよめきが走った。
「ただし」
ヴィクトルの目が鋭くなる。
「橋脚監視の報告は毎日上げろ。水位が基準を超えた時点で即時封鎖だ」
「承知いたしました」
「住居整備の予算超過も認めない」
「当然です」
「受け入れ人数を増やすなら、管理官の増員計画も出せ」
「すでに第二案まで作成済みです」
ヴィクトルは一瞬黙った。
「……君は本当に可愛げがないな」
会議室が凍りついた。
文官たちの顔から、一斉に血の気が引く。
その言葉は。
かつてリディアが、最も深く傷つけられた言葉だったからだ。
だが。
リディアはゆっくりと目を細めた。
「婚約を解消なさいますか?」
「断る」
即答だった。
数秒の沈黙。
そして。
会議室のあちこちから、堪えきれない笑い声が漏れた。
ヴィクトルが不機嫌そうに眉を寄せる。
「何がおかしい」
「い、いえ……何も……」
文官たちは必死に顔を伏せた。
リディアだけが、楽しそうに笑っていた。
* * *
会議が終わり。
文官たちがそそくさと退出していくと、広い室内に二人きりになった。
先ほどまでの張り詰めた空気が、嘘のように静かに解けていく。
リディアは散らばった資料を手早くまとめながら、小さく息を吐いた。
ヴィクトルは椅子から立ち上がると、リディアの隣まで歩み寄った。
そして。
彼女が資料をまとめる手をそっと遮るようにして、その手を取った。
分厚い革手袋越しではない。
戦傷のある、大きく温かい素の手だった。
「お疲れ様。……少し、休まないか」
普段の冷徹な声からは想像もつかないほど、柔らかく甘い声色。
その落差に、リディアは思わずくすりと笑ってしまった。
「会議では反対したくせに」
リディアが少しだけ意地悪く告げると、ヴィクトルは微かに視線を泳がせ、言い訳をするように答えた。
「政策と君への感情は別だ」
「便利な言葉ですね」
リディアがおかしそうに微笑むと、ヴィクトルは観念したように小さく息を吐いた。
「四十を過ぎて、ようやく覚えた」
人前では決して表情を崩すことのない彼が、リディアの前でだけ見せる、微かな、しかし確かな笑み。
その不器用で誠実な微笑みを見るたびに、リディアの胸の奥は甘い熱で満たされていく。
ヴィクトルの大きな手が、リディアの左手を優しく包み込む。
彼女の薬指には、婚約の証である銀の指輪が、春の淡い光を反射して静かに輝いていた。
その内側に刻まれている言葉を、リディアはもう何度も指先でなぞっている。
『選び、選ばれる』
王都で「必要だ」と懇願された実家へ戻ることもできた。
監察局の実務官として、輝かしい出世の道を歩むこともできた。
大商会の顧問として、莫大な富を築くこともできた。
彼女は、もう誰の庇護も必要としていない。
王都でも。
他領でも。
どこへでも一人で生きていけるだけの力を手に入れた。
必要とされたから、ここに残ったのではない。
恩義に縛られたからでもない。
そして。
正しいから、ここを選んだのでもない。
自分が、そうしたいと望んだから。
どこへでも行ける二人が。
それでも互いの隣に立つことを。
自分自身の意志で選び取ったのだ。
「……春ですね、ヴィクトル」
リディアが窓の外の青空を見上げて呟くと、ヴィクトルは彼女の肩を抱き寄せ、深く頷いた。
「ああ」
窓の向こう。
新制度の第一期研修生となった少女が、女性管理官に付き添われながら、中庭を歩いている。
その足取りは、まだ不安げだった。
けれど。
来た時よりもほんの少しだけ、顔を上げていた。
ヴィクトルは、その姿を静かに見つめた。
「長く、良い春になりそうだ」
雪解け水がルヴ川を下っていく。
実家を追放された有能な令嬢と。
花嫁候補を全員送り返してきた偏屈な辺境伯。
不器用な二人がようやく見つけた本当の居場所には、眩しいほどの春の陽光が降り注いでいた。




