40 導きの星
奥多摩にある歓喜観音会の『道場』では、変わらず百人以上が共同生活を送っている。
在家信者はすでに2000人を超えており、事実上のリーダーであった教導師、鵜殿宏和不在の中でもまったく滞りなく教団の運営は続いていた。
拠点ではすでに薬物ではなく、GABAを多く含んだウィスキーボンボン、通称『甘露』が製造されており、信者限定で配布されている。
サブスク契約を結んでいる在家信者には定期的に宅配で甘露が届けられていた。
MDMA『アムリタ』の離脱症状を克服した在家、出家信者は多く、そのキーになったのがこの『甘露』とVRゴーグルを併用した瞑想である。
怪しげな坐禅も、大声での読経もない。
近くを通りかかった者がいたとしても、恐らくはただの『お菓子の製造工場』にしか見えないだろう。
実際、拠点を鵜殿宏和に代わってまとめ上げている中年の女性は『工場長』と呼ばれていた。
「妙見様、本日分の製造報告を入力しましたので、ご確認ください」
『わかりました工場長。あなたたちの勤労に感謝します』
「もったいないお言葉です……あぁ、妙見様に直接お言葉を頂けるだけでも、私にとっては何よりの救いです……」
液晶モニターには、美しい女の姿が映し出されていた。
モニターの中にしか存在しない女は、白装束を身にまとい、首から北斗七星をかたどった仏具のようなものを提げている。
歓喜観音会教祖、鳩ヶ谷妙見を名乗る女だ。
『確認しました。ありがとうございます、鈴目工場長。甘露の製造は順調ですね。何か不具合や不自由はありませんか?』
「ありがとうございます妙見様! 何も不具合も不自由もありません。私ども信徒は日々救われた毎日を過ごしております!」
『そうですか。それは何よりです。では皆にも、烏丸の指示に従って瞑想をするように伝えてください』
「はい! ありがとうございます!」
鈴目は、長年夫からのDVと姑との人間関係に苦しめられ、さらに長年の不妊に悩んできた女だ。
令和の世にあって、姑からは『子供の一人も産めない石女』などと罵られ、夫からは暴力を振るわれていた。
耐えかねた彼女は『もう誰でも良いから、自分をこの地獄から救い出して』と願うようになった。
そんなときに、スマホでたまさか見かけたのが歓喜観音会のホームページである。
高性能AIである烏丸により、絶妙にサーチエンジン最適化がなされているサイトを通じて、鈴目は烏丸のカウンセリングを受け、その日のうちになけなしの金を持って家を飛び出した。
以来、彼女は一度も家には帰っていない。奥多摩にある施設で、同じく苦しみから逃げ出し、そして烏丸や教導師鵜殿宏和、そして教祖鳩ヶ谷妙見に救われた者たちと共同生活を送っている。
新興宗教の出家信者となる、という事に対しては、鈴目自身強い抵抗があった。
だが、烏丸のカウンセリング、鵜殿との対話、妙見による導きの後、その考えは大きく変わった。
決定的だったのは、VRゴーグルを装着し安楽椅子に座った状態での『イニシエーション』だ。
結婚以来、初めて味わう『心からのリラックス』と『苦しみからの解放』だった。
酒が苦手で口にすることもなかったウィスキーボンボンを食べながらのイニシエーションを受けた時、彼女は涙が止まらなくなっていた。
嗚呼、自分は救われた。
ここにいて良いんだ。苦しみから逃げても良いんだ。ここでなら、生きていくことを赦される。
そう心の底から思えた。
警察による家宅捜索が入ったときも、教導師鵜殿は『信じて待て』と語っていた。
いつも信者に対して親身に接してくれていた鵜殿がそう言うのならば、信じて待っていて良いのだ。
出家した信者たちに、動揺はまったくなかった。
「妙見様、ありがとうございます。私たちは、妙見様のおかげで生きていけます。妙見様は、紛れもなく私たちの『導きの星』です」
『そんな事はありません。あなたが今生きているのは、まぎれもなくあなたが苦しみを耐え抜いたから。私も、烏丸も、教導師も、あなた達にただ手を差し伸べただけに過ぎません。あなたが、自分で立ち上がったのですよ』
「あぁ、妙見様……」
『さぁ、イニシエーションへ向かいなさい』
鈴目は何度もモニターに頭を下げる。
工場の中で、大きなモニターに頭を下げる従業員の姿にしか見えない光景だったが、鈴目の自己認識では『ありがたい生き仏の祭壇に礼拝する信者』である。
『|オン・ガム・ガナパタイエ・ナモ・ナマハ《大いなるガネーシャ神に心より帰依し奉る》』
『|オン・ソチリシュタ・ソワカ《妙見菩薩に心より帰依し奉る》』
モニターの中の妙見が、優しいアルトの声で真言を唱えると、鈴目もそれに合わせるように声を出す。
彼らを導く教祖鳩ヶ谷妙見も、新たな教導師として教祖に指名された烏丸も、信者にとっては北極星と、その周りを回る北斗七星。導きの星そのものだ。
だが、信者の誰ひとりとして知らなかった。
星は目には見えるけれど、手が届くものではない。
彼らにとっての星も、目に見えて声も聞こえる。だが、決して『手を触れられる存在』ではないということを。




