38 年寄りの与太話
「僕の中国の友人ってのは、今深圳に住んでるんだけどね、今はちょっと寂れちゃったらしいんだけど、少し前までは世界でも最先端のIT機器のメーカーが軒を連ねてたらしいんだよ。その中に友人が経営する会社があってねぇ」
鶴岡は全員に大好物の貴腐ワイン、ソーテルヌを振る舞いながら言葉を続ける。
鶴岡の『友人』である三合会の首領、趙克冠は、鶴岡と同じく麻薬は国を滅ぼす悪魔のクスリだということを理解していた。
だが、この世界にはどうしても麻薬やアルコールに手を伸ばしてしまうものがいる。
そういった者たちが、一体なぜ麻薬に手を出すのか。趙はそのことを考え抜いた。
そして至った結論のひとつが、『ドリルを買いに来る者が本当に欲しいのは、実はドリルそのものではない。穴だ』という例え話。
薬物を買いに来る者が本当に求めているのは薬物そのものではなく、薬物がもたらす快楽である。
快楽そのものは罪ではない。が、麻薬が罪になるのは、その高い依存性と身体に対する毒性だ。
さらに、依存性が高い上に価格も高騰するとなると、快楽を求める人々は全てをなげうってでも薬物を買い求めることになる。
その結果、人は狂人と化し、家庭は崩壊し、やがて国は滅亡に向かって突き進むこととなる。
200年前のアヘン戦争と同じだ。
「彼は、僕と同じで麻薬が大嫌いでねぇ。ただ苦しむ人々にとってもっとも簡単で、もっとも短時間で苦しみを取り除くことが出来るのは、やっぱり麻薬だったんだねぇ」
趙はさらに考えた。
麻薬に手を出してまで得る快楽に人々は何を求めるのか。
最初のきっかけは『逃避』だ。
辛い仕事や学校、理不尽な社会、思い通りにならない生活、理想とは程遠い家族、夢見た姿とはかけ離れた自分自身。
それらの不都合な現実からの、いっときの逃避のために、人々は麻薬に手を伸ばしてしまう。
「それなら、麻薬を使わなくても、そういった辛い現実からひとときだけでも逃げられれば良いんじゃないか、そう考えて趙くんが考えたのが、人間の脳をハッキングする、という方法だったんだよ。趙くん、あぁ、彼が僕の友人なんだけどね。彼の息子さんはお医者さんでね? それで色々と思いついたんだそうだよ」
趙が考えたのが、『外部から快楽物質を入れる』のではなく『人間の脳が自ら快楽物質を作り出す』か『快楽物質を微量に増やしつつ、その受容体を活発化させる』というものだった。
いわば、外部からの快楽物質の調達を最小限に、自分の脳の感度を上げつつ自前で快楽物質を作り出させる、というものだ。
「それにはねぇ、麻薬以外の色んなものを使うと良いらしいんだよねぇ」
「いろんなもの? クスリ以外で?」
「そう。それが、こう、なんていうのかな? 頭にスポッとはめて、目の前にこう、ゴーグルみたいなのを——」
「VRヘッドセット、ですか?」
店内で、自称18歳のチーママを除けば、現在揃って22歳の寅之介と馬渕が最年少となる。
馬渕は趣味で生成AIを使うなど、恐らくこの中ではミマにならんでAIとITに関する知識が豊富だ。
「そうそう、たしかそんな名前だったねぇ。それとヘッドフォンを組み合わせて、光と音、それに匂いと味も組み合わせて、人間の五感の内4つからの刺激で脳をコントロールするんだそうだよ。目の動きとか声なんかをそのナントカゴーグルから取り込んで、その人の状態に合わせてAIが自動的に光と音を調節するんだってねぇ」
手法としては、鵜殿宏和が用いていた、白檀と大麻を併用したリラクゼーションとカウンセリングの手法に近い。
この状態で、GABAを豊富に含んだチョコレートと軽いアルコールを取り入れることで、快楽物質をいざなうという手法だ。
「うへぇ……マブちゃん、何でそんな事知ってるの?」
「いや、単純ですよ。僕も持ってますから、VRゴーグル。あれ凄いですよ。特にあの——」
「あの?」
「あのなぁに? 私も真理亜からなにか聞いたことあるわね、そのVRゴーグルって。凄いんでしょ?」
ジェニーが身を乗り出すと、どうしても豊満な胸の谷間が強調されてしまう。
思わず馬渕が視線を胸元に向けて、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
「ゲームとか凄いらしいわね。真理亜も欲しいって言っちゃって。でも高いのよねぇアレ」
「そ、そうですね……」
危うく『VRのエロビデオが本当にヤバいんですよタヌさん』と言いかけた馬渕は、ギリギリのところで急ブレーキに成功した。
実際にVRゴーグルを日頃から使っている馬渕は、その圧倒的な没入感を知っている。
それだけに、鶴岡が語った『VRと音、それに匂いと味を交えた脳へのアクセス』の恐ろしさが実感をもって理解できてしまう。
「鶴岡さん、それ……本当に実現してたとしたら、かなり怖いですね」
「そうだねぇ。ただねぇ」
鶴岡はおつまみのクリームチーズを美味そうに咀嚼してから、甘みの強い貴腐ワインで洗い流すと、満足そうにふぅと大きく息を吐いた。
「その仕組み——アプリって言うんだっけ? コンテンツ? だったかな。それ、もう出来てるらしいんだよ」
「えっ? そ、それってやっぱりその、中国のですか!?」
「いやぁ、僕の友人が言うには『この手のコンテンツで日本に先を越されるとは思ってなかった』って話だったからねぇ。日本が作ったそうだよ」
「まさかそのコンテンツを作ったの……」
水割りで赤くなっていた戌井の顔色が、にわかに青ざめる。大神はカウンターに頬杖をついて寝息を立てていたが、熊川も緊張の面持ちになった。
「多分、歓喜観音会が作ったんじゃないかなぁ。まぁ、確認もしてないし、ただの僕の思い込みであってほしいけどね?」
鶴岡は、本当に誰かに願いを囁くかのようにそう呟くと、甘い貴腐ワインをゆっくりと口に流し込む。
「人間、キツいときには甘いものが一番だねぇ」
今やアメリカやロシアのマフィアを凌ぐ勢いのチャイニーズマフィア、その巨大組織三合会が『先を越された』と語るVRを利用した疑似麻薬システム。
そのシステムを開発したのが歓喜観音会である、という証拠はどこにもない。
だが、状況が全てを物語っていた。
「天才も、その天賦の才をどう使うか次第、ってところね。使い方さえちゃんとしてれば、ひょっとしたら凄いことを成し遂げたかも知れないわね、その教祖のお姉さんも、教導師ってのも」
はからずも、木常ママと同じことを考えた人物が警察の上層部にいる、ということなど、この時の店内の誰ひとりとして想像だにしないことであった。




