第6話 死者を数える朝
朝になっても、街は終わっていなかった。
夜は明けた。
雨も弱くなった。
ゾンビの呻き声は、もうほとんど聞こえない。
それでも、終わってはいなかった。
通りには死体が残っていた。
ゾンビだったもの。
人だったもの。
どちらだったのか、もう分からないもの。
処理班は、夜明けから一度も休んでいない。
動くものを潰し、動かなくなったものを集め、燃やすものと記録するものに分けている。
排水溝には、雨水と血と、細かい肉片が詰まっていた。
清掃担当が棒で掻き出す。
袋に入れる。
札を貼る。
札には、たいてい何も書けない。
誰のものか分からないからだ。
トオルは、その光景を見ていた。
視界はまだ少し白い。
赤いはずの血は黒に近く、処理班の腕章の色も薄い。
世界から色が抜けたまま戻らない。
右手首の黒い輪は、袖の下で静かに冷えていた。
記録室でミオの死を書いたあと、トオルは休むように言われなかった。
言われると思っていた。
少なくとも、誰かが「今日はもういい」と言うと思っていた。
だが、呼び出しはすぐに来た。
被害記録の補助。
理由は単純だった。
記録員が足りない。
死者が多すぎる。
行方不明者が多すぎる。
トオルは記録用紙の束を受け取った。
渡してきた職員は、目を合わせなかった。
「上級会議の記録も頼む」
「俺がですか」
「同席ではない。記録だ」
職員は短く言った。
「聞いたことだけ書け。意見は求められていない」
トオルは頷いた。
意見など、出せるはずがなかった。
* * *
その頃、所長室ではアキヨシとシノが向かい合っていた。
机の上には、処理班から上がってきた現場報告書が一枚置かれている。
「報告は読んだかい、シノ」
アキヨシが言った。
シノはその紙を手に取らなかった。
「読まなくても分かるよ」
アキヨシは報告書へ目を落とす。
「臨時職員トオル。右手の攻撃により対象ゾンビを内部より爆殺。同様の処理を複数回確認」
そこで一度、紙面から目を上げた。
「班長所見。武器として有効。ただし管理不能」
「ガクらしいね」
「否定できるか」
シノは黙った。
しばらくして、短く答える。
「できないね」
「西部確認部隊に彼を入れる。記録班として」
「記録班ならほかにもいる」
「内部からゾンビを爆殺できる記録員はほかにいない」
シノの目が細くなる。
「あの子を道具にする気かい」
「道具にしなければ人が死ぬ」
「もう死んでる」
「だから、これ以上だ」
アキヨシの声は静かだった。
「表向きは記録員だ。会議でもそれ以上は言わない」
「本人には」
「言わない」
「嫌な大人だね」
「嫌な大人がいないと区画は三日で潰れるさ」
シノは何も言い返さなかった。
アキヨシは報告書を閉じた。
* * *
会議室には、すでに人が集まっていた。
中央の長机に、資料と地図が広げられている。
壁には昨夜の被害区域が貼り出され、赤い印がいくつも打たれていた。
トオルは末席のさらに後ろ、記録員用の小机に座った。
発言席ではない。
ただ聞き、書く場所。
区画管理所長、アキヨシ。
封鎖区域課長、ゲン。
処理班総長、ナツメ。
人事管理担当、アズミ。
救護所の処置士代表、ハナエ。
物流担当、コウセイ。
鎮め役代表、サナギ。
全員が、眠っていない顔をしていた。
それでも、声は仕事の声だった。
最初に話したのは、アズミだった。
細い指で資料をめくり、感情のない声で読み上げる。
「確認済み死者。 四十七名。行方不明者、六十一名。部位回収のみで照合中、二十七件」
トオルは書いた。
確認済み死者、四十七。
行方不明者、六十一。
部位回収、二十七。
「重複の可能性を除いても、被害者総数は百を超えます。まだ増えます」
まだ増える。
トオルの手が一瞬だけ止まる。
ミオは、その四十七の中に入っている。
ミオ、死亡。
昨夜自分で書いた文字が目の裏に浮かんだ。
だが、この会議では違う。
彼女は確認済み死者四十七名のうちの一名だった。
アズミは続ける。
「マツヤマ区画の登録人口は十二万弱。ただし、生存確認が取れているのは十万を下回ります。所在不明登録者、配給未受領者、封鎖区未帰還者を含め、台帳と実数の差は拡大しています」
ゲンが眉を寄せる。
「今朝の被害でさらに増えるな」
「はい。死亡処理を急げば配給上は整いますが、誤処理の危険があります。行方不明者を死亡扱いにすれば、戻った時に登録がありません」
「戻ると思うか」
ナツメが低く言った。
処理班総長の声は、擦れていた。
「使徒に連れていかれた者が戻った例は」
ゲンが言う。
「ありません」
会議室が静かになった。
トオルは、そこで初めてその言葉を書いた。
使徒。
「昨夜の使徒出現は、北東通行帯だけではありません」
使徒。
トオルは手を止めた。
あれは、そう呼ばれているのか。
ナツメは壁の地図を指した。
「北東通行帯。旧水路口。南側避難路。旧商業棟地下搬入口。確認された使徒は最低四体。いずれも人員の連れ去りを行っています。うち二体はゾンビ群を伴っていました」
トオルは書く。
使徒、最低四体。
同時出現。
連れ去りあり。
自分が見たものは、一体だけではなかった。
あの傘。
提灯。
三つの首。
笑顔の首。
苦しそうにうめく首。
首を掴まれていた人間。
それが、他の場所にもいた。
ハナエが口を開いた。
「救護所は、すでに限界です」
処置士代表の声は静かだった。
「腕や脚を食われた生存者が多すぎます。切断、焼灼、縫合、どれも物資が足りません。麻酔も足りません。抗生物質も足りません。清潔な包帯も足りません」
彼女は一度だけ、目を閉じた。
「そして、動かない死体が多すぎます」
誰も口を挟まない。
「動く死体は処理班が止められます。ですが、動かなくなった死体を放置すれば、次は疫病です。血肉は排水へ流れています。洗浄水と消毒薬を投入しなければ、数日以内に別の被害が出ます」
コウセイが資料を重ねる。
「洗浄水は、飲用水と競合します」
物流担当のコウセイは、地図の横に別の資料を置いた。
「マツヤマの飲用水は、トベ水系に大きく依存しています。トベ山中路からの供給が止まれば、飲用水配給に即影響が出ます。処理水を増やせば、飲用水が減る。飲用水を守れば、死体処理が遅れる」
アキヨシが問う。
「燃料は」
「厳しいです」
コウセイは即答した。
「今使えるのは粗製燃料だけです。植物油と区画処理場の副産物を合わせたものです。電源と重要物資輸送に回す分で、すでに余裕はありません」
資料をめくる音。
「旧世代車両は動かせますが、燃費が悪すぎます。整備負担も大きい。長距離輸送には向きません」
「西部退避には使えるか」
「トベまでなら、限定的に。ウチコ以西は徒歩と台車を前提にした方が現実的です」
ゲンが地図を広げる。
トオルは目を向けた。
マツヤマ中心部から西へ、山側へ抜ける道。
トベ山中路。
その先にウチコ地区。
さらにセイヨ山側路を抜け、キホク地区へ向かう線が引かれている。
海側のルートは、黒く塗り潰されていた。
ゲンが言う。
「西部退避路は山側に限定されます。セイヨ区の海側ルートは使えません。海神圏を通る案は除外すべきです」
誰も反論しない。
理由を聞く者もいない。
聞くまでもないのだろう。
ゲンはトコユ封鎖区の図面へ指を移した。
「問題は、退避路以前にトコユです」
壁に別の図面が投影される。
トコユ封鎖区。
高台に積み重なるような地形。
石段。門。坂。旅館街。湯殿。
道が何層にも重なり、ところどころに記録欠落の印がある。
「トコユは、もう街ではありません。神格が自分の湯殿として組み替えた地形です。封鎖線は破られたのではなく、機能していません」
サナギが静かに口を開いた。
「ここまでの数の使徒が同時に外へ出た以上、トコユは待つ段階を越えています」
会議室の視線が、鎮め役代表へ向く。
サナギは淡々と続けた。
「お納めの不足だけではありません。あちらが、取りに来ています」
その言葉で、会議室の空気がさらに重くなる。
トオルは書いた。
トコユ、取りに来ている。
ナツメが言う。
「処理班の損耗を報告します」
彼女は紙を見なかった。
「処理班の損耗を報告します」
彼女は紙を見なかった。
「昨夜だけで負傷者五十。うち重症三十五。死亡二十九。装備損耗多数。交代要員もほぼ使い切りました」
会議室の空気が止まる。
「ゾンビだけなら潰せます。数が問題です。昨夜の規模がもう一度来れば、処理班は現場維持が困難になります」
「もう一度か」
アキヨシが問う。
ナツメは頷いた。
「三度ではありません。一度です」
短く言い切る。
「次で、処理班は組織として折れます」
沈黙。
それを破ったのは、アキヨシだった。
「西部確認部隊を出す」
その言葉に、全員が顔を上げる。
「目的は五つ。トベ山中路の通行確認。ウチコ地区の受け入れ余力調査。キホク方面への到達可否確認。社の子の安定に必要な奉納品の確保。そして西部方面との連絡回復」
サナギの表情がわずかに動いた。
社の子。
トオルはその言葉を初めて聞いた。
アキヨシは続ける。
「全面退避は不可能だ。だが、段階退避の準備は必要になる。子ども、重傷者、処理不能区域の住民から動かす」
アズミが資料を確認する。
「ウチコ地区の人口は三千五百前後。受け入れ余力は、多く見ても数百人です。キホク地区は二千に届く程度。こちらも大規模受け入れは不可能です」
コウセイが続ける。
「人を運ぶ車両も、粗製燃料も足りません。退避車両を動かせば、電源か死体処理の燃料を削ることになります」
ハナエが言う。
「救護所の電源を削れば、重傷者は死にます」
ナツメが言う。
「死体処理を止めれば、次は疫病です」
ゲンが言う。
「トベを通れなければ、西部退避は成立しません。ですが、トベを避難民で埋めれば水源管理が止まります」
サナギが静かに言った。
「トベの神は温和です。器納めが守られている限り、水と山中路を守ってくださいます」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、温和であることと、無限に許すことは違います。人を集めすぎれば、あの土地も目を覚まします」
トオルは書いた。
トベ、温和。
ただし無限ではない。
コウセイがさらに資料を出す。
「他地域からの救援は期待できません。要請は出します。ですが、来られないでしょう。どこも、自分の神で手一杯です」
アキヨシは目を伏せた。
「現状の進行が続けば」
ナツメが続きを引き取る。
「処理班、救護所、物流、どれか一つではなく、全部が一か月以内に折れます」
トオルの手が紙の上で止まった。
一か月。
あまりにも短い。
だが、遠い未来のようにも思えた。
ミオは昨日死んだ。
一か月後の話など、彼女にはもう関係がない。
それでも、会議は一か月後の区画を見ていた。
トオルは、また書き始めた。
全部が一か月以内に折れる。
その時、視界の端に白い影が浮いた。
黒と白だけの、小さな人型。
少女のように見える。
だが、服を着ているのか、影がそう見えるだけなのか分からない。
トオルの背後で、ふわりと浮く。
誰も見ていない。
ナニカが囁いた。
【大変だね】
トオルは書き続けた。
【一か月もたないんだって】
返事をするな。
【なら、神を殺せばいいのに】
ペン先が止まりかける。
トオルは力を込めて、次の行を書いた。
西部確認行、編成検討。
ナニカは笑った気がした。
【君なら書けるよ。神話を殺せる】
トオルは顔を上げなかった。
会議は、その後も続いた。
退避対象の優先順位。
トベ山中路の水源保全。
ウチコへの先行連絡。
キホクの米の確保。
社の子の奉納品。
粗製燃料の配分。
死体処理の追加班。
行方不明者の一時登録凍結。
トオルは一度も発言しなかった。
求められなかった。
許されてもいなかった。
ただ、書いた。
会議が終わる頃には、昼を過ぎていた。
窓の外はまだ曇っている。
遠くで焼却の煙が上がっていた。
人々が立ち上がる。
資料が閉じられる。
椅子が引かれる。
決定したことと、決定できなかったことが、同じ重さで机の上に残る。
トオルは記録用紙を揃えた。
その時、サナギが会議室を出ていくのが見えた。
トオルは少し迷い、後を追った。
廊下の角で、サナギは足を止めた。
「会議記録員が、質問ですか」
振り向かずに言う。
トオルは息を整えた。
「使徒について、聞きたいことがあります」
「記録のためですか」
「はい」
サナギはゆっくり振り返った。
年齢の読めない顔だった。
若くも見えるし、老人のようにも見える。
「使徒は、神ではありません」
彼女は言った。
「神の手です。神が自分で歩かないために、人間を手にしたものです」
「元は人間ですか」
「多くは」
短い答え。
トオルは右手首を押さえた。
「これは、神のものですか」
サナギの視線が、袖の下へ落ちた。
触れようとはしない。
近づきもしない。
「違います」
「じゃあ、何ですか」
「名を与えない方がいいものです」
「知ってるんですか」
「知りません。知ってはいけないものだと、知っています」
トオルは黙った。
サナギは続ける。
「神なら、鎮める手順があります。供えるものがあります。境界があります。祈らないための祈りがあります」
彼女の声は静かだった。
「でも、それには手順がありません。返事をしないこと。名前を渡さないこと。余白を空けないこと。それくらいしか、私たちには残っていません」
「それは、俺を見ています」
「でしょうね」
「どうすればいいんですか」
サナギは少しだけ目を伏せた。
「返事をしないでください」
そして、言葉を重ねる。
「たとえ、あなたの声で呼ばれても」
トオルは右手首の黒い輪を握った。
冷たい。
ずっと冷たい。
サナギはそれ以上何も言わず、廊下を去っていった。
トオルは会議室へ戻る。
壁には、まだ地図が残っていた。
マツヤマ区画中心部。
トベ山中路。
ウチコ地区。
セイヨ山側路。
キホク地区。
そして、別の地図。
トコユ封鎖区。
高台に積み重なる、湯殿と旅館街と石段。
使徒出現地点。
連れ去り推定経路。
最奥の湯殿本館には、黒い印が打たれている。
番頭たちは、そこへ戻っていった。
ミオは、戻らなかった。
トオルは机に残っていた端の紙を一枚取った。
そこに、自分の字で一行だけ書く。
トコユ、確認必要。
背後で、白黒の少女が笑った気がした。
【行くんでしょう?】
トオルは返事をしなかった。




