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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第3章 濁流の予感(挫折と再選択)

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第9話 湿度の変化

 十月の光は、夏より静かで、少しだけ低い。

 図書室に差し込む斜光の中で、陽葵の「大丈夫」は、どこか形を間違えていた。

 志乃はそれを見て、見ないまま、本を読む。

 読まなかった一行より、指先の白さのほうが、今日は長く残った。

 十月の図書室は、夏と違う光を持っていた。


 窓から差し込む午後の日差しは角度が低く、

 書棚の背表紙の上半分だけを橙に焼いた。

 下半分には早くも影が落ちている。

 志乃はその境界線を気にしたことはなかったが、今日は気づいた。

 光がここまで後退したのかと、ただそれだけを思った。


 ページをめくる。九十三。


 『銀河鉄道の夜』の文字列を目が走る。


 廊下から足音が近づいてくる。

 均等ではない。

 右足と左足の間隔がわずかにずれ、ゴムの靴底が一度、

 踏み込むように強く床を押した。

 志乃は視線を上げなかった。

 ドアが開く——光が縦に割れ、すぐに戻った。


 入ってきたのは陽葵だった。


「あ、志乃。いた」


 声は明るかった。

 声だけが。


 廊下の向こうから、別の誰かの笑い声が聞こえていた。

 陽葵はそちらを振り返らず、ドアを閉めた。

 静かすぎる力加減だった。

 普段の陽葵なら音を立てて閉めるはずの扉が、申し訳のように枠に収まった。


 志乃は九十三ページに目を戻した。


 陽葵の笑顔は確かに成立していた。

 口角は上がっていた。

 だが頬骨の下の筋肉が、数ミリ、余分に仕事をしていた。

 頬の丸みが、こめかみの方向にわずかに引っ張られていた。

 志乃はそれを、陽葵が自分の方を向いている一秒のあいだに認識し、

 そして視線を落とした。


 右手の人差し指が紙の上で止まっている。


 陽葵は窓際には来なかった。

 奥の書架の前で立ち止まり、背表紙を指先でなぞる。

 一冊、

 また一冊。

 引き出すわけでも戻すわけでもなく、ただ触れていく。


「ねえ」


 声が出た。

 続かなかった。


 志乃は答えなかった。

 問いではなかったから。


 三秒か、四秒。

 陽葵の指先が書架の上で動きを止めた。


 同じ背表紙を押す。

 引く。

 また押す。


 ほんの数ミリの往復が、静かな室内でかすかな紙の音を立てた。


 窓の外で、松の枝が一度だけ揺れた。

 風は続かなかった。


「.....何でもない」


 陽葵は棚から一冊を抜いた。

 タイトルを確認しなかった。

 胸に抱えて、志乃のいる方向に数歩歩く。

 そこで止まった。五歩か六歩の距離。

 テーブルには近づかなかった。


 秋の斜光が、陽葵の制服の白を照らしていた。


 影は後ろ側にあった。

 陽葵の影が、書棚の方向に長く伸びていた。


 志乃の右手の人差し指が、ページの上で一ミリだけ動いた。

 紙の繊維を横切る方向に。

 それから止まった。


「……貸出カード、どこにあるか知ってる?」

「カウンターにある」と志乃は言った。

「そっか」


 声は先ほどより低かった。

 陽葵は数秒、その場に立っていた。

 志乃は顔を上げなかった。

 顔を上げる理由がなかった。


 陽葵の足音が遠ざかった。

 カウンターに向かい、何か短いやりとりがあり、

 それから図書室のドアが開いた。

 今度は普通の力だった。

 廊下の騒音が一瞬だけ流れ込み、遮断された。


 志乃は九十三ページを、もう一度、一行目から読んだ。


 二回目で意味が通った。


 右手の人差し指は、爪の付け根のあたりが、まだわずかに白かった。

 志乃はそれを見てから、ページに戻った。


 窓の外の光が、また少し傾いた。

 この話では、「気づくこと」と「踏み込むこと」が別物である距離を書いています。

 志乃は感情に鈍いのではなく、むしろ細部を見すぎる人です。

 だからこそ、動けない。

 秋の光が長く影を伸ばすように、まだ言葉にならないものだけが、静かに残っていきます。

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