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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第2章 光の乱反射と底の影

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第8話 透明な理由

 昨日あったことを、なかったみたいに振る舞う日があります。

 でも、人は本当に忘れたわけではありません。

 静かな場所では、その“少しだけ残ったもの”がよく見えます。

 翌日、陽葵は図書館を訪れた。


 本を二冊持っていた。

 端を揃えて置いた。

 栞を挟んだ方を開いた。


 昨日のことは、陽葵の動作のどこにも残っていなかった。


 速いリズムで読んだ。

 口元がほんの少し上がっていた。


 志乃は八十ページを読んでいた。


「昨日ね」と陽葵は言った。

「来た」と志乃は言った。

「来ました」と陽葵は言った。声に笑いがあった。「本、出さなかったですけど」

「そうだった」と志乃は言った。

「なんか、疲れてたのかも」

「そうか」


「志乃は聞かないんですね」と陽葵は言った。非難ではなかった。確認していた。

「何を」

「なんで疲れてたのとか」

「陽葵が話すなら聞く」と志乃は言った。「聞かれたいなら言えば」


 陽葵は少し黙った。


「……聞かれたいわけじゃないかも」と陽葵は言った。「ただ、なんか」


 続かなかった。


「なんか?」と志乃は言った。

「なんか、ここにいると落ち着くなって」と陽葵は言った。「それだけです」

「なら」と志乃は言った。それでいいと思った。

「うん」


 二人はページをめくった。


 漣が来た。

 引き戸が枠の端まで開ききった。

 一つ手前のテーブルへ。

 シャープペンシルを取り出した。


「よ」と漣は言った。どちらにでもない方向に言った。


 陽葵が少し顔を上げた。

 また本に戻った。


 三人は読んだ。

 書いた。読んだ。


 しばらくして、志乃はページをめくる手を止めた。


 止まる理由はなかった。

 ただ止まった。


 八十一ページが開いていた。


 窓の外の光が、松林の上で揺れていた。

 夏の光だった。

 高い位置にあった。

 松林の緑が光を弾いていた。

 光の中に、松林があった。


 志乃は光を見ていた。


 陽葵のことを考えた。


 押す。

 引く。

 押す。

 昨日の木目の上の指先の動きを考えた。

 横に滑って、端で止まった手を考えた。

 「今日は、いいです」の低い声を考えた。

 本を出さなかったことを考えた。


 考えた。

 今日は少し気になった。


 それから、八十一ページに目を戻した。


 動く理由が、なかった。


 聞くことはできた。

 何があったかを聞くことは、できた。

 できる、ということと、する、ということは別だった。

 志乃にとって別だった。


 陽葵が話したければ話す。

 話さなければ話さない。

 ここにいることで落ち着くなら、ここにいればいい。

 それだけだった。


 それだけ、だった。


 志乃は八十一ページを一行目から読んだ。

 意味が通った。


 漣がシャープペンシルでテーブルを叩いた。

 一回だった。


 志乃は読んだ。


 陽葵は読んだ。


 光が少し傾いた。

 書棚の上半分に橙が来た。

 夏の終わりに近づく光の角度だった。


「じゃあ」と漣は言った。椅子を引いた。「また」


「また」と志乃は言った。


 漣の足音が遠ざかった。


 陽葵がページをめくった。

 速いリズムだった。


 志乃は読んだ。


 右手の指が、ページを押さえていた。

 紙の繊維が逃げる程度の力だった。


 白くなかった。


 一度も、強くならなかった。

 志乃は踏み込みません。

 けれど今回は、ちゃんと考えていました。

 それでも最後に力が戻ったのは、たぶん志乃なりの答えです。

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