第12話 冷たいね
誰かの痛みに気づくことと、そこへ踏み込むことは、同じではない。
志乃はずっと、その境界線を正確に守ってきた。
けれど今回は、漣がその線の外側から問いかけてくる。
「それだけ?」という言葉の重さを、朝の光だけが静かに照らしていた。
翌朝、漣が来た。
図書室ではなかった。
校舎の裏、体育館の外壁に沿った細い通路だった。
志乃がそこを通るのは月曜の朝だけだった。
漣がそれを知っているはずはなかった。
知らなかったとしたら、ただそこにいただけだった。
漣は外壁に背をもたせかけ、腕を組んでいた。
第一ボタンは外れていた。視線は通路の先の方向——
志乃が来た方向ではなく、志乃が行く方向——に向いていた。
志乃は歩いた。
「昨日」と漣は言った。視線を動かさなかった。
志乃は歩いた。
漣の横を通り過ぎる三歩手前で、止まった。
止まる理由はなかった。
でも立ち止まった。
「見てたよね」
「廊下のことは聞こえた」と志乃は言った。
「見てたんでしょ、陽葵のこと」
「一階で背中を見た」
漣が、初めて志乃の方向を向いた。正面ではなかった。
斜め、外壁から頭を少し起こした角度だった。
「それで何も言わなかったの?」
「出口の場所を教えた」
沈黙があった。
漣の腕が、組んだまま少しだけ締まった。
袖が、肘のあたりで引っ張られた。
「......冷たいね」
言葉は静かだった。
責める声音ではなかった。
どちらかというと確認していた——そういう人なんだという確認を、
声に出していた。
志乃は答えなかった。
冷たい、という言葉を口の中で確かめた。
声には出さなかった。確かめた結果をどこかに置いた。
どこに置いたかは、志乃にもわからなかった。
「助けてあげればよかったじゃん」
「陽葵が助けを求めたの?」
漣は答えなかった。
「求めていないものを差し出すのは」と志乃は言った。「私の仕事ではない」
「でも気づいてたんだろ? ずっと前から」
「気づいていたわ」
「それで何もしないのかよ」
「したわ」
漣の眉が、ほんの少し動いた。
「ここにいればいい、と言った。それだけだ、と言った。出口はそこだ、と言った」
「それは」と漣は言いかけた。
「それだけ、よ」と志乃は言った。
通路の奥から、風が来た。
体育館の外壁に当たって、乱れた。
漣の前髪が一度だけ持ち上がり、落ちた。
志乃の髪は、毛先が数ミリ揺れた。
漣がまた外壁に頭を戻した。天井の方向を見た。
「俺も気づいてた」と漣は言った。「でも何も言わなかった」
志乃は聞いていた。
「志乃が何かするかと思って、待ってた。だから何もしなかった」
「それなら......漣が動けばよかった」
「そうだね」
声に怒りはなかった。自分への確認だった。
しばらく、二人とも何nも言わなかった。
通路の先に朝の光が差していて、その手前に漣と志乃がいた。
光の中には入っていなかった。
「陽葵は」と志乃は言った。
「今日、来てるよ。普通に」
「なら」
「うん」と漣は言った。「なんかごめん」
「何が?」
「ああっ、もう、わからん」
漣は外壁から体を起こした。
制服の背中についた壁の白い粉を、手の甲で払った。
一度では取れなかった。もう一度払った。
「志乃って」と漣は言った。歩き出しながらだった。
志乃は待った。
「ずっとそうなの?」
「そうとは、どういうこと?」
漣は答えなかった。通路の先、光の中に入っていった。
前髪が光で白く飛んだ。振り返らなかった。
志乃は通路に残った。
外壁に手をつかなかった。
漣がもたれていた場所に、白い粉が薄く残っていた。
志乃はそれを見た。見てから、歩いた。
光の中に入った。
眩しかった。
目を細めなかった。
細めないまま、歩いた。
光の中を、通り抜けた。
この場面は、漣が初めて「志乃の在り方」に触れた回です。
陽葵の問題を巡って話しているようで、実際には二人とも、自分自身の不器用さを確認している。
志乃は変わっていない。けれど、「止まる理由はなかった。でも立ち止まった」という一文だけが、
確実に以前と違っています。




