03 終わらない宿題
「ミマ姉ちゃん助けてぇ」
昼過ぎのスナックFOX、開店準備を進める木常ママに、フードメニューの下ごしらえを進めるジャネット、さらにこの日昼から店に入っていた美真のもとにやって来たのは、実に情けない鳴き声を挙げているジャネットの一人娘、真理亜である。
その手には数学の教科書と、課題であろうプリントが握られていた。
「もー、三角関数とか将来何の役に立つのぉ? マジで意味わかんない」
まるで妹に頼られた姉のように、どこか嬉しそうな笑みを浮かべる美真が、ちらりと木常とジャネットに顔を向ける。
「良いわよミマちゃん、手伝ったげて」
「ごめんね、ミマちゃん。真理亜、ホントは宿題ってひとりでやるのよ?」
オトナの2人は、呆れたような苦笑を浮かべ真理亜に視線を向けた。
いつの間にか真理亜は、カウンターを拭いている美真のすぐ隣に腰掛け、数学のプリントを広げている。
「だってぇ、サインとかヒャダインとかタンバリンとか、もうホントわけわかんない……ねぇママ、高校卒業してからさ? 一度でも三角関数とか使ったことある?」
「あるわよ。っていうか真理亜、あんたも毎日朝起きてから寝るまで、四六時中使ってるわよ?」
「えー、何にぃ?」
「真理亜ちゃん、三角関数はGPSを使タ位置の測位とか、スマホを横にしたラ画面も横になルの機能とか、カメラの手ブレ補正とか、顔認証とかゲームとか、全部使われテるよ」
「え、マジで? 何で?」
先程まで心底嫌そうな顔だった真理亜だったが、流石に日頃から使い倒しているスマホにも三角関数が使われていると言われると興味を持ったようだ。
四川大学を卒業し、日本の大学に留学しているという才媛、美真の説明は日本語こそ少々たどたどしいものの、高校生の真理亜にも分かりやすいものであったようだ。
測量や測位、位置や傾きの測定といったモジュールにおいて、三角関数は必須の理論である。
「ほらぁ真理亜、使ってるじゃないの、三角関数」
「や、ママ知らなかったでしょ?」
「今知ったわよ。ほらほらわかったら勉強する。知識って大切よ?」
「それは分かるんだけどぉ……」
むくれて、カウンター席の椅子に腰を掛けたまま脚を組み替える真理亜は、長身とモデルのような体型、それに整った顔立ちや健康的な褐色の肌を持つ美少女だ。
母ジャネットはスナックFOXのセクシークイーンと呼ばれるほどの肢体の持ち主で、さらに38歳で16歳の娘がいるとは思えないほどの若々しい美貌、そして接客サービス業ひとすじ20年のキャリアが生み出す『どんな酔客も難なくあしらえる』手練手管は、スナックFOXにおいて紛れもないナンバーワンの技術といえる。
「真理亜ちゃん、頑張るヨ?」
「はぁい……そっかぁ、スマホに使われてんじゃしょうがないかぁ……あのさミマ姉ちゃん? ひょっとしたら三角関数とかって、AIなんかにも使われてたりする?」
「もちろんするよ? AIが言葉を解釈すルのに『コサイン類似度』っテいう計算もすルし、微分も積分も統計解析も、全部使ウの」
「うげぇマジで? ほんとに使うんだ? うーわ、じゃあ数学勉強しなきゃじゃん……」
「うふふ、真理亜ちゃんは数学、嫌い?」
美真が卒業した四川大学は、日本で言えば旧帝大クラス、それこそ九州大学や東北大学と言った超名門である。
そんな最高学府で学んだ彼女にとっては、勉強が苦手でしょうがない真理亜は『ちょっと手がかかるけどカワイイ妹』のような存在だろう。
中国にいた頃から、美真は物心ついた直後には壮絶な受験戦争の真っ只中にいた。
毎日朝早くから夜遅くまで勉強漬けで、青春らしい青春などまったく経験がないと言っても過言ではない。
幸か不幸か、美真は大変に真面目で学ぶことが好きな少女だった。
特に数学や科学といった理系教科が得意分野であり、コンピューターサイエンスにも強い。
そんな頭脳明晰な姉『ミマ姉ちゃん』は、真理亜にとって憧れの存在である。
「嫌いっていうかぁ……わかんない。とりあえず自分がどこでわかんなくなってるかがわかんない。ミマ姉ちゃんは数学好きなの?」
「ウン、好き。タヌキさんモ確か、数学のパズルとか好きテ言てたよ?」
「そっかぁ……勉強ってどうやったら楽しくなるんだろ。もうほんとヤだ」
「分かルようになルと楽しくなルよ? ほら、教えてあげルから。ね?」
優しくカウンターの隣の席に腰掛け、宿題のプリントの問題文をゆっくりと読み上げる。
1ステップずつ丁寧に問題を解いていき、最終的にはプリントの問題をほぼ全て美真が『解いてあげた』ような形になった。
「やったぁ……終わったよぉ、間に合ったぁ」
「ハイ、じゃあ全部消スね? 真理亜ちゃんやてミて?」
「え? ちょ! 待っ、えっ!? ミマ姉ちゃん!?」
「だいじょぶ、今やり方解っただカラ、真理亜ちゃんなら解けるよ」
「……うわぁ、ほんとに全部消しちゃった……え、ほんとに全部最初からやるの?」
「やるノ、頑張って真理亜ちゃん」
にこ、と優しい姉のような笑顔で、鬼のような厳しい指導。
結局真理亜が自力で全ての問題を解くまで、たっぷり30分ほどの時間、美真は隣で『大丈夫、真理亜ちゃんなら出来ルから』『そうそう、そこまで合ってルよ』『ほら、そこで使う公式、ここ書いてルよ?』と優しく励ましつつ、『口は出すけど手は出さない』方法で指導を繰り返す。
そのおかげで、無事に真理亜は自力でプリントを仕上げることが出来た。
「ハイ、よく出来マした」
「……ミマ姉ちゃん、鬼……でもなんかちょっとこう……何ていうの? とりあえずコサインとサインは解った。タンタンメンは——」
「タンジェント」
「タンバリン」
「タンジェントだってば」
「タングステン」
「もぉ、真理亜ちゃん」
どこまでもボケ倒そうとするカワイイ妹の肩をぺち、と軽く叩いて、2人で明るく笑い声を上げる。
母ジャネットに木常ママにとっては、二人ともが『可愛い娘』そのものだった。




