第8話 トベ山中路
車両は、街を出る前から咳き込んでいた。
粗製燃料の黒い煙が、荷台の後ろへ細く流れる。
植物油と区画処理場の副産物を混ぜた燃料は、旧世代の車両を動かすには重すぎる。エンジンは何度も唸り、坂に差しかかるたびに、車体全体が古い獣のように震えた。
トオルは荷台の端に座り、遠ざかっていくマツヤマ区画を見ていた。
焼却の煙はまだ見える。
救護所の白い布も、処理班の腕章も、朝の会議室に残っていた地図も、全部が後ろへ流れていく。
それでも、右手首の黒い輪だけは、変わらずそこにあった。
冷たい。
トオルは袖の上から手首を押さえる。
「酔いましたか」
向かいに座っていたリクが聞いた。
彼は膝の上で記録板を支え、揺れる車内でも文字を書いている。
器用というより、慣れているのだろう。
「車に乗ることが少ないので」
「僕もです。正直、徒歩の方が記録は楽ですね」
リクはそう言いながらも、車両の振動、燃料残量、出発時刻、乗員数を細かく記していた。
隣ではアケミが地図を開いている。
紙の地図の上に、赤い線が一本引かれていた。
マツヤマ中心部。
トベ山中路。
ウチコ地区。
セイヨ山側路。
キホク地区。
そのうち、今日の目的地はトベ山中路だった。
「車両で行けるのは、トベの手前までです」
アケミが言う。
「そこから先は徒歩と台車。水源側の道は車輪を入れすぎると嫌われるそうです」
「誰に」
トオルが聞く。
アケミは少しだけ視線を上げた。
「トベの神に」
そう言って、また地図へ目を落とした。
荷台の奥では、イオが携行祠を抱えて座っていた。
白い布に包まれた小さな祠。
その中には、まだ形を持たない社の子がいる。
白い器の水面に浮かぶ、小さな白い球。
イオは、車両の揺れに合わせて祠が傾かないよう、ずっと両腕で支えていた。
カナメはその横に座り、時折トオルの右手首を見る。
視線に隠す気がない。
ツヅラは何も言わず、祠に巻かれた札の緩みを確認していた。
護衛班は、前方車両と後方車両に分かれている。
レンジは運転席の後ろで外を見ていた。
マヒロは荷台の縁に片手をかけ、山道へ入る前の風景を眺めている。
セキは黙って周囲を見ている。
オウギは台車と水袋の固定を何度も確認していた。
「トベって、もうマツヤマ扱いなんすよね」
マヒロが言った。
「区画上はな」
レンジが答える。
「でも中心部とは違う。水源と山道の管理地だ。変なことはするな」
「変なことって」
「水源で騒ぐ。器を蹴る。奉納塚を踏む。あと、勝手に火を使う」
マヒロは苦笑した。
「やりませんよ」
「やる奴は、やる前にそう言う」
セキが短く言った。
それで会話は終わった。
車両は山道へ入った。
道が細くなる。
舗装は所々剥がれ、山側の斜面には白い土が露出している。
普通の土ではない。雨に濡れても濁らず、どこか乾いた白さが残っている。
陶土。
トベの山には、白い土がある。
道端には、割れた器の欠片が並んでいた。
茶碗の縁。
皿の底。
湯呑みの欠けた片側。
それらが、道の境界のように土へ半分埋められている。
車両の速度が落ちた。
水の音が聞こえ始める。
細い水路が、山道の横を流れていた。
澄んだ水だった。
底の石まで見える。雨のあとだというのに、濁りがほとんどない。
トオルは、その水を見て息を止めた。
マツヤマ中心部の排水溝に詰まっていた血と肉片を思い出す。
同じ水とは思えなかった。
携行祠の中で、小さく水が揺れた。
イオが祠を見下ろす。
「社の子が、少し落ち着いています」
ツヅラが頷いた。
「トベの水に反応しているのでしょう」
カナメはトオルを見た。
「この先、水源域に入る。右手を開くな」
トオルは袖の上から右手首を押さえた。
「開きません」
「必要でもだ」
カナメは言葉を重ねる。
「この水の近くで、不明の穢れを広げるな。トベの神の庇護が乱れる」
トオルは返事をしなかった。
返事をすれば、何か余計なことまで言いそうだった。
背後で、ナニカが笑う気配がした。
【あれ、今日は使わないの?】
【なるほど神の水を失うのがが怖いんだ】
白黒の少女は、荷台の端に浮くように座っていた。
誰にも見えていない。
トオルはそちらを見ない。
車両は、やがて止まった。
レンジが荷台を叩く。
「ここまでだ。降りろ」
遠征班は荷を下ろした。
水袋。
記録用具。
地図筒。
処理具。
携行祠。
粗製燃料の予備缶はここに置いていく。中継小屋に預け、帰路で使う分だけを残す。
ここから先は徒歩だった。
台車を押し、細い山道を進む。
道の片側は白い陶土の斜面。
もう片側は水路。
水路の向こうには、古い窯跡が見えた。半分崩れ、草に覆われているが、煙突の形だけが残っている。
割れた器の欠片が、また道端に並んでいる。
リクがそれを見て記録する。
「境界標、器片。およそ十五歩間隔」
アケミが地図に印を入れる。
「水路沿い。車両不可。徒歩なら通行可能。台車は一列のみ」
トオルは周囲を見ていた。
静かだった。
静かすぎた。
山なのに鳥の声が少ない。
虫の音も薄い。
ただ水だけが、一定の音で流れている。
その時、社の子の祠が揺れた。
イオが足を止める。
「待ってください」
レンジが即座に手を上げた。
全員が止まる。
セキが山側を見る。
「右」
それだけ言った。
白い斜面の上で、何かが動いた。
最初は石が転がったのだと思った。
違った。
白い土をまとった巨大な猪だった。
普通の猪ではない。
肩が人間の胸ほどもある。
背中には割れた器片が何枚も刺さり、牙は陶器の欠片のように白く光っている。
目は赤黒く濁っていた。
その後ろから、痩せた山犬が三匹、斜面を滑るように降りてくる。
ケモノ。
レンジが低く言った。
「オウギ、前。マヒロ、左の犬。セキ、右。記録班は水路側へ下がれ」
動きが早かった。
オウギが大盾を展開する。
マヒロが鉈を抜く。
セキは何も言わず、すでに右へ動いていた。
陶土猪が突っ込んでくる。
地面が鳴った。
白い土が跳ね、器片が小さく音を立てる。
オウギが盾を構えた。
「来い」
衝突。
重い音が山道に響いた。
オウギの足が半歩、後ろへ滑る。
だが倒れない。盾の角度を変え、猪の突進を水路側ではなく山側へ逸らす。
猪が斜面に肩をぶつけた。
器片が割れる音。
マヒロが山犬の一匹を蹴り払う。
「猪って、こんなにでかかったっすか!」
「記録に残せ」
レンジが返す。
「それ、俺の仕事じゃないっす!」
マヒロは叫びながら、山犬の首元へ鉈を振るった。
血が散る。
だが山犬は止まらない。
痩せた体を低くし、イオの方へ回り込もうとする。
カナメが即座に前へ出た。
「イオ、下がれ」
「はい」
イオは携行祠を抱えたまま、一歩下がる。
ツヅラが祠の前に札を一枚掲げた。
山犬がその札を見て、ほんの一瞬だけ足を止める。
その隙にセキが横から入った。
短い刃が振られる。
山犬の喉が裂けた。
「一」
セキはそれだけ言った。
リクは震える手で記録する。
「ケモノ、山犬型一体処理。護衛班セキ」
「リク、下」
トオルが言った。
リクの足元へ、別の山犬が滑り込んできていた。
トオルの右手首が冷えた。
黒い輪が、袖の下でほどけかける。
出せば早い。
そう思った。
黒栞なら、あの程度は一瞬で終わる。
その瞬間、カナメの声が飛んだ。
「出すな!」
鋭い声だった。
「この水の近くで、その穢れを開くな!」
トオルの右手が止まる。
山犬が跳ぶ。
だが、オウギの押さえ棒が横から入り、山犬の胴を地面に叩きつけた。
マヒロが駆け寄り、首へ刃を入れる。
「二!」
リクが記録する。
アケミは周囲を見ていた。
「猪、境界を越えていません」
「何?」
レンジが聞く。
「器片の列です。猪も山犬も、こちら側へ来ようとして避けています。水路側には踏み込まない」
トオルも気づいた。
ケモノたちは、遠征班を狙っている。
だが、道端に埋められた割れた器の列を越えようとしない。
山犬は水路側へ来られない。
猪も、突進の角度を変えられても、水路へは落ちないように暴れている。
トベの境界。
トオルはそれを記録した。
陶器片境界、ケモノ侵入抑制。
水路側、安全度高。
レンジが即座に指示を変えた。
「水路側へ寄れ! 倒すより境界内へ押し戻すな。外側へ逸らせ!」
オウギがもう一度、猪の突進を受ける。
今度は正面ではなく、盾の角で牙を滑らせた。
猪の体が斜面側へ流れる。
セキが後脚を狙う。
マヒロが横から陶片の刺さった背中へ鉈を入れる。
猪が吠えた。
それは獣の声ではなかった。
壊れた土笛のような音が混じっている。
イオの抱える携行祠が震えた。
白い球が、水面の中で小さく跳ねる。
「社の子が怯えています」
イオが言う。
ツヅラは冷静に答えた。
「怯えではありません。境界に反応している」
カナメが低く言う。
「トベの神が見ている」
その言葉の直後、道端の器片が一斉に鳴った。
風ではない。
ちり、と小さな音が連なり、水路の水面がわずかに光った。
猪が足を止める。
山犬の最後の一匹が、牙を剥いたまま後退した。
ケモノたちは、境界の外へ押し戻されるように身を引いた。
レンジが言う。
「追うな」
マヒロが息を切らしながら頷く。
「追いたくないっす」
白い猪はしばらくこちらを見ていた。
やがて、山の奥へ消えていく。
残った山犬の死体が二つ。
割れた器片。
白い土に残る足跡。
遠征班は、しばらくその場から動かなかった。
レンジが確認を始める。
「負傷」
「なし」
セキ。
「左腕、ちょっと擦りました」
マヒロ。
「盾にひび」
オウギ。
「記録班は?」
リクが自分の手を見た。
「無事です。記録板も」
アケミが地図を確認する。
「現在地、トベ山中路入口から西へ約四百歩。陶器片境界の内側はケモノ侵入が鈍い。水路側を進むべきです」
トオルは、右手首を見た。
黒い輪はもう静かだった。
カナメが近づいてくる。
「さっき、出そうとしたな」
「必要だと思いました」
「必要ではない」
「リクが噛まれかけていました」
「この土地では、この土地の神の庇護を優先する。不明の穢れで水を汚すな」
トオルはまた黙るしかなかった。
トベの水は、マツヤマを支えている。
その水のそばで黒栞を開くことが、何を意味するのか、トオルには分からない。
分からないなら、使わない方がいい。
それはシノにも、サナギにも言われてきたことだった。
背後で、ナニカが退屈そうに囁く。
【守ってるんだ】
【水と道と、人間を】
【器に入れてもらわないと形も持てないのに】
【小心者の神だね】
トオルは、水路を見た。
澄んだ水が流れている。
昨夜の血を知らないような顔で。
小心者かもしれない。
弱い神様かもしれない。
人間が器を焼き、米と酒と肉を納めなければ形を保てないのかもしれない。
それでも、この水は人を生かしている。
トオルはそう思った。
言葉にはしなかった。
山道を進むと、やがて中継地が見えてきた。
石垣に囲まれた貯水槽。
低い屋根の作業小屋。
積まれた薪。
十全に育ち収穫を待つだけの田畑。
白い布をかけられた器の棚。
その奥に、小さな祠がある。
人が数人、こちらを待っていた。
職人組合の者たちだろう。
手や袖に白い土がついている。
顔には警戒があったが、敵意はない。
その中から、年配の女が一歩前へ出た。
「マツヤマからの遠征班ですね」
レンジが頷く。
「西部確認部隊です。水源の確認と、ウチコ方面への通行確認。それと、社の子の奉納品について」
女は、イオの抱える携行祠を見た。
表情がわずかに変わる。
「本当に持ち出したのですか」
カナメが答える。
「必要になりました」
「そうですか」
女はそれ以上、責めなかった。
「こちらでは、明日の朝、器納めを行います」
ツヅラが静かに頭を下げる。
「分けていただけますか」
「器、水、清酒、米。少量なら」
女は言った。
「ただし、今年の器納めは軽くありません。ケモノが増えています。水源も、以前ほど静かではない」
リクがすぐに記録する。
「ケモノの増加時期は」
「三か月ほど前からです」
アケミが地図に印を入れる。
「ウチコからの定期連絡が途絶えた時期と重なりますか」
女は少し沈黙した。
「ええ」
その場の空気が変わった。
女は水路の方を見た。
「ウチコからの便は、数か月前から来ていません。最初は遅れだと思っていました。ですが、こちらから出した連絡員も戻っていない」
「何人出しましたか」
リクが聞く。
「三人」
「戻った者は」
「いません」
遠くで、水が流れる音だけがした。
マヒロが小さく呟く。
「ウチコ、もうまずいんじゃ……」
レンジが睨む。
マヒロは口を閉じた。
女は言った。
「明日の器納めが終われば、社の子に水を分けます。けれど、ウチコへ向かうなら覚えておいてください」
「何を」
レンジが問う。
「夜に、芝居の音が聞こえるそうです」
女の声は低かった。
「拍子木の音が、山を越えてくると」
イオの腕の中で、携行祠の水が震えた。
白い球が、器の水面でかすかに揺れる。
トオルはその音を聞いた。
まだ、ウチコには入っていない。
それなのに、何かがこちらを見ている気がした。
背後で、ナニカが小さく笑う。
【芝居だって】
【貴方はどう踊ってくれるの?】
トオルは返事をしなかった。
ただ、水路の澄んだ音と、まだ聞こえないはずの拍子木の音を、同時に記録しようとしていた。




