表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様だって書き換えられる 〜暗闇が「神話を殺せ」と囁き嗤う〜  作者: ヤマザキ ハルノ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/9

第5話 夜明けの代筆


「トオルさん、後ろ!」


 ミオの叫びが、雨の中で裂けた。


 トオルは振り向くとゾンビがいた。


 口を大きく開けて、こちらへ飛びかかってくる。

 顔の半分は崩れていた。片目はなく、口の中には、誰のものか分からない指が歯のように並んでいる。


 逃げられない。


 背中はまだ痛む。

 息もまともに吸えない。

 黒栞コクカンは腕輪に戻っている。


 トオルは左腕で顔を庇った。


 その直前、横から何かがゾンビを弾いた。


 ガクだった。


 長柄の押さえ棒がゾンビの胴を突き、濡れた路面に叩きつける。

 その上から、別の処理班員が斧を振り下ろした。


 頭が割れる。


 それでも足がばたつく。


「胸だ!」


 ガクの声。


 もう一撃。

 胸が潰れる。


 ゾンビはようやく動かなくなった。


「立てるか」


 ガクがトオルを見下ろす。


 トオルは立ち上がろうとした。

 肋骨のあたりが痛む。

 さっき番頭に投げられた衝撃が、まだ身体の中に残っていた。


「……立てます」


「なら下がれ。使徒は追うな」


「でも、連れていかれた人が」


「もう見えない。今追えば、ここにいる連中が死ぬ」


 正しい。


 分かっている。


 だが、雨の奥へ消えていく下駄の音が、耳から離れなかった。


 からん。

 からん。

 からん。


 番頭は逃げたのではない。

 目的を果たして帰っただけだ。


 トオルは、それを止められなかった。


 アーケードの奥から、さらにゾンビが流れ込んでくる。


 ガクが叫ぶ。


「避難列を下げろ! 名簿持ちは後方! 潰せる奴だけ前に出ろ!」


 ミオが名簿を抱え、避難者を誘導する。


「こっちです! まだ動ける人はこっちへ!」


 その声だけが、人間の声だった。


 トオルは足を引きずりながら、バリケード側へ戻る。

 バールはもうない。

 右手首の黒い輪は冷たい。


 使うしかない。


 使いたくない。


 その二つが、頭の中で何度もぶつかる。


 ゾンビが一体、横道から出てきた。


 若い女の形をしていた。

 腹に大きな穴があり、そこから何かが垂れている。

 目は虚ろで、喉から壊れた笛のような音を漏らしていた。


 避難者の老人が腰を抜かす。


 トオルは走った。


 黒い輪がほどける。

 右手にペンが絡む。

 ペン先を、ゾンビの胸へ押し込む。


 黒い一滴が沈む。


「爆ぜろ」


 ゾンビが膨らむ。


 トオルは目を閉じなかった。


 破裂。


 肉片が雨に混じる。

 黒い紙片が宙を舞う。

 老人が悲鳴を上げる。


 トオルは振り返らない。


 また次が来る。


 刺す

 唱える

 爆ぜる


 刺す

 唱える

 爆ぜる


 何度目かで、右手の感覚が薄くなってきた。

 指先が自分のものではないように遠い。

 手首の黒い輪は、熱ではなく冷たさを増していく。


 視界の色はさらに抜けていた。


 赤いはずの警告灯が白く見える。

 血は黒い。

 雨は灰色。

 ミオの顔も、遠くから見ると紙に描かれた線のように薄い。


 それでも、ミオの声だけは分かった。


「トオルさん! こっち、まだ二人います!」


 トオルはそちらへ向かおうとした。


 だが、ガクに肩を掴まれる。


「行くな。あそこは処理班が行く」


「ミオがいる」


「名簿持ちだ。前に出させるな!」


 ガクは別の隊員へ指示を飛ばす。


 ゾンビの群れが、バリケードの一部を押し込んでいた。


 処理班が押さえる。

 避難者が叫ぶ。

 誰かが転ぶ。

 また誰かが名前を呼ぶ。


 その声の中に、ゾンビの喉から漏れる音が混じる。


「……ぁ……ぉ……」


 誰の声か分からない。


 分からない方がいい。


 トオルは歯を食いしばった。


 また一体、足元へ這ってきたゾンビにペン先を突き立てる。


「爆ぜろ」


 破裂音。


 もう、吐く余裕もなかった。


 夜は終わらない。


 番頭は去った。

 それでもゾンビは残った。


 商店街の看板が落ちる。

 処理班の一人が腕を噛まれる。

 すぐに別の隊員がその腕を切る。


 被害者は叫び、倒れ、押さえつけられる。

 名前を聞かれる。

 答えられれば、まだこちら側にいる。

 答えられなければ、記録係が札を確認する。


 トオルは見た。

 見たくないものを、見た。


 足を失って泣く男。

 胸を食われ、もう声が出ない女。

 頭を半分持っていかれた身体。

 それをためらわず潰す処理班。


 全部が雨に濡れていた。


 雨は何も洗わない。

 ただ、血と肉片を流し、排水溝へ集めるだけだった。


 ミオの声が何度か聞こえた。


 そのたびに、トオルは振り返る。


 彼女は名簿を抱え、避難者の名前を呼んでいた。

 顔色は悪い。

 でも立っている。


 まだ生きている。


 そう確認するたび、トオルはほんの少し息を吸えた。


 だが、夜明け前。


 アーケードの照明が一度、全部落ちた。


 ほんの数秒だった。


 真っ暗になる。


 雨音だけが残る。


 誰かが叫んだ。


 誰かが転んだ。


 ゾンビの湿った音が近づく。


 トオルは黒栞を握ったまま、闇の中で周囲を探す。


「ミオ!」


 呼んだ。


 返事はない。


 照明が戻る。


 白い非常灯が、ちらつきながらアーケードを照らした。


 ミオの姿は、そこになかった。


 トオルは走ろうとした。


 ガクが叫ぶ。


「持ち場を離れるな!」


 聞こえていた。


 だが、足は止まらなかった。


 名簿が落ちていた。


 濡れた路面の上。

 ページが開き、雨で文字が滲んでいる。


 その横に、ミオのペンが転がっていた。


 トオルは拾いかけて、手を止める。


 奥の路地から、湿った音がした。


 咀嚼音。


 トオルは路地へ入った。


 狭い。

 非常灯の光が届かない。

 雨水と血が混ざり、足元に溜まっている。


 そこに、何かがあった。


 最初、トオルはそれが人だと分からなかった。


 壊れた案内板のそば。

 倒れた収納箱の陰。

 雨水の中に、ミオの身体があった。


 片腕がなかった。


 胴が裂けている。

 腹のあたりは大きくえぐられ、衣服と肉と紙片が混ざっていた。

 首はまだつながっていたが、顔の一部が血で見えない。


 名札は胸元に残っていた。


 だが、血で登録名が読めなかった。


 口が少し開いている。


 何かを言おうとしていたのかもしれない。


 トオルは動けなかった。


 ミオ。


 そう呼ぼうとして、声が出ない。


 目の前のものがミオだと、分かりたくなかった。


 分からないままでいたかった。


 路地の奥で、ゾンビが一体、壁にもたれていた。


 腹が膨らんでいる。


 その喉が、濡れた音を立てた。


「……と……」


 トオルの背中が凍る。


 ゾンビの口が震える。


「……ぉ……」


 声だった。


 ミオの声に、似ていた。


 だが、言葉ではない。


 壊れた声帯が、たまたまそう鳴っているだけだ。


「……さ……」


 トオルは息を止めた。


 それは、呼びかけではない。


 ミオが最後に自分を呼んだのではない。


 意味を与えるな。


 そう思った。


 その瞬間、耳元で声がした。


 【最後に君を呼んだのかもね】


 ナニカの声だった。


 やわらかい。

 優しい。

 だから吐き気がする。


 トオルは右手首を押さえた。


「違う」


 声が震えた。


「そういう話にするな」


 ゾンビがこちらへ顔を向ける。


 口が開く。


 ミオの声だったものが、また喉の奥で鳴った。


「……と」


 トオルは黒栞を展開した。


 ペン先が震えている。


 ゾンビの胸へ刺す。


 黒い一滴が沈む。


 今度は、言葉が出なかった。


 爆ぜろ


 言えば終わる。


 けれど、こいつの中にはミオの声が混じっている。


 ミオではない。

 分かっている。

 それでも、言えなかった。


 ゾンビが手を伸ばす。


 トオルの頬に、濡れた指が触れた。


 その瞬間、ミオの壊れた声がもう一度鳴る。


「……る」


 トオルは歯を食いしばった。


「……爆ぜろ」


 ゾンビの身体が膨らむ。


 破裂した。


 肉片が路地の壁に散る。

 黒い紙片が雨に濡れて貼りつく。

 声も消えた。


 トオルは、そこで膝をついた。


 ミオの身体は、もう動かない。


 雨が降っている。


 ただそれだけだった。


 英雄的な最期ではなかった。

 誰かを庇ったわけでもない。

 運命を変えるために犠牲になったわけでもない。


 混乱の中で、いつの間にか食われていた。


 それだけだった。


 それだけのことが、どうしようもなく現実だった。


 朝が来た。


 夜明けの光は、トオルには白く見えた。


 赤も、青も、橙もない。

 世界は濡れた紙のように色を失っている。

 ただ黒い腕輪だけがひんやりと存在感を放っている。


 生き残った職員たちは、動ける者から管理所へ戻された。


 処理班はまだ現場に残っている。

 生存者、負傷者、死者の確認。

 物資や名札の回収。

 動かなくなったゾンビの焼却。


 トオルは仮眠室ではなく、記録室の椅子に座らされていた。


 目の前に事故記録用紙がある。


 手は震えていた。


 震えているのだと思った。


 違った。


 右手が動いていた。


 黒栞コクカンは、いつの間にかペンの形になっている。

 トオルの指に絡みつき、用紙の上を滑っていた。


 止めようとしても、止まらない。


 字はトオルの字だった。


 だが、書いた覚えはない。


 ゾンビ流入 夜間継続。

 イレギュラー個体出現。

 連れ去られた者 複数。

 追跡 失敗。

 死者 未整理。


 そこで一度、ペン先が止まる。


 トオルは息を呑んだ。


 余白に続きが書かれる。


 トオルは生きている

 よかった


 最後の二行だけ、字が違った。


 トオルはその二行を見ていた。


 生きている

 よかった


 確かに生きている。


 だが、ミオは死んでいる。

 連れていかれた人たちは戻っていない。

 腕を失った人がいる。

 頭を潰されたゾンビの中には、誰かだったものがいた。


 それら全部が、最後の二行の外側に追いやられていた。


 シノが記録室に入ってきた。


 彼女は紙を見た。

 それから、トオルの右手を見た。


「これは、あんたの記録じゃないね」


 トオルは何も言えなかった。


 シノは椅子を引かず、立ったまま言う。


「消すかい」


 トオルは首を横に振った。


 消してしまえば、なかったことになる。


 でも、残しておけば、それはナニカの見方として残る。


 トオルは生きている

 よかった


 それだけを喜ぶ何かがいる。


 その事実まで、消してはいけない。


 トオルはペンを握り直した。


 今度は、自分の意思で書く。


 震える手で、代筆された記録の横に文字を足した。


 ミオ 殉職

 死因 ゾンビによる捕食。

 救助 失敗。

 美談化 不可。


 書き終えた瞬間、右手首の黒い輪が冷えた。


 ナニカの声はしなかった。


 シノはその文字をしばらく見ていた。


 そして、小さく頷いた。


「消えたものを、綺麗に片づけるな」


 トオルは顔を上げる。


 シノは続ける。


「消えたなら、消えたと書きな」


 その声は、慰めではなかった。


 命令でもなかった。


「それが、あんたの仕事だよ」


 トオルは返事をしなかった。


 返事をすれば、泣きそうだった。


 だから、ただ紙を見た。


 ミオ 殉職


 その四文字が、朝の白い光の中で黒く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ