36 予想外に穏やかな朝
奥多摩の山中、プレハブの建物から出てきたのは、ひときわ大柄な熊川ともう一人、袴を穿いた優男だった。
「では鵜殿さん、こちらへ。車両までご案内します」
熊川に案内され、警察の手配したミニバスに乗り込んだ鵜殿宏和は、怒りに表情を歪ませるでも無く、穏やかな顔のまま特に抵抗もせず大人しく車に乗り込んだ。
地図の上に北斗七星を描くかのように配置された7箇所の拠点全てに、同時に警察が踏み込んだのは早朝のことだった。
戌井、それに龍ケ崎が指揮した部隊が踏み込んだ先にはすでに人影はなく、熊川警部補が指揮した部隊が踏み込んだ場所が、『本部』となる拠点だった。
いくつものプレハブの建物の中には、化学工場のような設備を備えた物があり、何らかの薬物が製造されているであろう現場を抑える事に成功している。
「この場所は、宏子からですか」
「はい。お姉さん、鵜殿宏子さんから教えて頂きました」
「姉は場面緘黙症です、身内である私以外とはほとんど話せないと思いますが……怪我はしていませんでしたか?」
「警察署へ来られたときには両手に出来たマメが潰れていたのと、何箇所か擦過傷と打撲が。自転車で転倒されたそうで、警察署の医務室で応急処置をしています」
「そうですか……ありがとうございます」
どこまでも穏やかなやり取りは、これがいわゆる『ガサ入れ』であることを忘れてしまいそうなほど静かだった。
不意に熊川の腰に備えられたトランシーバーから言葉が聞こえてきた。
『警部補、ありました。乾燥大麻です!』
「乾燥大麻? アムリタは? 製造の痕跡だけでもありませんか」
『それが、現物を確認出来たのは乾燥大麻だけで……MDMAの痕跡はありません』
「……そうですか、わかりました。証拠の保全をお願いします」
短く答えると、巨漢熊川は大きな身体を伸ばすように大きく息を吸う。
「歓喜観音会の教導師、鵜殿宏和さん。あなたを麻薬及び向精神薬取締法違反の疑い、並びに大麻取締法違反の現行犯、ならびに未成年者略取の疑いで逮捕します。念のためこちら、家宅捜索令状と逮捕状です。ご確認ください」
「わかりました」
宏和は意外にも、大人しく両手を揃えて熊川の前に差し出した。
まったく抵抗する様子もない。
熊川は丁寧にかちゃ、と手錠をかけると『キツくはありませんか』と尋ねるほど、穏やかな逮捕の瞬間であった。
「ちなみに、姉は今どちらに?」
「警察署で保護しています。お話は、筆談で色々と聞かせて頂いていますよ。ご対応は女性警察官が担当していますので、安心してください」
「そうですか。わかりました。姉は子供の頃のトラウマで見知らぬ成人男性が苦手なんです。そのあたりも配慮いただけますか。あとニガウリとトマトときゅうりが苦手で、甲殻類にアレルギーがあります」
「はい。そこも御本人から伺っています。アレルギー体質は、弟である宏和さん、あなたも同じであるということも伺いました」
「姉が、そこまで話したんですか? あの他人と話せない姉が——」
「お姉さんは、ずっと宏和さん、あなたのことを心配なさっています」
「そうですか……刑事さん、私が——いや、俺が姉を利用しただけです。姉は他人とロクに話せないような性格ですからね。俺に利用されて、騙されているだけなんです。姉が何をお話したかは知りませんが、全て俺が一人でやったことです」
宏和の落ち着いた声は、刑事である熊川の心をも落ち着かせるようなものだった。
教導師としての言葉ではなく、ただの鵜殿宏和としての言葉だったが、彼も姉の宏子と同様に『人を穏やかに、優しく教え導く教導師』としての役割を演じ続けた結果、『ただの鵜殿宏和』としてのキャラクターを自分でも思い出せなくなっていた。
「いずれにせよ、この場でのお話はこれくらいにして、後は署でゆっくりお話を聞かせて頂くことになると思います。念のため警備のものをこの車内によこしますので、この場でこのまま、お待ちください。良いですね?」
「わかりました」
警備という名の見張りが到着してから、熊川は車を降りる。
周囲には大勢の信者が集まっていた。
百人はいるであろうか、目の前を覆い尽くす信者たちは、まるで懇願するように熊川達警察に詰め寄っていた。
自分たちは教導師さまに救われた。
あの人は本物の救世主だ、あのお方がいなければ、自分は今こうして生きてはいない。
ここにいるのは全員、歓喜観音会に心身ともに救われた者ばかりだ。どうか連れて行かないでくれ。
教導師さまは、教祖の妙見様は本当に人助けのために、苦しむ衆生を救おうとしていた生き仏様だ。
今に警察には罰が当たるぞ、今すぐに教導師さまを解放しろ。
口々にそう話す信者たちの顔は、どれもが正気を保ったままの表情に見えた。
「これは……想定とは少し違いましたか」
熊川ら警察は、当初カルト宗教の拠点への突入であるからには、殴り合いのような実力が飛び交う状況も覚悟していた。
機動隊も配備しており、厳に熊川の直ぐ側にはポリカーボネート製の盾をもった者もいる。
詰め寄ろうとした信者も、警察の前に手を広げて立ちはだかるだけで、手を出そうとはしてこない。
まるで、全員が教導師、鵜殿宏和を護ろうとしているかに見えた。
「皆、聞きなさい」
ふいに信者たちが静まり返る。
熊川が後ろを振り返ると、警察車両のドアが開き、手錠をかけられたままの宏和が背筋を伸ばし、まるで不安に陥った我が子を安心させる父親のような、微笑みすら浮かべた表情を向けている。
宏和を見張っていたはずの『警護の警官』は、なぜか宏和の側近であるかのようにその両脇に立っている。
宏和の声は、朝の森の中でよく通った。
「大聖歓喜観音菩薩様は、全てをご覧になっておいでです。これは、次は皆が、あなた達が、我々に救われたあなた達が、今度は救いの手を差し伸べる側に回るための試練です。私も妙見様も、必ず戻ってきます。その日まで、全員心穏やかに、健やかに過ごすのです。どうか、私の言葉を信じて。教祖妙見様はすぐに戻って来られます。良いですね、妙見様と、歓喜観音菩薩のお導きに従ってください。」
群衆は静かに、うなだれながらも警察官に道を開け始める。
「警察の方の捜索や調査には、協力してください。良いですね。全てはこの教導師一人の責任です。何も心配する事はありません」
それだけ話すと、鵜殿は車の中へと戻っていった。
鵜殿を乗せたミニバスが奥多摩を出発したのは、昼少し前のことだった。




