第14話 岸に着く
人は、救われた瞬間よりも、救われたあとに変わる。
陽葵が図書室のドアの前で止まらなくなったことを、志乃は三度目か四度目で気づいた。
その変化を大げさには扱わない。
けれど静かな秋の光の中で、確かに何かが前より軽くなっている。
陽葵が、図書室のドアの前で止まることをしなくなった。
志乃が気づいたのは、三度目か四度目のことだった。
引き戸が途中で止まる。
かかとの足音が入ってくる。
それが陽葵の特徴だった。
ドアの前で止まることはなかった。
図書室の外で声がしても、
ドアの前で足音が止まっても、
それは別の人間だった。
陽葵は入るときは入った。
その陽葵が、ドアを開ける前に止まらなくなった。
止まっていたことに、志乃は気づいていた。
止まらなくなったことに、三度目か四度目で気づいた。
今日も陽葵は立ち止まらずに入ってきた。
引き戸が途中で止まった。
かかとの足音が、まっすぐ志乃のテーブルに来た。
椅子を引いた。
座った。
本を二冊、端を揃えて置いた。
「志乃」と陽葵は言った。
「来たのね」と志乃は言った。
「来ました」と陽葵は言った。声に笑いがあった。
本を開いた。速いリズムで読み始めた。
志乃は九十三ページを読んでいた。
しばらくして、陽葵がページをめくる音が止まった。
「あのさ」と陽葵は言った。
「なに?」
「委員会のこと、覚えてますか」
「覚えている」と志乃は言った。
「あのとき、志乃が来てくれて」と陽葵は言った。「助かったっていうか」
「何もしていない」と志乃は言った。
「したじゃないですか」と陽葵は言った。「椅子引いて、座って」
「それだけよ」
「それだけで、よかったんです」と陽葵は言った。
志乃はページを一行読んだ。
「紙コップが冷めてた」と志乃は言った。
「うん」と陽葵は言った。笑いのある声だった。「そうでしたね」
ページをめくった。また速いリズムになった。
窓の外の光は、今日も十月の角度だった。
松林の黄みが、先週より濃くなっていた。
書棚の橙が、昨日より早い時間に来ていた。
「志乃って」と陽葵は言った。
「なに」
「なんで来てくれたんですか、あのとき」
志乃は九十三ページを読んだ。
「陽葵が来いと言った気がした」と志乃は言った。
「それだけですか」
「それだけ」
陽葵は少しの間、黙った。
「……それって」と陽葵は言った。「理由になってるんですよね、ちゃんと」
「なっている」と志乃は言った。
陽葵がまたページをめくった。
速いリズムだった。
ただし今日のリズムは、いつもより少し遅かった。
意識的に遅くしているのか、
自然に遅くなっているのか、
志乃には判断できなかった。
判断する必要もなかった。
「……ここ」と陽葵は言った。「来るの、好きだな」
「なら、来ればいい」と志乃は言った。
「うん。そうする」と陽葵は言った。
それだけだった。
二人はページをめくった。
それぞれのリズムで、それぞれの本を読んだ。
陽葵のリズムは、少し遅いままだった。
日が傾いた。
書棚の橙が薄れた。
影の境界線がテーブルの端まで来た。
陽葵の両手が、テーブルの上にあった。
本を開いていた。
木目の上で、何もしていなかった。
押す。引く。の動きはなかった。
ただ、置いていた。
志乃はそれを、視界の端で確認した。
確認してから、九十四ページをめくった。
右手の指が、ページを押さえた。
紙の繊維が逃げる程度の力だった。
窓の外で、松林がゆっくり揺れた。
黄みを帯びた葉が、光の中で散らばるように動いた。
今回は、「何もしない」と「そこにいる」の違いを書いた回でした。
志乃にとって“理由”はとても小さなもので成立します。
けれどその小ささが、陽葵には救いとして届いている。
木目の上で止まっていた指先が動かなかったことが、その変化の答えでした。




