第24話 水平線の位置
距離は、ある日突然変わることがあります。
一つ奥のテーブルから、隣の椅子へ。
たったそれだけの移動なのに、聞こえる音も、見える景色も、少しだけ違っていました。
漣が一人で来た日があった。
陽葵は来なかった。
志乃が百二十五ページを読んでいると、引き戸が枠の端まで開ききった。
足音が入ってきた。
一つ奥のテーブルへ向かった。
椅子を引いた。
座らなかった。
椅子を引いたまま、立っていた。
「なあ」と漣は言った。
「なに?」
「隣、いいか」
志乃は顔を上げた。
漣は志乃のテーブルを見ていた。
一つ奥のテーブルではなく、志乃のテーブルの、隣の椅子の方向を見ていた。
「図書室の椅子はみんなのものよ」と志乃は言った。
漣は一つ奥のテーブルから歩いてきた。
志乃のテーブルの、一つ隣の椅子を引いて座った。
鞄を置いた。シャープペンシルを出した。
ノートを開いた。
志乃は百二十五ページに目を戻した。
「前と違う場所に座ったな」と漣は言った。
「そうね」と志乃は言った。
「いいのか?」
「別に、言った通りよ」と志乃は言った。
漣はシャープペンシルでテーブルを一回叩いた。
それからノートに書いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
志乃は読んだ。漣は書いた。
隣のテーブルとは、音の届き方が違った。
シャープペンシルの音が、少し近かった。
紙の上を走る細い音が、はっきりと聞こえた。
でも、以前ほど気にならなかった。
いやじゃなかった。
志乃は百二十五ページを読み終えた。
百二十六ページをめくった。
「志乃ってさ」と漣は言った。シャープペンシルを走らせながら言った。
「なに」
「水みたいだよな」
.「水とはどういうこと?」
「混ざらないじゃん」と漣は言った。「何が来ても。でも、そこにある」
志乃は一行読んだ。
「あ、でもな。それって、」と漣は言った。「悪い意味じゃないんだ」
「わかっている」と志乃は言った。
「わかるのか?」
「声の温度で」と志乃は言った。
漣が、短く笑った。声が出た。
小さかった。
「そういうとこだよな」と漣は言い、ため息をつく。
ページをめくった、ではなく、シャープペンシルが紙の上を走る音がした。
「俺さ」と漣は言った。「最初、志乃のこと苦手だったかもしれない」
「そう......」と志乃は言った。
「反応しないから」と漣は言った。「こっちが何しても」
「シャープペンシルを落とした」と志乃は言った。
「あれは事故だ」と漣は言った。
「ドアを勢いよく開けた」
「それは癖。気を付けるよ」
「毎日来た」
「......それは」と漣は言った。「意図的だったかもしれない」
志乃は読んだ。
「苦手だったのが」と漣は言った。「いつの間にか違った」
「いつから?」と志乃は言った。
「変わるのは自分の方だって言ったとき」と漣は言った。「本は変わらないって」
志乃は百二十六ページを読んだ。
「シャープペンシルを落とした頃?」と志乃は言った。
「あー」と漣は言った。「あの日か」しばらく間があった。「ずいぶん前だな」
「夏だったかな」と志乃は言った。
漣はシャープペンシルを止めた。
窓の外を見た。
松林の向こうに、水平線の気配があった。
見えなかった。
気配だけがあった。
今日の濃さを、志乃は知っていた。
「水平線って」と漣は言った。「見えないけど、あるんだよな」
「ある」と志乃は言った。
「志乃みたいだな」と漣は言った。
志乃はページを読んだ。
「見えないが、あるということ?」と志乃は言った。
「そう」と漣は言った。「そういうこと」
しばらく、何もなかった。
漣がノートに書いた。
今日は長く書いた。
シャープペンシルがノートの上を止まらなかった。
志乃は百二十七ページをめくった。
右手の指が、ページを押さえた。
紙の繊維が逃げる程度の力だった。
窓の外の松林が、静止していた。
その向こうにある水平線の気配が、今日はいつもより濃かった。
漣はようやく、志乃を「冷たい」ではなく別のものとして見始めています。
水や水平線のように、触れられなくても、確かにそこにあるものとして。
隣に座ることが自然になった図書室で、三人の関係は静かに季節を越えていきます。




