第7話 底の形
人は、ときどき本を読むためではなく、誰かのいる場所へ来ます。
でも、その理由をうまく言葉にできるとは限りません。
静かな図書室で、今日はいくつかの音が足りませんでした。
その日、図書室には志乃だけだった。
七十四ページ。
漣は来なかった。
陽葵も来なかった。
志乃は一人で読んだ。
ページをめくった。
右手の指は、紙の繊維が逃げる程度の力でページを押さえていた。
七十五ページをめくった。
ドアが開いた。
途中で止まる開き方だった。
かかとの足音が入ってきた。
陽葵だと判断した。
顔は上げなかった。
足音が志乃のテーブルに向かってこなかった。
書架の方向でもなかった。
途中で止まった。
志乃はページを読んだ。
廊下の方向から、複数の声が聞こえた。
一つ、
二つ、
三つ。
笑い声が混じっていた。
図書室のドアの前を通り過ぎた。
足音は動かなかった。
通り過ぎてから、また動いた。
今度は志乃のテーブルに向かってきた。
椅子を引いた。
「来た」と志乃は言った。
陽葵は答えなかった。
志乃は顔を上げた。
陽葵は椅子に座っていた。
鞄を膝の上に置いていた。
テーブルの上に何も出していなかった。
本も出していなかった。
「本は?」と志乃は言った。
「……今日は、いいです」と陽葵は言った。
声が低かった。笑いがなかった。
志乃は七十五ページに目を戻した。
しばらく、陽葵は何もしなかった。
テーブルの上に何も出さなかった。
本も開かなかった。
鞄を膝の上に置いたまま、座っていた。
志乃は読んだ。
「……志乃」と陽葵は言った。
「なに」
「なんでもないです」
志乃はページを一行読んだ。
窓の外で、松林が揺れた。
今日の光は夏の光だった。
高い位置にあった。
松林の緑が光を弾いていた。
陽葵の手が、テーブルの上に出てきた。
鞄から出したのではなかった。
膝から上がってきた。
テーブルの端に、そっと置かれた。
右手だった。
指先が、木目の上で止まった。
押す。
引く。
押す。
志乃はページを読んだ。
陽葵の指先の動きが、止まった。
また動いた。
今度は違う方向だった。
押す方向でも引く方向でもなく、横に滑った。
木目を横断した。
端まで来て、止まった。
手がテーブルから離れた。
膝に戻った。
「……帰ります」と陽葵は言った。
椅子を引く音がした。
立ち上がった。
鞄を肩にかけた。
志乃はページを読んでいた。
「また」と志乃は言った。
足音が遠ざかった。
ドアが開いた。
そして閉まった。
図書室に志乃だけになった。
志乃は七十五ページの残りを読んだ。
読み終えた。
七十六ページをめくった。
右手の指が、ページを押さえた。
白くなるほどではなかった。
ただ、紙の繊維が逃げる程度より、少しだけ強かった。
ほんの少しだけ。
志乃はそれを確認した。
確認してから、読んだ。
窓の外の松林が、光の中で静止していた。
揺れていなかった。
光だけが動いていた。
光の中に、松林があった。
志乃は七十六ページを読んだ。
本を出さなかった陽葵のことを考えなかった。
考えなかったのではなかった。
考えを、置いた。
どこかに置いた。
置いた場所は知らなかった。
気にしなかった。
ページをめくった。
七十七。
陽葵は何も話さず、志乃も何も聞きません。
けれど、触れる指先の強さだけは少し変わっていました。
静かな場所ほど、小さな変化はよく響きます。




