第9話 器納め
トベの朝は、水の音で始まった。
マツヤマの朝とは違う。
焼却炉の煙も、消毒薬の臭いも、処理班の怒号もない。
目を覚ました時、トオルが最初に聞いたのは、山中を流れる細い水路の音だった。
昨夜、遠征班はトベ山中路の簡易宿舎に泊まった。
トオルは宿舎を出た。
外には、朝の白い光が落ちていた。
山の斜面には、濡れた陶土が白く露出している。
水路のそばには、割れた器の欠片が昨日と同じように並んでいた。
水は澄んでいる。
底の石まで見えた。
その水を、住人たちが汲んでいる。
大きな桶に水を移す者。
白い布を絞る者。
水をかけ合う子供たち。
誰も大声を出さない。
ゆったりとした速度で朝が進んでいた。
「早いですね」
声をかけてきたのはリクだった。
彼はすでに記録板を持っている。
寝癖は少し残っているが、筆記具の位置は相変わらず整っていた。
「水の音で起きました」
「僕もです。記録上は、五時十二分から水量確認開始。職人組合の動きは五時二十分から。器納めの準備は、五時三十七分開始」
「細かいな」
「細かくないと、あとで困ります」
リクは水路の方を見た。
「ここが止まったら、マツヤマの飲用水が止まります。昨日の会議で聞いた通りです」
トオルは頷く。
澄んだ水を見ていると、どうしても昨夜までの血と雨水を思い出す。
同じ世界にある水なのに、ここだけが別のものに見えた。
アケミは少し離れた場所で、朝の地図を描き直していた。
水路
窯跡
作業小屋
祠
器片の境界
昨日ケモノが止まった場所
彼女はトオルに気づいたが、地図からは目を離さなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
「眠れましたか」
アケミが線を引きながら聞く。
「少しだけ」
「この水音で眠れない人もいます」
「アケミさんは?」
「私は眠れます。一定の音なので」
アケミは地図の端に、小さく時刻を書き込んだ。
「マツヤマの夜よりは、ずっとましです」
トオルは水路の音を聞いた。
たしかに、ここには呻き声も、焼却炉の音もない。
「ずっと地図を?」
「朝の地形は、夜と違うことがあります」
「道が変わるんですか」
「変わることもあります。見え方だけの時もあります。でも、どちらにしても記録します」
アケミはそこで、ようやく指先で地図の一点を叩いた。
「それと、昨日の戦闘地点ですが、境界の内側と外側で足跡の深さが違いました」
「足跡?」
「はい。ケモノは境界の外では踏み込めています。ですが、器片の列に近づくほど足が浅くなる。力を入れられなくなるのか、地面が受けないのかは不明です」
「トベの神の庇護ですか」
「記録上はそうなります」
アケミは淡々と答えた。
「ただし、庇護は境界線に依存しています。器片が崩れた箇所では、足跡が内側へ寄っています」
安全地帯ではあるようだ…
* * *
祠は、小さかった。
人の背丈ほどもない。
屋根は古く、柱の根元には苔がついている。
朱も金もない。鈴もない。願い事を書いた札もない。
それなのに、近づくほど息が浅くなった。
祠の前だけ、水音が少し遠い。
水路はすぐそばを流れている。
昨日も今朝も、同じように澄んだ音を立てていたはずだ。
けれど祠の前に立つと、その音が一枚、薄い器の向こう側へ移ったように聞こえる。
地面には、割れた器の欠片が円を描くように埋め込まれていた。
茶碗の縁。
皿の底。
湯呑みの欠片。
どれも割れている。
けれど、乱れてはいない。
壊れたものが、壊れたまま、正しい位置に置かれている。
職人たちは、その円の外で動いていた。
誰も祠を正面から見ない。
誰も声を張らない。
手順を確認する声さえ、自然と低くなる。
ここは、願いを言う場所ではないのだと分かった。
何かを頼む場所ではない。
何かを許してもらう場所でもない。
守ると決めたことを、守っているか見られる場所だった。
トオルは、袖の上から右手首を押さえた。
黒い輪は静かだった。
静かなまま、そこにある。
祠は小さい。
古い。
弱い神の住まいなのかもしれない。
それでも、そこに立っていると、こちらの方が器の中へ入れられているような気がした。
小さな祠の前に、トベ職人組合の代表であるスズメが立っていた。
昨日、遠征班を迎えた年配の女性だ。
袖に白い土の跡があり、手の甲には細かな火傷の痕がいくつも残っている。
スズメは職人たちへ短く指示を出しながら、トオルたちを見る。
「器納めを始めます」
レンジが護衛班を集めた。
マヒロは眠そうな顔をしていたが、声は出さない。
セキは相変わらず無言で周囲を見ている。
オウギは水袋と荷の置き場を確認していた。
宮司班も出てくる。
カナメが先頭。
ツヅラが携行祠の札を確認し、イオがそれを両腕で抱えている。
携行祠の中で、白い球が水面に浮かんでいた。
社の子は、ただ白い球として器の水の上で微かに脈打っている。
スズメは社の子を見て、深く頭を下げた。
「神の子をお預かりするには、足りないものが多すぎます」
カナメが答える。
「預けるわけではありません。分けていただきたいだけです」
「分けるものにも、礼は要ります」
「承知しています」
スズメは頷き、職人たちへ合図した。
白い布が敷かれる。
その上に、一つの器が置かれた。
白い器だった。
ただ白いだけではない。
青い色調で牡丹の花が描かれ、美しい陶器であった。
縁は薄く、しかし危うさはない。
手に取れば軽そうなのに、目で見ると山の石のような重さがあった。
職人組合が今年焼いた、最高傑作。
その器に米が少量盛られる。
次に、ケモノの肉が細く切られ、器の隣へ置かれた。
肉は赤黒い。
だが、雑に切られてはいない。
山の荒れを鎮める分け前として、きちんと整えられていた。
さらに、清酒が注がれる。
酒の匂いが、わずかに漂った。
トオルにはそれがひどく贅沢なものに思えた。
米も酒も、簡単に神へ差し出せるものではない。
最後に、清い水が添えられる。
職人たちは頭を下げた。
誰も願い事をしない。
助けてくださいとも、守ってくださいとも言わない。
スズメだけが、静かに言った。
「今年も、水を濁らせません」
職人たちが続く。
「今年も、器を偽りません」
「今年も、割れたものを隠しません」
「今年も、火を粗末にしません」
祈りではなかった。
約束だった。
トオルはその光景を見ていた。
神に願わない。
神に嘘をつかない。
神へ差し出すものを、手順として整える。
トコユとは違う。
お納めとも違う。
ここでは、人間は神に喰われるために並んでいない。
人間が作ったものを差し出し、その代わりに水を守ってもらっている。
背後で、ナニカが退屈そうに声を漏らした。
【へえ】
【人間に器を焼いてもらって】
【米と酒をもらって】
【それで満足なんだ】
トオルは返事をしない。
白い器を見る。
弱い神なのかもしれない。
人間の手が必要で。
米と酒と肉が必要で。
器に納まらなければ、形も保てないのかもしれない。
だが、この神は水を守っている。
人を喰わずに。
それを、小心者とは思えなかった。
器納めが終わると、スズメは小さな器をもう一つ持ってきた。
新しい器ではない。
古い器だった。
何度も使われてきた跡がある。
だが、ひびはない。
白い表面に、水の跡だけが薄く残っている。
「社の子へは、こちらを」
ツヅラが受け取る。
丁寧に布で拭き、器の底を確認し、カナメへ視線を送る。
カナメは頷いた。
「イオ」
「はい」
イオは携行祠を下ろした。
手が少し震えている。
緊張しているのが分かった。
ツヅラが小さな器へ水を注ぐ。
トベの清水。
そこへ清酒を一滴落とす。
さらに、米を三粒。
スズメが最後に、白い器の縁へ指を添えた。
「トベの神より、器と水を分けます」
イオが深く頭を下げる。
「社の子に、いただきます」
携行祠の中の白い球が、強く震えた。
水面が揺れる。
最初は、ただ波紋が広がっただけだった。
次に、白い球の輪郭がほどける。
溶けたのではない。
壊れたのでもない。
内側から、別の形が出てくる。
小さな耳。
細い鼻先。
水を払うような尾。
白い球は、器の水面の上で、小さな狐の姿を取った。
純白だった。
ただの毛並みの白ではない。
陶器の白。
水の底の石の白。
朝の光を受けた紙垂の白。
手のひらに乗るほど小さい。
それでも、ただの獣ではないと分かった。
足元には水の輪が残り、尾の先には淡い光が宿っている。
イオが息を呑む。
「社の子……」
白狐はゆっくり目を開いた。
瞳は、まだ幼い。
水面のように揺れている。
狐は一度だけイオの袖へ近づいた。
イオが手を伸ばしかける。
だが、狐はすぐに祠のそばへ戻った。
ツヅラが小さく息を吐く。
「輪郭が安定しました」
カナメは厳しい顔のまま言う。
「まだ弱い」
「それでも、形を持ちました」
ツヅラの声には、わずかに安堵があった。
マヒロが小声で呟く。
「狐……っすか」
レンジがその肩を軽く叩く。
「騒ぐな」
「すみません。でも、思ったより……」
「可愛いと言ったら怒られるぞ」
マヒロは口を閉じた。
白狐は、祠のそばで周囲を見回していた。
トオルの方を見る。
小さな耳が伏せられる。
トオルは右手首を動かさない。
近づかない。
ただ見ている。
白狐はトオルの袖の下を見た。
それから、少しだけ身を低くした。
怯えというより、警戒。
まだ知らないものを見ている反応だった。
* * *
器納めの後、遠征班は中継小屋へ戻った。
各々が道中経路の確認中にスズメが小屋へ入ってきた。
手には、小さな布包みを持っている。
中には乾いた米と、焼き締めた小さな杯が入っていた。
「道中用です」
スズメはイオへそれを渡した。
「社の子に何かあれば、水を一滴。米を一粒。杯へ落としてください。大きな助けにはなりませんが、形を思い出す支えにはなります」
イオは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
スズメは少し迷ったように、ウチコの方角を見た。
「この先へ行くなら、日が落ちる前に町の中へ入らない方がいい」
レンジが顔を上げる。
「理由は」
「分かりません」
スズメはそう言った。
嘘ではない声だった。
「ただ、戻ってきた者はみな、日暮れの後でした。戻ってこなかった者も、日暮れの後に消えています」
それ以上、スズメは言わなかった。
言葉にすれば、何かを呼んでしまうとでも思っているようだった。
アケミが地図に短く印を入れる。
「ウチコ到着予定時刻を早めます。日没前に外縁まで確認。内部侵入は状況次第」
レンジは頷いた。
「夜に入る選択肢は消す」
マヒロが小さく息を吐く。
「昼なら安全ってわけでもないんすよね」
誰も答えなかった。
白狐になった社の子が、イオの袖の陰で耳を動かす。
トオルには、何も聞こえなかった。
だが、社の子は確かにウチコの方を見ていた。
背後で、ナニカが嫌そうに笑う。
【ふうん】
【あっち、余白が汚い】
【まだ遠いのに】
トオルは返事をしなかった。
ただ、記録帳の端に小さく書いた。
ウチコ方面。
社の子、反応。
音なし。
気配のみ。
水路の音は、まだ澄んでいた。
けれど、その澄んだ音の向こうに、何かが混じり始めていた。




