第11話 ページを、めくる
図書室の外で起きていることを、志乃はずっと「廊下のこと」として扱ってきた。
けれど境界線は、気づかないうちに少しずつ滲んでいく。
ページをめくる指先は止まらない。
それでも今日は、その白さだけが、いつもより長く残っていた。
その日の図書室には、漣がいなかった。
百一ページ。
志乃は読んでいた。
廊下の方から声が聞こえたのは、放課後の鐘が鳴って十二分後のことだった。
複数の声が、一つの方向に向かって圧を持つ音だった。
志乃は顔を上げなかった。
廊下は廊下だった。
声が止んだ。
それから、一人分の足音が近づいてきた。
ドアが開かなかった。
廊下に立ち止まったまま、誰かがいた。
ドアの磨りガラス越しに、影が見えた。
人の輪郭の影が、磨りガラスの曇りの中に一枚だけあった。
陽葵だ、と志乃は思った。
根拠はなかった。ただそう思った。
影は動かなかった。
まるで、扉の向こうの気配を探るように。
志乃は百一ページの一行目に目を戻した。
文字が並んでいた。
意味には変換されなかった。
三十秒。
あるいは一分。
廊下の方向から、また複数の足音が来た。
一組か、二組か。
近づいて止まった。
何かが言われた——言葉の輪郭だけが届き、中身は届かなかった。
磨りガラスに、影が増えた。
志乃の右手の人差し指が、ページの端で止まった。
ドアは開かなかった。
廊下の声は続いていた。
上昇する声と、下降する声があった。
上昇するのは二つ、下降するのは一つだった。
その一つが、次第に音量を失っていった。
失っていくにしたがって、残りの二つは止まらなかった。
志乃はそれでも、立ち上がらなかった。
立ち上がる理由を、ひとつひとつ確認した。
廊下のことは廊下の問題だった。
図書室の椅子は志乃のものではなかったが、
この椅子に座っている志乃とその周囲の世界は志乃のものだった。
陽葵のことを知っていた。
陽葵の委員会のことも知っていた。
それでも、それは廊下のことだった。
私の世界ではなかった。
右手の指が、爪の付け根まで白くなった。
志乃はそれを見た。
見てから、ページをめくった。
百二。
廊下の声が、突然止んだ。
静寂があった。
磨りガラスの影が一枚になり、それも動いた。
遠ざかった。
足音が二組、それに合わせるよう同じ方向に消えた。
それから長い沈黙があった。
廊下にはもう何もなかった。
志乃には見えなかったが、そう判断した。
磨りガラスに何も映っていなかった。
百二ページを読んだ。
一行目から最後まで読んだ。
意味が通った。
窓の外で、松の枝が揺れた。
今日は長く揺れた。
揺れながら、途中で止まり、また揺れた。
志乃は百三ページをめくった。
右手の指は、まだ白かった。
力を緩めなかった。
緩めることを、しなかった。
緩めなかったのは、緩めることを思いついたからだった。
思いついて、しなかった。
そういうことだ、と志乃は思った。
比較的静かな考えだった。
嵐のような何かではなかった。
松林の向こうの水平線の気配のように、
そこにあるとわかっているが目には映らない、
そういう種類の確認だった。
百三ページを読んだ。
日が傾いた。
橙が書棚の上半分から、やがて上四分の一だけになった。
志乃はようやく本を閉じた。
栞を挟んだ。
表紙に手を置いた。
力を込めなかった。
椅子を引いた。
図書室を出た。
もう廊下には誰もいなかった。
窓から入る光が廊下を横断していて、その中に埃が浮かんでいた。
志乃は光の中を歩いた。
埃は散り、また定位置に舞い戻った。
階段を降りた。
一階の廊下に、陽葵の背中があった。
委員会の部屋のドアの前に立っていた。
ドアには手をかけていなかった。
背中は、ドアを開ける前の形をしていた。
志乃の足音は変わらなかった。
速くならず、遅くならず、廊下を抜けた。
陽葵が振り返らなかった。
振り返らないまま、陽葵は言った。
「……志乃」
「ここを右に曲がれば出口だ」と志乃は言った。
一秒ほどの間があった。
「知ってる」
「なら」
それだけだった。
志乃は右に曲がった。
出口に向かった。
校舎の外に出ると、潮の混じった風が、前から来た。
志乃は目を細めなかった。
細めないまま、歩いた。
松林の細道を選んだ。
海沿いの道は選ばなかった。
理由はなかった。
ただそちらに足が向いた。
松の幹の間から、光の残りが縞模様に地面を分けていた。
志乃はその縞の上を歩いた。
光の中も、
影の中も、
同じ速度で歩いた。
やがて松林が終わった。
志乃は一度だけ振り返った。
校舎はもう見えなかった。
松林の奥に、光の角度だけが残っていた。
それを見てから、前を向いた。
歩き続けた。
今回は、「動かなかった」という行為の話です。
志乃は無関心ではない。ただ、自分がどこまで踏み込むべきかを、極端なほど厳密に分けている。
だからこそ、最後に松林の道を選んだことが、小さくても確かな変化になります。
本人だけが、まだそれを変化と認めていません。




