第13話 岸の形
三日前から少しだけ変わった距離を、二人はまだ言葉にできていない。
だから漣は問い続け、志乃は同じ答えを返す。
変わらないように見える会話の中で、少しずつ輪郭だけが更新されていく。
十月の光は、その変化を静かに浮かび上がらせていた。
三日後、漣が図書室に来た。
引き戸が枠の端まで開ききった。足音が入ってきた。
志乃は八十九ページを読んでいた。
足音が、一つ手前のテーブルを通り過ぎた。
志乃は顔を上げなかった。
椅子を引く音がした。
志乃のテーブルより一つ奥のテーブルだった。
志乃のテーブルと、漣のテーブルの間に、空のテーブルが一つあった。
これまでより、遠かった。
漣は座った。
鞄を置いた。
シャープペンシルを出した。
ノートを開いた。
志乃は八十九ページを読んだ。
「なあ」と漣は言った。
「なに」
「あの日のこと、怒ってる?」
「どの日?」
「体育館裏......」
志乃はページを一行読んだ。
「怒って、 はいない」と志乃は言った。
「……そう」と漣は言った。
シャープペンシルがノートの上を走る音が聞こえる。
志乃は読んだ。
八十九ページを読み終えた。
九十ページをめくった。
「志乃って」と漣は言った。
「なに?」
「怒ることある?」
「あるわ」と志乃は言った。
「どんなとき?」
「嘘をつかれたとき」と志乃は言った。「必要のない嘘を」
漣は少しの間、何も言わなかった。
「俺、あのとき嘘ついた?」
「言っていないことと、嘘は違う」と志乃は言った。
漣がシャープペンシルでテーブルを叩いた。一回だった。
「……ずっとそうなの、って聞いたじゃん」と漣は言った。
「聞いた」
「答えてくれなかった」
「そうとはどういうことかを聞いた」と志乃は言った。「漣が答えなかった」
沈黙があった。
窓の外の光は、十月の角度になっていた。
夏の高い位置ではなかった。
少し低くなっていた。
松林の緑が、黄みを帯び始めていた。
「ずっとそう、ってのは」と漣は言った。「動かないってこと」
志乃はページを読んだ。
「陽葵のことも、俺のことも、なんか困ってそうでも、動かないじゃん。志乃って」
「動く理由がないから動かない」と志乃は言った。
「それって」と漣は言った。「冷たいのとは違う?」
「体育館裏で聞いたことを、また聞いているの?」
漣は答えなかった。
「同じことを聞いているなら」と志乃は言った。「答えは変わらない。動く理由がなければ動かない。それだけだ」
しばらく、何もなかった。
シャープペンシルが紙の上を走った。止まった。また走った。
「……それって」と漣は 言った。「逆に言うと、動く理由があれば動くってこと?」
志乃は九十ページを読んだ。
「そうよ」と志乃は言った。
「じゃあ俺が困ったら」
「漣が来ればいい」と志乃は言った。「ここに来て、座ればいい」
漣は何も言わなかった。
志乃は読んだ。
九十一ページをめくった。
漣がまた何か書いた。
今度は長く書いた。
シャープペンシルが止まらなかった。
日が傾いた。
光の角度がまた少し変わった。
書棚の橙が来た。
上半分だけが光り、下半分は影だった。
「じゃあ」と漣は言った。椅子を引いた。「また」
「また」と志乃は応えた。
足音が遠ざかった。
ドアが開いた。
閉まった。
志乃は九十一ページを読んだ。
右手の指が、ページを押さえていた。
紙の繊維が逃げる程度の力だった。
窓の外の松林が、ゆっくりと揺れた。
黄みを帯びた緑が、光の中で動いた。
今回は、「動かない」という志乃の原則が、初めて“拒絶”ではなく“条件”として語られた回です。
「来ればいい」という言葉は、とても不器用な受容でもあります。
漣はその意味を完全には理解していない。
でも以前より少しだけ、志乃の言葉を“待てる”ようになっています。




