04 捧げられるもの
山中にあるプレハブの建物内は、うっすらと白い煙が漂っていた。
火事ではない。火の手が上がっているというものではなく、ほのかに白檀の香りが混ざった煙には、ほんの少し大麻の煙が混ざり込んでいる。
「なるほど、ご主人が浮気で、おまけに店のお金を持ち出した——と」
「そうなんです……働いて、コロナも乗り越えてようやく、ようやくこれからっていうときに……」
「お辛かったでしょう、お金だけじゃない、信じていたご家族に裏切られたその無念はいかばかりか……お察しいたします」
「もう私、これからどうしたら良いのかわからなくて、主人はもうずっと連絡も取れなくて、女のところに行ってるとは思うんですが、これから私、どうやって生きて行けば良いっていうんですか……」
「先行きが見えないのはご不安ですね。わかります。私もかつては家族に裏切られ、途方に暮れました。死を考えたこともあります」
恐らくは30代から40代ほどであろうか、落ち着いた雰囲気の優男は、特徴的なくらいに落ち着いた、ゆっくりとした語り口調で初老の女に話しかけ続ける。
「鵜殿先生も、ですか?」
「はい。私もかつての妻が不倫をして、若い男に金を貢いだ挙句、その男の子供まで……いや、失礼。今は鯖江さんの苦しみを軽くして差し上げなければ」
「う、鵜殿先生……先生もお辛い目に遭われたのに、私のために……」
「さぁ、まずは呼吸を整えましょう。どうぞ椅子の背もたれに身体を預けて、顔を上へ向けて下さい。どうぞ目を閉じて」
鯖江、と呼ばれた初老の女は、ジャニーズ事務所のベテランアイドルのような整った顔の男の指示に従った。
首の力を抜いて顔を上に向け、目を軽く閉じる。
「よろしいですか? 目の上に温かいタオルを乗せます。これはカウンセリングではありません、軽いマッサージのようなものです。どうか気を楽に」
「はい、ありがとうございます」
「さ、ゆっくり息を吐いて下さい」
プレハブの中の一室、『カウンセリングルーム』と札が出された部屋の煙が少し濃くなった。
換気口と思しき隙間から、白檀とは異なる匂いの煙が入り込んでくる。
「ゆっくり、鼻から息を吸いましょう。大きく吸って、鼻から吸った息が頭のてっぺんから後頭部を通り、背骨を通って腰骨のあたり、へその少しした辺りの『丹田』に息をためるようなイメージで、吐く時も背骨を通って吐くようにして下さい。——そうです、お上手です。何度かゆっくりと深呼吸を繰り返しましょう」
鯖江の鼻の穴に、白い煙が吸い込まれて行く。
不思議と咳き込むこともなく、肺一杯に大麻の煙を吸い込んで、ゆっくりとゆっくりとテトラヒドロカンナビノールが血中に溶け込んでいく。
鵜殿と呼ばれた優男は、ほんの僅かに開いた戸の隙間から小さなメモ紙を受け取ると、ゆっくりとした歩調で背もたれを少し倒した椅子に歩み寄る。
不自然なくらいにゆっくりな歩調で老女の周囲を歩き回りながら口を開いた。
「鯖江さん、あなたは他にも悩みがお有りですね?」
「悩み……?」
「そう、私には見えます。あなたの直ぐ側に寄り添うように、お年を召した女性の姿が見えるんです。ひょっとしたら実のお母様では?」
「……お、お母さん……」
「亡くなられたんですね。とても鯖江さんのことを心配しておられるようです。あなたのことを心配そうな表情で、あぁほら、今も鯖江さんの頭を優しく撫でておられます」
「うっ……うぅ……お母さん、お母さぁん……」
「鯖江さんが介護をされているのは、違う方ですね? こちらはご主人のお母様では?」
鯖江は鼻声になり、嗚咽を漏らし始める。
大麻の成分が脳にまで至ったのか、感情の抑制が効かなくなって来ているようだった。
「ずっとお一人で介護をされていたんですね。ご主人の助けも得られず、ずっとお一人で。お辛かったでしょう」
「辛かった……本当に辛かったんです、ずっと何年も介護が続いて、でも誰も助けてくれなくて……」
「大丈夫、妙見菩薩様も、大聖歓喜観音菩薩様も鯖江さんの親孝行を、功徳をちゃんとご覧になっています」
「私、もういっそ死んでくれたらいいのにって、そんなことも考えてしまったんです……でもどうしても出来なくて……」
「良いんですよ鯖江さん。それで良いんです。鯖江さんのお悩みも、苦しみも、全部私達歓喜観音会が受け止めて差し上げます。さぁ、ゆっくり深呼吸をしましょう。ここにいれば、何の心配もいりません。菩薩様の慈悲の手が、鯖江さんにも差し伸べられます」
どこまでも優しく、やや低く、甘い声。
穏やかなゆったりとした話し方で紡がれる言葉は、疲れ傷ついた上、大麻が染み込んだ女の脳に難なく入り込んでいく。
「鯖江さん、我々歓喜観音会は、決して入信を強要したり、強くおすすめすることは決してありません。いつでも、鯖江さんの気が向いたときに、ご連絡下さい。受付のもののご連絡先を用意しておきますので、24時間何時でもお電話下さい」
「鵜殿先生……そんな、夜でも良いんでしょうか……」
「もちろんです。我々は、悩み傷ついて、苦しむ方の導きの星となるべく活動しています。担当のものは烏丸という者がいます。何時でもご連絡をお待ちしていますよ」
「あぁ、鵜殿先生……あぁ、あぁ菩薩様の声が、聞こえるような気がします……」
目にホットパックを乗せたままの鯖江は、その声が初めての大麻による幻聴であるか、それとも優しい鵜殿の声を菩薩の声と聞き間違えたのかは定かではない。
鵜殿宏和は、初老の女を見下ろして、優しげなほほ笑みを浮かべた。
——堕ちた——そう小さくつぶやいた声は、鯖江の耳に届くことはなかった。




