第3話 別の温度
静かな図書室で、志乃は今日も本を読んでいる。
けれど、その静寂は少しずつ形を変え始めていた。
誰かと同じ空間にいることは、案外、悪くないのかもしれない。
漣が来なかった日があった。
図書室は静かだった。
志乃は四十七ページにいた。
漣がいないことを確認したのは入室した直後の一度だけで、
それ以降は確認しなかった。
椅子を引いて、座った。
そしていつもの文庫本を開いた。
四十七ページを読んだ。
ドアが開いた。
今度の開き方は違った。
引き戸が途中で止まった。
枠の端までは開ききらなかった。
半分か、三分の二か。
そこで止まり、人が入り、そのまま閉まった。
足音が入ってきた。
速かった。かかとが床を叩く音がした。
つま先の方向ではなく、かかとに重心がある歩き方だった。
志乃のテーブルの方向には来なかった。
書架の方向に向かった。
背表紙をなぞる音がした。
志乃は読んでいた。
「あの」
声がした。
志乃はページを読んだ。
「あの、すみません」
志乃は顔を上げた。
女子生徒が立っていた。
書架の前ではなかった。
志乃のテーブルから二歩ほどの距離だった。
制服のリボンが、少し曲がっていた。
右に寄っていた。
「ここの、図書委員の人ですか」
「違う」と志乃は言った。
「あ、そうですか。えと、この本の続き、あるかどうかって聞きたくて」
女子生徒は本を一冊持っていた。表紙を志乃に向けた。
志乃はその表紙を見た。
「カウンターで聞けば」と志乃は言った。
「あ、カウンター——」女子生徒は振り返った。「あ、あそこか。すみません、ありがとうございます」
足音が遠ざかった。カウンターの方向へ。
志乃はページに目を戻した。
四十七ページの、どこまで読んでいたかを確認した。
三分の一あたりだった。
一行目からではなく、そこから読んだ。
意味が通った。
カウンターで短いやりとりがあった。
足音がまた近づいてきた。
「あの」
志乃は読んでいた。
「先ほどは、ありがとうございました」
「別に」と志乃は言った。
「あ、えと」足音が止まった。止まってから、もう少し近づいた。「隣、座ってもいいですか」
志乃は顔を上げた。
女子生徒は志乃のテーブルの、一つ隣の椅子の前に立っていた。
本を二冊持っていた。
さっきの本と、カウンターで借りたらしい本だった。
「図書室の椅子はみんなのものだ」と志乃は言った。
「あ、でも、邪魔だったら」
「邪魔なら言う」
女子生徒は椅子を引いた。
静かな引き方だった。
そして腰掛ける。
本を二冊、テーブルの上に丁寧に並べた。
表紙を上にして、端を揃えた。
栞を挟んだ方を開いた。
しばらく、何もなかった。
志乃は読んでいた。
女子生徒も読んでいた。
ページをめくる音がした。
志乃とは別のリズムだった。
志乃より速かった。
「……静かですね、ここ」と女子生徒は言った。
志乃は読んでいた。
「図書室だから」と志乃は言った。
「そうですよね」と女子生徒は言った。声に笑いがあった。
また静寂が来た。
ページをめくる音が続いた。
日が傾いた。
光が書棚の端まで届いた。
「あの」と女子生徒は言った。「毎日ここにいるんですか」
「来る日は来るわ」と志乃は言った。
少しの間があった。
「私も、また来てもいいですか」
「図書室はみんなのものだわ」と志乃は言った。
「……そうですね」
女子生徒はまたページを読んだ。
速いリズムで読んだ。
志乃は四十九ページをめくった。
右手の指が、ページを押さえた。白くなるほどではなかった。紙の繊維が逃げる程度の力だった。
窓の外の松林が、二度揺れた。
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*第一章第三節 了*
小さな会話と沈黙だけで進む章でした。
それでも、ページを押さえる指の力は確かに変わっています。
志乃の世界が、ほんの少しだけ広がり始めました。




