第2話 距離の測り方
静まり返った図書室で、ページをめくる音だけが世界を形作っていた。
そこへ踏み込んできたのは、規則正しい足音と、予測できない熱い気配。
これは、インクの海に沈む少女と、その水面を揺らす少年の、静かな距離の記録。
翌日も、漣は図書室を訪れた。
ドアの開き方は同じだった。
勢いがあった。
枠の端まで開ききった。
足音が入ってきた。
凪いでいた思考の端に、規則正しい足音が波紋を立てて広がった。
昨日と同じリズムだ。重心が前にある、つま先寄りの歩き方。
その音が自分のテーブルに向かってくるという予測を立てた瞬間、
文字の連なりがただの黒い染みへと戻り、物語の輪郭が遠ざかる。
代わりに、現実の空気の重さと、近づく足音の振動が肌を震わせた
足音が止まった。
昨日より遠かった。
志乃は四十一ページを読んでいた。
目は上げなかった。
凪いでいた思考の端に、規則正しい足音が波紋を立てて広がった。
昨日と同じリズムだ。重心が前にある、つま先寄りの歩き方。
志乃の意識は深く沈んでいたインクの海から急速に引き剥がされていった。
足音の止まった位置を、耳で測る。
テーブル一つ分、手前だった。
椅子が引かれた。
座る気配がした。
鞄がテーブルに置かれた。
今日は一つの音だった。
鞄を開けて、閉じる。
シャープペンシルだけを取り出した。
ペンケースは出てこなかった。
志乃は読んでいた。
昨日より音が少なかった。
「……」
何かを言いかけた。
言わなかった。
シャープペンシルがノートを走った。
志乃は四十一ページの一行目から読んだ。
意味が通った。
二ページをめくった。
隣のテーブルからは、シャープペンシルの音だけがした。
それ以外の音はなかった。
漣は来るたびに何かを勉強しているのか、あるいは別の何かを書いているのか、
志乃には判断できなかった。判断する必要もなかった。
窓の外の松林が揺れた。
今日は続いた。
揺れが三秒ほど続いてから、止まった。
「なあ」と漣は言った。
志乃はページを読んだ。
「その本、面白い?」
志乃はページを読んだ。
一行読んだ。
もう一行読んだ。
「……聞こえてる?」
「聞こえている」と志乃は言った。
「面白い?」
「今日で三回目よ」と志乃は言った。
沈黙があった。
「え、三回目って」
「この本を読むのが」
また沈黙があった。
今度は少し長かった。
「なんで三回も読むの」
「一回目で全部は拾えないから」と志乃は言った。
シャープペンシルが止まった。
「……それ、毎回違うものが見つかるってこと?」
志乃は答えなかった。
答えではなかったからだ。
同じ問いを違う言葉で言い直しただけだった。
「同じものが、違う場所に見える」と志乃は言った。
漣は何も言わなかった。
シャープペンシルが動いた。
ノートの上ではなかった。
テーブルの上だった。
先端でテーブルを一度だけ叩いた。
考えるときの癖のような、そういう動きだった。
「それって」と漣は言った。「本じゃなくてもそう?」
「何が」
「見えるものが変わるやつ」
志乃はページを一行読んだ。
「変わるのは自分の方だ」と志乃は言った。「本は変わらない」
漣は何も言わなかった。
志乃は読んだ。
四十三ページをめくった。
四十四。
日が動いた。
光の角度が少し変わった。
書棚の橙が薄れた。
「じゃあ」と漣は言った。椅子が引かれた。鞄を持つ音がした。「また」
「また」と志乃は言った。
足音が遠ざかった。
ドアが開き閉じられる。
図書室に志乃だけになった。
波紋は消えた。
先ほどまでそこにあった熱い気配や、空気を震わせていた声の残響が、
急速に図書室の四隅へと吸い込まれていく。
志乃は、止めていた呼吸をゆっくりと吐き出した。
視線を落とすと、白い紙の上に並んだ黒い文字たちが、
再び意味を持って立ち上がり始める。
思考の端からじわりと、あのインクの海が戻ってきた。
冷たく、静かな黒い液体。
志乃はその水面に身を任せ、今度は抗わずに沈んでいく。
テーブルも、椅子も、自分を縛り付けていた図書室の輪郭も、
すべてが濃密な静寂の中に溶けて消えた。
志乃は四十四ページに目を戻した。
右手の指が、ページを押さえた。白くなるほどではなかった。
紙の繊維が逃げる程度の力だった。
そのまま、読みつづけた。
読み終えたとき、あなたの周りにも図書室の冷たい静寂が残っているでしょうか。
本は変わらなくても、それを読み終えたあなたの心には、きっと違う景色が見えているはずです。
二人の測りかねる距離の行方を、これからも共に見守っていただければ幸いです。




