第10話 それだけだ
「ここにいればいい」——その言葉は、慰めではなく、志乃にとっては事実だった。
けれど事実だけでは、人は救われないことがある。
秋の図書室で、陽葵は何かを求め、漣は何かに気づき、志乃だけが静かにページをめくっている。
その指先だけが、今日も少し白かった。
数日後、志乃は九十六ページにいた。
漣が隣のテーブルに座ったのは、志乃が来室してから十五分後だった。
椅子を引く音が一つ。
本を広げる音が一つ。
それからは何も音がなかった。
漣は制服の第一ボタンを外したまま、開いたページには目をやらず、
窓の外の松林を見ていた。
志乃は読んでいた。
陽葵が入ってきたのは、それから二十分後だった。
足音のリズムは三日前と同じだった——均等でない。
ただし今日は、強く踏む足が左だった。
ドアは普通の力で閉まった。
漣の視線が、一度だけ動いた。
陽葵は書架に向かわなかった。
まっすぐに、志乃のいるテーブルに歩いてきた。
一つ間を空けた椅子を引き、座った。
椅子の足が床を引っかく音が、室内に広がった。
志乃は九十六ページを見ていた。
陽葵はテーブルの上に両手を置いた。
揃えるでもなく、広げるでもなく、ただ置いた。
左手の薬指の爪に、小さな欠けがあった。
三日前にはなかったかもしれない。
志乃には確認する手段がなかった。
しばらく、誰も話さず会話はなかった。
漣が、ゆっくりと志乃の方向を向いた。
何も言わなかった。
ただ顔を向けていた。二秒か、三秒。
それから窓の外に戻した。
「ごめん」と陽葵は言った。「ここ、座ってよかった?」
「図書室の椅子はみんなのものだわ」と志乃は言った。
陽葵は「そうだよね」と言った。
声に笑いの輪郭だけがあった。中身はなかった。
静寂。
陽葵の右手が動いた。
テーブルの上で、指先が木の表面を少しなぞる。
書架でやっていたのと同じ動きだった——引き出すでも戻すでもない、
ただ触れていく。
押す。
引く。
押す。
木目の上で、繰り返した。
「志乃は」と陽葵は言った。「委員会のこと、どう思う」
問いの形をしていなかった。志乃はそう判断した。
「委員会?」
「青凪祭の。私、実行委員長なんだけど」
志乃はそれを知っていた。
学校の誰もが知っていた。
陽葵が立候補した日、クラスは当然のように拍手した。
その拍手の中で、志乃だけが本のページに目を落としていたことを、
陽葵は知らない。
「それで?」と志乃は言い、先を促した。
「それで、ね」
陽葵の手が止まった。
テーブルの上の両手が、ほんの少しだけ内側に引き寄せられた。
指先が白くなるほどではない。
引き寄せられた、それだけだった。
「何でも自分でやれると思ってた。でもそうじゃないって、最近わかってきた」
窓の外で、松の枝が揺れた。
今日は続いた。
三秒か、四秒、揺れてから止まった。
志乃はページをめくった。
九十七。
陽葵の呼吸が一回、長く深くなった。
志乃の背後にある書棚を見ているようだったが、
視線は固定されていて、何かを読んでいるわけではなかった。
「……漣くんて」と陽葵は言った。「なんでいつも、志乃の近くにいるの」
漣は答えなかった。
陽葵が漣に向かって言ったわけでもなかった。
「こういう人のそばにいると、なんか落ち着くっていうか」
「落ち着くなら」と志乃は言った。「ここにいればいい」
陽葵が静止した。
志乃はページの上の一行を読んだ。
意味が通った。
「……それだけ?」
「それだけだ」
テーブルの向こうで、陽葵の指先がテーブルから離れた。
手が膝の上に下りた。椅子の背にもたれる気配がした。
漣がまた志乃の方向を向いた。
今度は長かった。
五秒か、六秒。
志乃は読んでいた。
「……志乃って」と漣は言った。最後まで続かなかった。
「なに」
「なんでもない」
じゃあ、と漣は言った。
椅子が引かれた。
漣は陽葵の近くを通るとき、一度だけ立ち止まった。
声には出なかった。
あるいは志乃の聞こえる距離ではなかった。
それから図書室を出た。
陽葵は長い間、座っていた。
志乃は読んでいた。九十八。九十九。
窓の外の光が、また傾いた。
書棚の橙が薄れ、影の境界線がテーブルの端まで届いた。
陽葵の両手が、その影の中に入った。
陽葵が立ち上がった。
椅子を引く音。
足音が遠ざかる。
ドアが開く。
「ありがとう」
ドアが閉まった。
志乃は百ページを読んだ。
右手の人差し指は、爪の下が白くなっていた。
気づいたのは、廊下から複数の足音が聞こえて、それが遠ざかってからだった。
力を緩めると、指先に血が戻った。
紙の表面に、指紋の形の浅い跡が残っていた。
志乃はページを一枚めくり、それを平らにした。
一度だけ、窓の外を見た。
松林の上に、今日の最後の光があった。
志乃はそれを見てから、百一ページに目を戻した。
今回は、三人の距離感がもっとも静かに揺れた回です。
陽葵は「答え」ではなく、「届く反応」を探している。
漣はそれを理解していて、志乃は理解しながら別の場所に立っている。
だから会話は成立しているのに、少しずつ噛み合わない。そのズレを書いていました。




