第5話 光の種類
人は、安心している場所では少しだけ喋る。
陽葵が図書室で話す言葉は、たぶん学校のどこより素直です。
志乃はまだ、そのことに気づいていません。
陽葵は、毎日来るようになった。
毎日ではなかった。
毎日来るようになった、というのは正確ではなかった。
ただ、来ない日が来る日より少なくなった。
志乃はそれを数えたことはなかった。
ある日気づいたら、そうなっていた。
引き戸が途中で止まる音がすると、かかとの足音が続いた。
昨日と同じ椅子。端を揃えた二冊の本。
丁寧な引き方。
それが、図書室の放課後の一部になった。
今日も陽葵は来た。
椅子を引いた。
本を置いた。
そして開いた。
「今日ね」と陽葵は言った。本を開いたまま言った。
志乃は六十一ページを読んでいた。
「クラスでリレーの選手決めがあって」
志乃は読んでいた。
「私、足速くないのに、なんか推薦されちゃって」
「断ればいい」と志乃は言った。
「でも雰囲気的に断れなくて」と陽葵は言った。「だから引き受けたんですけど」
「それで」
「走ったら、思ったより速かった」
「なら問題ない」と志乃は言った。
「そうなんですけど」陽葵はページをめくった。「でもなんか、断れなかったのが引っかかるというか」
志乃はページを一行読んだ。
「引き受けて、うまくいったなら」と志乃は言った。「引っかかる場所はない」
陽葵は少し黙った。
「……そうですね」と陽葵は言った。声に笑いがあった。「志乃って、話すの楽だな」
「楽とはどういうこと?」
「余計なこと言わないから」
志乃は読んだ。
「余計なこととはどういうこと」
「気を遣うこととか」と陽葵は言った。「大変だったねとか、頑張ったねとか」
「事実でないことは言わない」
「そういうとこ」と陽葵は言った。「楽なんです」
ページをめくる音がした。
陽葵のリズムだった。志乃より速い。
しばらく、二人とも読み続けた。
廊下から複数の足音が来た。
笑い声が混じっていた。
図書室のドアの前を通り過ぎた。
ドアは開かなかった。
足音は遠ざかった。
陽葵が顔を上げた。
廊下の方向を、一秒だけ見た。
それから本に戻った。
志乃は読んでいた。
「ここって」と陽葵は言った。「静かですよね」
「図書室だから」と志乃は言った。
「うん」と陽葵は言った。「そうじゃなくて」
続きが来なかった。
「そうじゃなく?」と会話の先を志乃は促すよう言った。
「なんでもないです」と陽葵は言った。声に笑いがあった。さっきと同じ笑いだった。同じ、だった。
ページをめくった。また速いリズムで読み始めた。
志乃は六十二ページをめくった。
窓の外に、今日の光があった。
夏に近い季節の光だった。
松林の緑が、光を弾いていた。
書棚の上の橙はまだ来ていなかった。
光がまだ高い位置にあった。
陽葵の横顔が、その光の中にあった。
本を読んでいた。
速いリズムで読んでいた。
口元が、ほんの少し上がっていた。
笑っていた。
笑いながら読んでいた。
志乃は六十二ページを読んだ。
陽葵の横顔は視界の端に入ったまま、焦点には入らなかった。
入れなかった、わけではなかった。
入れなかった。
右手の指が、紙の繊維が逃げる程度の力で、ページを押さえていた。
静かな場所には、静かな変化があります。
毎日ではないけれど、来る日が増えていく。
それだけで、人はもう誰かの日常になっています。




