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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第2章 光の乱反射と底の影

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第6話 閉じない速さ

 同じ場所に通っていると、少しずつ“いつも”ができていきます。

 だから、そのリズムが崩れると、静かな場所ほどよく分かる。

 今回は、そんな日の話です。

 漣が久しぶりに来た日、陽葵も来ていた。


 順番は陽葵が先だった。

 志乃が来たとき、陽葵はすでに本を開いていた。

 速いリズムで読んでいた。

 志乃が椅子を引く音に、顔を上げた。


「志乃」と陽葵は言った。もう、さんは付いてなかった。

「来た」と志乃は言った。

「来たね」と陽葵は言った。


 それだけだった。二人は読んだ。


 漣が来たのは、それから三十分ほどしてからだった。


 引き戸が枠の端まで開ききった。

 足音が入ってきた。

 漣は一つ手前のテーブルに向かった。

 椅子を引いた。


 陽葵が顔を上げた。


 漣に気づいた。

 漣も陽葵に気づいた。


「あ」と陽葵は言った。

「久しぶり」と漣は言った。

「久しぶりですね」と陽葵は言った。「最近来てなかったですよね」

「まあ」と漣は言った。椅子に座った。鞄からシャープペンシルを出した。


 陽葵が志乃の方向を見た。


「二人って、よく一緒にいるんですか」

「一緒にはいない」と志乃は言った。「同じ場所にいる」


 陽葵は少し考えた。「そうか」と言った。


 漣がシャープペンシルでテーブルを一度叩いた。

 ノートを開いた。


 三人は、それぞれのことをした。


 志乃は六十八ページを読んだ。

 陽葵は本を読んだ。

 漣はノートに書いた。

 ページをめくる音と、シャープペンシルの紙をはしる音が重なった。


 二十分ほど経ってから、陽葵がページをめくる音が止まった。


 志乃は読んでいた。


 陽葵が本を閉じた。

 その音がした。

 栞を挟まなかった。


 志乃は六十八ページを読んでいた。


 陽葵が立ち上がった。

 椅子を引いた。

 静かな引き方だった。

 鞄を持った。


「帰ります」と陽葵は言った。


「また」と志乃は言った。


 陽葵が歩いた。

 ドアに向かった。


 漣が顔を上げた。

 陽葵の背中を見た。

 陽葵はドアの前で一度止まった。

 止まってから、ドアを開けた。


 閉まった。


 漣が志乃の方向を向いた。


「……早くない?」と漣は言った。


 志乃は読んでいた。


「三十ページくらいしか読んでなかったよ、今日」

「数えていたのか」

「なんとなく」と漣は言った。「いつもより全然少ない」


 志乃はページを一行読んだ。


「栞も挟まなかった」と志乃は言った。


 漣が少しの間、黙った。


「……気づいてたの」

「見えた」と志乃は言った。

「それって」と漣は言った。「なんか、あった?」


 志乃は読んだ。

 六十八ページの残りを読んだ。

 六十九ページをめくった。


「わからない」と志乃は言った。


 漣はシャープペンシルでテーブルを叩いた。

 今日は二回目だった。


「聞かないの?」

「聞く理由がない」

「理由がなくても聞くじゃん、普通」と漣は言った。

「普通かどうかは知らない」と志乃は言った。


 漣は何も言わなかった。


 窓の外の光が、今日も高い位置にあった。

 松林の緑が光を弾いていた。


「俺は」と漣は言った。「気になる」

「なら漣が聞けばいい」と志乃は言った。


 漣は少しの間、窓の外を見た。

 それからノートに目を戻した。

 シャープペンシルがふたたび、紙の上を走った。


 志乃は六十九ページを読んだ。


 右手の指が、ページを押さえた。

 紙の繊維が逃げる程度の力だった。


 ただし今日は、その力が一度だけ強くなった。

 一秒か、二秒。

 それから戻った。

 志乃は「気づかない人」ではありません。

 ただ、自分から踏み込まないだけです。

 それでも指先は、ときどき先に反応してしまいます。

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