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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
第1章 風の侵入、水面の揺らぎ

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2/3

第1話 ノイズ

 本作は、「静かな世界に、他者が入り込んでくる瞬間」を書こうとして始まった物語です。


 志乃にとって読書は趣味ではなく、外界から身を守るための隔壁です。

 ページを押さえる指先、紙の感触、活字の並び。その秩序の中にいる時だけ、彼女は世界との距離を一定に保てる。


 だからこそ、誰かが真正面に座ることは、小さな事件になる。

 椅子を引く音。シャープペンシルの転がる音。ノートに文字を書く音。

 他人にとっては取るに足らないそれらが、志乃には静寂を侵食する“現象”として届いてしまう。


 これは恋愛の始まりというより、まず「他人が存在してしまった」話です。

 その微細な揺れを、静かな図書室の空気ごと感じてもらえたら嬉しいです。

 志乃は三十七ページにいた。


 窓の外の松林は、今日は動いていなかった。

 光も動いていなかった。

 全てが止まっていた。

 志乃のいる窓際だけが、世界の中で最も静止している場所だった。


 右手の人差し指と中指がページを押さえていた。


 ドアが開いた。

 密閉されていた図書室の空気が、

 外廊下の湿った体温に押し出されるようにして入れ替わる。

 志乃の肌を撫でていた均一な沈黙は、

 その隙間から流れ込んだ無遠慮な風によって、あっけなく霧散した。


 勢いがあった。

 引き戸が枠の端まで開ききり、止まった。

 音が図書室の中に広がり、書棚の方で反響した。


 志乃は読んでいた。

 世界がどれほど無遠慮な音を立てようと、

 彼女の網膜が捉えるのは、インクの染みが形作る冷ややかな迷宮だけだ。

 視線が一行を滑るたび、外界の景色は白く飛び、

 彼女の意識は一滴の不純物も混じらない物語の深淵へと、

 真っ逆さまに落ちていく。


 足音が入ってきた。均等な足音だった。

 速くも遅くもなかった。

 ただし重心が前にあった。

 かかとより、つま先の方向に。


 その足音が、志乃のいるテーブルの前で止まった。


「ここ使っていい?」


 問いの形をしていなかった。

 語尾が下がっていた。

 確認ではなく、通告に近かった。


 志乃はページを読んだ。

 網膜を焼く白黒の羅列に、強引に意識を繋ぎ止める。

 投げかけられた言の葉の内容を理解するよりも早く、

 彼女は思考のシャッターを降ろし、外界の光を遮断した。

 指先が触れる紙の感触だけが、

 濁流のような他者の気配から彼女を守る唯一のいかりだった。


「いい?」


「図書室の椅子はみんなのものだわ」と志乃は言った。


 椅子が引かれた。真向かいの椅子だった。


 志乃は顔を上げた。

 インクの海から無理やり引き揚げられた意識が、眩い外界の光に晒される。

 深度を失った瞳が、数センチ前まであった活字の残像を振り払い、

 眼前に現れた異物の輪郭を捉えた。

 網膜に像が結ばれるのと同時に、

 彼女が心血を注いで築き上げた静寂のドームが、

 音を立てて崩れ去っていく。


 テーブルを挟んで、制服を着崩した男子生徒が座っていた。

 第一ボタンが外れていた。

 鞄をテーブルの上に置いた。

 鞄がテーブルに当たる音がした。

 それから鞄を開けた。

 中から教科書を取り出した。

 取り出してから、閉じた。また開けた。

 ノートを取り出した。ノートをテーブルに置いた。

 ペンケースを取り出した。ペンケースのファスナーを開けた。

 シャープペンシルを取り出した。


 その一連の音が、図書室に順番に積み重なった。


 志乃は顔を下げた。

 逃げ込むようにして、再び視界を数センチの距離まで絞り込む。

 他者の体温が混じった不純な空気を振り払い、

 冷徹な活字の檻の中へと、その意識を強引に捩じ込んだ。

 視界の端でうごめく異物の影を塗りつぶすためだけに、

 彼女はただ、紙の上の黒いシミを執拗に追いかけ始める。


 三十七ページに戻った。

 文字が並んでいた。

 一行目から読もうとした。


 けれども、網膜に映る活字は意味をなさず、

 ただ黒い記号の群れとして紙面を滑っていく。

 肺の奥まで侵食してきた他者の気配が、彼女の思考のピントを狂わせ、

 積み上げたはずの静寂の石垣が、指先から砂のように崩れ落ちていった。


 シャープペンシルがテーブルを転がった。


 音がした。

 細い、硬い音が、テーブルの上を転がり、端から落ちた。

 床に当たった。

 志乃のいる方向に転がってきた。

 椅子の脚に当たって、止まった。


 静寂があった。

 重苦しい空白だった。

 無遠慮に境界を侵して滑り込むその異物が、意識の端に棘を刺す。


「……あ」と男子生徒は言った。


 立ち上がる音がした。

 テーブルの端まで歩く足音がした。

 しゃがむ気配がした。


 志乃の椅子の脚の近くで、手が伸びてきた。


 シャープペンシルを拾った。


「ごめん」


「別に」と志乃は答える


 男子生徒が席に戻った。

 椅子が引かれた。座った。


 しばらく、何もなかった。


 志乃は三十七ページの一行目を読んだ。

 意味が通った。

 二行目を読んだ。

 

 続けて、三行目、四行目と視線を滑らせるたび、

 足元に刺さっていた棘の痛みが、遠く淡い残像へと退いていく。

 乱された水面はふたたび鏡面を取り戻し、彼女の意識は、

 ふたたび外界の音も光も届かないインクの深淵へと静かに再沈降していった。

 一語一語が血肉となり、一頁が重厚な防壁となる。

 外界は再び、色のない無音の背景へと薄れて溶けていく。


 ノートに何かを書く音がした。

 シャープペンシルが紙の上を走る音だった。

 それ自体は小さな音だった。

 ただ、止まっていた図書室には、その小ささが届いた。


 志乃は読んだ。

 インクの深淵に、規則的な振動が細い糸のように垂れてくる。

 紙を繰る乾いた摩擦音が、凪いでいた水面に小さな、

 けれど逃れられない波紋を広げていく。

 一文字書き進められるたびに、

 その音は志乃の耳元で容赦なく存在を広げ、

 せっかく薄れていた外界の輪郭が戻ってくる。


 書く音が止まった。


「ここ、毎日来てんの」


 志乃は読んでいた。

 無遠慮にかけられた声を、そのまま空気に溶かしながせるならと願うが、

 それを許さないその空気の震えを無視できず、あきらめた。


「……毎日?」


「来る日は来る」と志乃は言った。


「何読んでんの?」


「本を読んでいるの」


「それはわかるよ」


 志乃はページから目を上げなかった。

 視線を紙の波間に向け、インクの流れを目で追いかける。

 それがささやかな、けれど意固地な彼女の抵抗だった。


 沈黙があった。

 男子生徒が何か言いかけたが、言葉にならずに消えていく。

 またシャープペンシルがノートの上を走った。


 志乃は三十八ページをめくった。

 読み進めるたびに、ふたたび、世界から意識が隔絶され、

 インクの海に溶けていく。


 右手の指が、ページを押さえた。爪の下が白くなるほど押さえた。


 窓の外の松林が、一度だけ揺れた。

 この場面では、会話よりも「音」を意識して書いていました。


 引き戸が開く音。鞄を置く音。シャープペンシルが転がる音。

 志乃は他人との距離感を、言葉ではなく物理現象として受け取っています。だから彼女の世界では、些細な音ほど輪郭を持って侵入してくる。


 一方で、男子生徒は悪意なくそこに座っているだけです。

 彼にとっては自然な行動でも、志乃の側では静寂の構造そのものが崩されていく。その温度差が、このシーンの中心にあります。


 ただ、最後に志乃は三十八ページへ進めています。

 乱されながらも、完全には壊れなかった。

 窓の外の松林が最後に一度だけ揺れるのも、彼女の内側に生まれた、ごく小さな変化の反射なのかもしれません。


 静かな話ですが、誰かの記憶の中の図書室に、少しでも似た空気として残れたなら幸いです。

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