37 疲れ果てたオオカミ
「あー……もうマジ呑まなきゃやってらんないっすよぉ」
「オオカミさん? もう焼酎5合空けちゃったけど、大丈夫?」
「大丈夫っす……芋のロックおかわりぃ」
「おい、お前飲みすぎだぞ。ちょっと水のめ水。すんませんジェニーさん、水ください」
「はいはい。程々にね?」
スナックFOXのカウンター席は、この日珍しく満席になっていた。
入口に一番近い席には田貫と、そのとなりには馬渕が腰掛けている。彼らはそれぞれミマとジェニーが目当てでやってきた常連客だ。
そして残りのカウンター席には、やたらと長身な女、大神とその同僚である戌井がいる。
「なるほどねぇ、ガサ入れは無事成功、教導師鵜殿は逮捕、めでたしめでたし……で終わるワケはないよねぇ? クマさん?」
「そうなんです……」
チーママ、伊立が接客するテーブル席では、いつもの常連客、鶴岡と向かい合うように巨漢の熊川が腰掛けていた。
警察による歓喜観音会の拠点の家宅捜索からすでに1ヶ月が経っていた。
クリスマスが過ぎ、年が明けてもなお、鵜殿宏和と鵜殿宏子への取り調べが続いている——事になっている。
「コトになっている? えー何それぇ? どゆこと?」
はぁ、と忌々しげなため息を吐いて、熊川の代わりに薄めの梅酒ソーダを飲み込んだ戌井が口を開いた。
「俺達の手を離れちまったんだよ。警視庁本庁の方で取調べするんだと。俺達は、この歓喜観音会の捜査からはもう外された」
「あら、そうなの? 人事異動か何か?」
「違いますね。これは本庁にいる同僚から聞いた話ですが……鵜殿宏和氏の取り調べの最中、女性警官が宏和氏に本気で求婚したんだそうです。それも4人も」
「うへぇ!? 4人? 婦警さんが? その、教祖っぽい人にプロポーズしたってことですか!? 羨ましいなぁ」
思わず田貫も口を挟んできた。
今までモテた経験などというものが1度もない、『人生に3度ある』と言われるモテ期の第1回目を待ち望む田貫からすれば、羨ましいことこの上ない話だ。
「おまけに、男性の警官も宏和氏に心酔して、歓喜観音会への入信を申し出た者もいるくらいで……取り調べは難航しているどころか、事実上今はストップしている状況だそうです」
「さすがカリスマ宗教家、ってところかしらね。犯罪心理学の専門家だったり、カウンセラーに弁護士との接見もあったんですが、もうどこで学んだのやら、心理学者は取調室に入ったかと思ったら、半日後には弟子入りして出てきたそうです……」
「うへぇ……凄い人もいたモンだなぁ……その逮捕された鵜殿さんって人、催眠術師とかなんじゃないかなぁ」
「あの、その人と話しさせるのって、危険じゃありませんか? 大人しく捕まったって言ってましたけど、それだって何かの策かもしれないですよ」
まだ最初の一杯め、ジェニーがつくった水割りを大事そうに飲む馬渕は、幸いまだ酔ってはいない。
「危険ですね。現時点で鵜殿宏子氏と宏和氏は、それぞれがお互いをかばうような感じで『全部自分がやった』と主張していますし……それ以上に厄介なのが最新型MDMAの『甘露』と呼ばれる薬剤の情報でしたが……中身は単なるGABAと呼ばれるものと少量のアルコール、いわゆる『ウィスキーボンボン』のようなものでしたよ」
「ギャバ……? えー? 何でそこで宇宙刑事が出てくるのぉ?」
「チーママ、それ『宇宙刑事ギャバン』。ギャバンじゃなくてGABAだよ?」
「えー何それぇ、私わかんなぁい」
昭和の時代に放映されていた特撮ヒーローものである宇宙刑事ギャバンの名前が出る辺りから、チーママの年齢が想像出来てしまうところだが、店内にいるメンバーでチーママ伊立の実年齢を探ろうという勇者はもうひとりもいない。
「ミマちゃん、ギャバってなにか知ってる?」
「あ、ハイ、知ってマす。ガンマ・アミノ酪酸の略で、脳とか脊髄の神経の興奮を抑えてリラックス状態をつくる、抑制系神経伝達物質デす。トマトとか、チョコレートに含まれてマす」
「さすがミマちゃん、薬学部だねぇ。でもそんな、合成麻薬作ってたところがまたどうしてそんな、ウィスキーボンボンなんて作ってたんです?」
「いやぁ……田貫さん、そこは我々もまだ掴んでいないんです。まぁ、これ以上は流石に捜査情報ですから——」
「クマさん、ちょっと良いかしら」
カウンター奥で和服の袖を少しまくっていた木常ママが、少し眉根を寄せるような顔を熊川に向けた。
「それって、ひょっとしたら『もう麻薬は必要ない』ってコトなんじゃないかしら? アムリタとかいうMDMAは作った。でも麻薬は非合法だしリスクもコストもかかる。それだったら、合法的にやれるチョコレートを使って、何とか『救済』に繋げられるものを掴んだ、とか?」
「……かも知れません。ですが、今の私たちには判断できる情報が少なすぎるんです。結局、MDMA密造の証拠はでませんでした。作っていたのは本当にただのお菓子、乾燥大麻が少量出てきただけで、麻薬及び向精神薬取締法違反で立件するのは難しくなりそうです……すみません、そんなワケで、今日は戌井くんと大神くんを連れて、なかばやけ酒ですね」
苦笑を浮かべた熊川は、鶴岡が差し出したワイングラスを傾けて、巨体に似合わぬ優雅な所作で白ワインを飲み下す。
「どうかしらツルさん、何かこう、そういういい具合の情報とかって無いかしら」
「そうだねぇ、無いこともないねぇ」
鶴岡の意外な言葉に、なかばへべれけの状態になっている大神も含め、全員の視線が店の奥に座る老人に向けられた。
「ま、僕が知ってるのも確実な話じゃないんだけど、ちょっと中国の友人から聞いた話だけどね?」
鶴岡の中国の友人、というのが、実は中国における巨大チャイニーズマフィア『三合会』の首魁、趙克冠という超大物であるが、そのことを知る者は誰もいない。
「ま、スナックで話す、年寄りの与太話だけど、聞いてみるかい?」
鶴岡の言葉に、ミマやジェニーも含めた店員の全員が一斉に頷いた。




