01 事件の傷痕
アムリタ、と仮に名付けられた薬物は、日本の麻薬の歴史の中でも飛び抜けて悪質なものとされた。
米国で流通を続けるオピオイド系の鎮痛剤、フェンタニルにヘロインなどを混合させたMDMAの毒性と依存性を高め、さらに得られる快楽の持続時間を短くし、その上で地獄とも呼べるような激しい離脱症状を引き起こすまでの時間はおよそ48時間。
さらに巧妙なことに、1度目の摂取から脳内で異常としか言えない量の快楽物質を分泌させ、たった1度でも使用すれば間違いなく2回目を使用することになる。
人外のレベルの快楽物質の洪水に晒された脳は、容易く洗脳や情報の上書きを受け付けるようになってしまう。
スナックFOXの常連、田貫の部下である馬渕陽平の父が使用されたのは、アムリタの改良前バージョンであった。にも関わらず、彼は7年間、自分をまったくの他人だと信じ込んで、歓喜観音会のために奴隷のように働き続けたのだ。
「同時に大麻もかなりの規模で流行してきています。率直に言って、現状は平成末期の『脱法ハーブ』の流行時よりもはるかに深刻ですね」
「やれやれ、厄介なモノをバラ撒いてくれたもんだねぇ」
八王子市内にある、古民家を改装した日本料理屋『朧』では、大柄な筋肉の塊のような男と相対するように、小柄な老人が椅子に座って日本酒の入ったぐい呑みを傾けていた。
この日、朧へやって来たのは大勢の警察官だが、店内にいるのは店主の若い男と小柄な老人鶴岡、それに巨漢の警部補熊川洋司と、さらに白髪頭の強面の壮年の男がひとり。
「龍ヶ崎くんも頭が痛いねぇ」
老人、鶴岡にそう声をかけられた壮年の男は、不機嫌そうに眉間のシワを深くする。
彼は龍ヶ崎憲司郎、現在の警視総監である。
「まったくだ。何よりも……鶴岡、お前とこうしてまた再会するだけならまだしも、協力を仰がねばならんというのが気に入らんな」
「あははは、嫌われてるねぇ。ま、立場上龍ヶ崎くんは僕と仲良くするわけにもいかないからねぇ。捜査一課長だった時みたいに『タツさん』て呼ばれた方が、昔を思い出して良いんじゃないかい?」
「ふん、好きにしろ。それで熊川、ハトの行方は」
警視総監、龍ケ崎が『ハト』と呼んだのは、カルト教団歓喜観音会の教祖、鳩ヶ谷妙見という女だ。
目下のところ、正体も居場所も何もかもが謎のままの人物である
「残念ながら、まだわかっておりません」
「そうか」
若い店主が、先附として八寸と呼ばれる木製の器に前菜を美しく盛り付けてテーブルに並べた。
秋らしい旬の食材を厳選し、細やかな『仕事』を施して供される、極上の日本料理だ。
「根本を断たねば被害は広がるばかりだ。一日も早く見つけ出せ」
「わかっております。そのためにも、鶴岡会長……ツルさんの協力が必要かと」
「熊川、お前自分が何をしようとしとるのか理解してるのか。警察がよりによって、引退したとは言え広域暴力団の会長に協力を要請するなど」
「タツさん、勘違いしないでほしいねぇ。僕はね、あくまで『善意の市民』としての協力を申し出てるだけだよ? まぁ、『昔の仕事仲間』の伝手を頼む事はあるかもしれないけど、それはあくまで僕個人の問題、ってことでね?」
相変わらずの美しい所作で料理を口に運んで、福島県のキリッとした日本酒で口の中を洗い流す。
酒器は呑兵衛垂涎の、『備前の徳利、唐津のぐい呑み』の組み合わせである。
「いやぁ、今日の料理には東北の酒がよく合うねぇ。ほらクマさんも」
「ありがとうございます、いただきます」
特徴的な色使いの『朝鮮唐津』と呼ばれる、大きめのぐい呑みに注がれた酒を熊川はゆっくりと飲み下す。
「ほら、タツさんも。このお店は初めてでしょ? 美味いよ」
「……ふん、まぁ料理と料理人に罪はない」
龍ケ崎は、いかにも『渋々、やむを得ず』と言った表情で黒い釉薬が施されたぐい呑みを鶴岡の前に差し出した。
「まさかヤクザの大親分の酌を受ける日が来るとはな」
「まぁ、それだけの大変な事態だ、っていう話だよ。タツさん」
鶴岡は自分のぐい呑みにも酒を注いでから、大きめな焼締めの徳利を静かにテーブルに置き、一気にぐいっと酒を喉に流し込む。
「僕もねぇ、現役のときにはそこそこプライドがあったモンだよ。末端の若い衆にまで、クスリは扱わせなかった。アレは、人を狂わし家庭を破壊し、そして国を滅ぼすものだからね。クスリを使ったヤツは容赦なく破門したし、制裁も加えたりもした。だからこそ、今の『アムリタ』だっけ? あのクスリは見過ごせないねぇ」
龍ケ崎は眉間にシワを寄せたまま、少しだけ酒を口に含む。
「ま、そういうワケだからさ。僕にもちょっと協力させてちょうだいよ。僕にとっても身近な子が巻き込まれちゃったしねぇ」
鶴岡にとって身近な子というのは、行きつけのスナックの嬢、ジェニーことジャネットの一人娘、真理亜のことだ。
新型MDMA、通称『アムリタ』は真理亜が通う工業高校でも複数の生徒が使用していた。
そのうちの7名が、校内で人質をとって暴力沙汰を起こしたのである。7人全員が『制圧』され、いずれも骨折や脱臼などの重症を負っていた上、現在も精神に重度の後遺症を負っており、全員が病院に収容されており、未だ退院の目処すら立っていない。
事件から2ヶ月が経過しているものの、事件を起こした工業高校機械科2年生の男子は7人全員が『会話が不可能な状況』に陥ったままだ。
激しい離脱症状が2週間近く続いた上、その後も意識の混濁や幻覚などに悩まされ続けていた。
「まぁヤンチャな子とはいえ、若い子が巻き込まれるっていうのは、頂けないよねぇ。オトナとしてはね」
「あぁ、ヤクザと意見が合うのは業腹だが」
龍ケ崎はぐいっと一気に酒杯をあおり、大きくため息を吐いた。
「全くその通りだ。このフザけたクスリは一粒残らず駆逐せねばならん。熊川、『善意の一般市民からの協力』はうまく使え。責任は俺が取る」
「ありがとうございます、総監」
話がまとまったタイミングで、テーブルには旬のアジを使ったお造りが運ばれて来た。
「さて、じゃあ頂こうか。今日も楽しみだねぇ」
嬉しそうな、好々爺の笑みを浮かべる鶴岡の向かい側で、龍ケ崎は不機嫌そうな表情のままお造りに手を伸ばした。
この日も、『朧』の料理はどれも美味であったという。




