第7話 社の子
廃社の朝は、街よりも静かだった。
同じマツヤマ区画の内側にあるはずなのに、そこだけ音が違う。
遠くではまだ焼却の煙が上がっている。
処理班の車両が動き、救護所には負傷者が運ばれ、管理所では死者と行方不明者の照合が続いている。
けれど、その古い社の参道には、昨日の騒ぎが届いていないように見えた。
鳥居は傾いていた。
石灯籠は割れ、片方は苔に埋もれている。
参道の石畳は浮き、隙間から草が伸びていた。
拝殿の屋根は半分崩れ、古い注連縄は黒ずんでいる。
表向きには、ここは廃社だった。
老朽化により封鎖。
倒木危険。
立入禁止。
そういう札が参道の入口に立っている。
だが、奥の小さな社だけは違った。
そこだけが掃き清められていた。
紙垂は白く、水盤には澄んだ水が張られている。
昨夜の雨を受けたはずなのに、水面は濁っていなかった。
その奥で、サナギが待っていた。
鎮め役代表。
神に祈る者ではない。
神を荒れさせないために手順を守る者。
神を救いだと信じる者ではなく、神を災害として扱う者。
サナギの前には、三人の宮司が膝をついていた。
カナメ。
ツヅラ。
イオ。
三人の中央には、小さな携行祠が置かれている。
木箱ほどの大きさの祠だった。
古い札が幾重にも巻かれ、白い布で覆われている。
中には白い器があり、その器には澄んだ水が張られていた。
水面に、小さな白い球が浮いている。
卵にも見える。
真珠にも見える。
だが、生き物の卵にしては冷たく、石にしては柔らかく震えている。
時折、内側から微かに脈打つ。
それが、社の子だった。
「命じます」
サナギが言った。
声は静かだった。
だが、三人は同時に姿勢を正した。
「西部確認部隊に同行しなさい。目的は二つ。退避路の確認。そして、社の子の安定に必要な奉納品の確保」
カナメが顔を上げる。
痩せた男だった。
宮司の装束は整っているが、目つきが鋭い。神に仕える者というより、神と向かい合い続けてきた者の目だった。
「トベですか」
「まずはトベ」
サナギは頷く。
「器、水、清酒、少量の米。トベの神に分けていただきます」
ツヅラが静かに続けた。
「その後、キホクですね」
「はい。社の子を本当に育てるには、キホクの米が要ります」
イオは携行祠を見つめた。
見習い宮司。
カナメやツヅラより若い。
まだ声に迷いが残っている。
けれど、社の子の水を替える手つきだけは誰より丁寧だった。
サナギはイオへ目を向ける。
「イオ。あなたは社の子から目を離さないこと」
「はい」
「祈らせてはいけません。願わせてもいけません。社の子は、まだ願いを選べません」
「はい」
「水が濁ればすぐ替えなさい。器にひびが入れば、止めなさい。社の子が震えたら、周囲に何かがいます」
イオの喉が小さく動いた。
「……何か、ですか」
「神とは限りません」
サナギの視線が、わずかに暗くなる。
「今回の遠征には、臨時職員のトオルが同行します」
その名を聞いた瞬間、カナメの眉が動いた。
「あの右手の男ですか」
「はい」
「反対です」
即答だった。
「社の子の近くに置くべきではありません」
「置かなければ、別のものが死にます」
サナギは静かに言った。
「彼は記録班です。表向きは」
「表向き」
カナメは吐き捨てるように言った。
「あれは何なのです。神の穢れではない。人の呪いでもない。触れた者の名すら定まっていない。そんなものを社の子と同じ道に置くなど」
「名を与えてはいけません」
サナギの声が、わずかに強くなった。
カナメは口を閉じる。
「分からないものとして扱いなさい。右手の穢れ。不明の穢れ。それ以上の名は不要です」
ツヅラが小さく息を吐いた。
「本人は、それを制御できるのですか」
「できません」
サナギは迷わず答えた。
「では、なおさら危険です」
「危険です。だから監視が必要です」
サナギは三人を見渡した。
「カナメ。あなたは距離を取らせること。ツヅラ。祠の封を保つこと。イオ。もし社の子が彼に怯えたら、すぐに下げなさい」
「はい」
イオは答える。
だが、声はわずかに震えていた。
サナギはそれに気づいていた。
しかし、慰めはしなかった。
「怖がるのは正しいことです」
イオが顔を上げる。
「怖がりなさい。ですが、怖いものに名前をつけて安心してはいけません。名を与えれば、近づきます」
イオは唇を結び、もう一度頷いた。
「はい」
携行祠の中で、白い球がかすかに震えた。
それは、まだ神ではない。
神になりきっていない。
人間を喰うことも、土地を支配することも知らない。
けれど、神になり得るものだった。
* * *
トオルが遠征班の集合室へ入った時、すでに記録班の二人は揃っていた。
一人は、細身の青年だった。
眼鏡をかけ、机の上に台帳、配給記録、名簿の束を整然と並べている。紙の端は揃っている。ペンも三本、同じ向きに置かれていた。
もう一人は、女性だった。
地図筒を三本、机に立てかけている。壁には西部方面の簡易地図を貼り、赤い糸で経路を引いていた。
青年が顔を上げる。
「トオルさんですね」
「そうです」
「記録班班長のリクです」
班長。
「どうもよろしく」
「シノさんからあなたの評価は聞いてます。独断専行はしないように」
いきなり釘を刺されたようである。
女性も立ち上がり挨拶をする。
「アケミ。地図と経路を担当します」
リクが咳払いをした。
「通常記録は三人全員で取ります。時刻、場所、人員、物資、遭遇事象、証言、異常。最低限の記録は、誰か一人が欠けても残せるようにします」
そう言って、自分の資料を指す。
「僕は人員と台帳です。登録名、配給記録、避難者数、死者と行方不明者、ウチコとキホクの受け入れ余力」
次に、アケミを示す。
「アケミさんは地図と経路。道、橋、水源、粗製燃料保管、通信ログ、戻れる道の確認」
最後に、二人の視線がトオルへ向く。
「トオルさんは、異常記録です」
リクの声が少し硬くなった。
「ゾンビ、ケモノ、使徒、神、封鎖区由来の異常、地形や記録の変化。危険対象に最も近い場所での記録をお願いします」
「理由は?」
トオルが聞く。
答えたのはアケミだった。
「三人の中で、一番前に出ても生き残る可能性が高いからです」
「俺は処理班じゃない」
「知っています」
アケミは淡々としていた。
「ですが、昨日の記録上ではそう判断されています」
リクが申し訳なさそうに補足する。
「シノさんは、悪運がある、と言っていました」
誰も笑わなかった。
トオルも笑えなかった。
悪運。
たしかにそうかもしれない。
ミオは死んだ。
自分は生きている。
それを悪運と呼ぶなら、反論はできなかった。
集合室の扉が開く。
護衛班が入ってきた。
先頭に立つのはレンジだった。
ガクとは違う雰囲気の男だ。
背は高いが、圧は強くない。口調も穏やかに見える。
ただ、腰に提げた鉈と、肩に背負った長柄の槌が、現場の人間だと示していた。
「護衛班長、レンジ」
短く名乗る。
「ガクから伝言を預かってる」
レンジはトオルを見る。
「前に出すな。でも必要なら使え。だそうだ」
「……あの人らしいですね」
「それと、勝手に死ぬな、とも」
レンジの後ろから、マヒロが顔を出した。
「また一緒っすね、トオルさん」
北東区での現場にいた若手処理班員だ。
明るく振る舞っているが、目元には疲労が残っている。
「今回は爆散させるの少なめでお願いします。後片づけ、ほんと大変なんで」
トオルは何も言えない。
マヒロは気まずそうに笑った。
「冗談っす。半分くらい」
その横に、セキが立っていた。
無口な男だった。
顔に感情がほとんど出ない。トオルを見るでもなく、部屋の出口と窓の位置を確認している。
最後に入ってきたのは、大柄な男だった。
オウギ。
そうレンジが紹介した。
肩幅が広く、背には折り畳み式の大盾を背負っている。
腕には厚い防具。腰には長柄の押さえ棒。
壁のような男だった。
記録班、護衛班。
ここまではまだ、人間の遠征班に見えた。
次に宮司班が入ってきた瞬間、空気が変わった。
カナメが先頭だった。
その後ろにツヅラ。
最後に、携行祠を抱えたイオ。
小さな木箱のような祠だった。
布で包まれ、幾重にも札が巻かれている。
イオはそれを両腕で抱えていた。少しでも傾けないように、身体ごと支えるようにしている。
カナメの視線が、まっすぐトオルの右手首へ向かった。
「その右手を近づけるな」
挨拶はなかった。
トオルは袖の下の黒い輪を意識する。
「近づけません」
「触れるな。見るな。祠の前で返事をするな」
カナメの声は硬い。
「それが何か、こちらは知らない。知らないものを、社の子へ近づけるわけにはいかない」
マヒロが小さく口笛を吹きかけて、レンジに肘で止められた。
ツヅラが一歩前に出る。
「申し訳ありません。私たちは、あれを穢れとして扱います」
丁寧な声だった。
だからこそ、拒絶がはっきりしていた。
「あなたが悪いと言っているのではありません。ですが、正体の分からないものを、神格幼体のそばに置くことはできません」
トオルは右手首を押さえた。
黒い輪は静かだった。
けれど、静かなことが安全を意味しないのは、もう知っている。
「分かりました」
そう答えるしかなかった。
イオは何も言わなかった。
ただ、祠を抱えたままトオルを見る。
年齢はトオルとそう変わらない。
白い装束は少し大きく、袖口から見える指は細い。
その目には、恐怖があった。
トオルに対する恐怖。
というより、トオルの右手首の奥にあるものへの恐怖。
背後で、声がした。
【へ~、名前を呼ばないんだ】
白黒の少女が、トオルの肩のあたりに浮いていた。
他の誰にも見えていない。
ナニカは、イオの抱える祠を覗き込むように首を傾げる。
【賢いね。でも、怖がってる】
トオルは返事をしない。
カナメが鋭く言う。
「今、何に反応した」
「何も」
「嘘をつくな」
レンジが間に入った。
「出発前から割れるな。班が割れたら、西へ着く前に死ぬ」
「こちらは最初から割れている」
カナメが冷たく言った。
「あれを同行させると決めた時点でな」
リクが咳払いをした。
「任務説明を続けます」
彼は紙を一枚取る。
「西部確認行の目的は五つです。トベ山中路の通行確認。トベ水源と中継拠点の状態確認。ウチコ地区の受け入れ余力調査。キホク方面への到達可否確認。そして、社の子の安定に必要な奉納品の確保」
ツヅラが静かに頷く。
「トベでは、器と水、清酒、少量の米を分けていただく予定です」
リクが続ける。
「ただし、本格的な成長にはキホクの高品質米が必要。これは宮司班からの報告です」
イオが祠を抱く手に力を込める。
「社の子は、まだ形を持てていません」
初めて、イオが口を開いた。
声は小さかったが、はっきりしていた。
「トベで器と水をいただければ、輪郭は安定します。けれど、それだけでは足りません。キホクの米がなければ、長くは持ちません」
アケミが地図を示す。
「経路はマツヤマ中心部からトベ山中路。そこからウチコ地区。状況確認後、セイヨ山側路を通ってキホクへ向かう予定です。海側は使いません」
「使えない、だろ」
セキが短く言った。
アケミは頷く。
「はい。海側セイヨは海神の領域です。沿岸の住民は、ほとんど眷属化しています」
「半魚の連中か」
マヒロが嫌そうに言う。
リクが静かに訂正した。
「元人間です」
アケミは地図の海側を黒く塗り潰した。
「彼らはこちらを襲います。ですから、山側を通ります」
それ以上、誰も海側について聞かなかった。
レンジが出発手順を説明する。
「車両はトベ手前まで。粗製燃料が惜しい。そこから先は徒歩と台車を使う。荷は水、最低限の処理具、記録用具、携行祠。余計なものは持たない」
オウギが祠を見る。
「それは誰が持つ」
カナメが即座に答えた。
「宮司班以外は触れるな」
「落ちたら?」
「落とさない」
「落ちる時は落ちる」
オウギは淡々と言った。
「その時、誰が拾えるか決めておけ」
カナメの顔が険しくなる。
ツヅラが静かに言った。
「緊急時はイオ。イオが動けなければ、私。私も動けなければカナメ。宮司班が全員動けなければ、祠は諦めます」
イオが顔を上げた。
「ツヅラ様」
「神具は命より重い時があります。ですが、命がなければ神具を戻せません」
カナメは不満そうだったが、反論しなかった。
トオルは、そのやり取りを記録する。
携行祠、宮司班以外接触不可。
緊急時優先順位、イオ、ツヅラ、カナメ。
全員行動不能時、放棄。
放棄。
その二文字が妙に重かった。
社の子。
神格幼体。
マツヤマの切り札。
それですら、状況によっては捨てると記録される。
リクが全員を見渡した。
「出発は一時間後です。各班、最終確認をお願いします」
話が終わると、人が動き始めた。
アケミは地図を巻き直し、リクは名簿と配給記録を鞄へ収める。
レンジは護衛班へ短い指示を出し、マヒロは水袋を持ち、オウギは黙って台車の車輪を確認していた。
トオルは少し離れた場所に立つイオを見た。
イオは携行祠を抱えたまま、壁際でじっとしている。
近づいていいものか迷う。
すると、イオの方から口を開いた。
「トオルさん」
呼ばれた。
トオルは反応する。
「はい」
「近づかないでください」
まっすぐな拒絶だった。
だが、カナメのような嫌悪ではなかった。
それは、怖いものから身を守るための距離だった。
「分かりました」
トオルはそれ以上近づかない。
イオは少しだけ目を伏せる。
「あなたが悪いと言っているわけではありません」
「そういうふうには聞こえませんでした」
「……すみません」
イオは祠を抱え直す。
「でも、社の子が震えています。あなたが近いと」
トオルは右手首を見る。
黒い輪は静かだった。
「これが何なのか、俺も分かりません」
イオは、ほんの少しだけ顔を上げた。
「分からないものは、怖いです」
「はい」
「だから、距離を取ります」
その言い方は冷たかった。
けれど、正しかった。
カナメの声が飛ぶ。
「イオ。離れろ」
「はい」
イオは一歩下がる。
トオルはもう何も言わなかった。
* * *
出発は、午後だった。
車両は二台だけ。
どちらも古い。
粗製燃料で動く旧世代車両。
エンジンをかけると黒い煙が出て、整備担当が嫌そうな顔をした。
燃料は貴重だ。
電源。
重要物資輸送。
救護所。
死体処理。
それらを削って、二台が動く。
遠征班は、車両に荷を積んだ。
水。
処理具。
記録用具。
地図筒。
粗製燃料の予備缶。
携行祠。
トオルはマツヤマの方を振り返った。
遠くに、焼却の煙が見える。
さらにその奥、トコユ方面には重い雲がかかっている。
ミオは、あそこから戻らない。
番頭たちは、あそこへ戻った。
トオルは内ポケットの名前札を確認する。
トオル。
まだ、自分の名前として読める。
完全ではない。
けれど、呼ばれれば返事ができる。
それだけで十分だと思うしかなかった。
イオが携行祠を胸に抱え、車両のそばに立っていた。
小さな祠の中で、水が揺れる音がした。
白い球が、ほんの一度だけ脈打つ。
ナニカが、トオルの背後でふわりと浮かぶ。
神様の子どもを連れていくんだ。
トオルは返事をしない。
【壊れやすそうだね】
返事をしない。
レンジが手を上げた。
「出るぞ」
車両が動き出す。
マツヤマ区画の中心部が、ゆっくり後ろへ流れていく。
西へ。
トベ山中路へ。
まだ神になっていないものを抱えて、遠征班は街を出た。




